一枚だけだけれども画家一筋のヴァン・ゴッホの記事で引用したヴァン・ゴッホが描いた灰色のフェルト帽を被った自画像に神様が見えて来たからブログに改めて取り上げておきたいと感じた。
僕の言葉遣いが霊感そのものなのと同じで、気付いた訪問者がいれば一人怪しく訝らせるのは忍びない。
神様が見えて来たとしても君だけではなくて僕もそうだから間違いなく安心して欲しい
きっと僕の言葉遣いが霊感そのものだと気付くよりも人々にとって意外にも灰色のフェルト帽を被った自画像に神様が見えて来るという可能性は高いだろう。
理由は簡単だ。サイト全体のイメージに合ってないというか、些細な日常のブロガーがゴッホではないから僕ばかりの自己表現が多いところで、取り上げられた他の誰かの作品の個性的な特徴が比較的に目立ってしまうせいだ。
本当に驚くし、僕は絵から神様と出会うのは初めてだったので、ヴァン・ゴッホへも興味や関心が変わってしまう、一段とさらに素晴らしく。
灰色のフェルト帽を被った自画像に神様が見えて来るのは心の目でしかないはずだけれども普段とはちょっと違う。例えばモーツァルトの音楽のように普遍的な芸術作品ではないのではないか。ブログの記事で取り上げる以前にも良く見ていたのに似通った気持ちは全く湧かなかった。神様と出会うという可能性は基本的に想定されないし、ヴァン・ゴッホ自身も絵を描きながら意図してなさそうだったんだ。
すると些細な日常の記事の画家一筋という文脈から引き出され得た真実になっているといって良い。
絵の見方が特別に指定されるために灰色のフェルト帽を被った自画像に神様が見えて来たか
この世だけで神を判断してはいけないとだんだんおもうようになった。世界は彼のしくじった試作なのだ。
作者を愛していれば、失敗した習作でも――それほど非難せずに――黙って居るだろう、そうじゃないか。
でも、もっとよいものを要求する権利はある。
心の目からすると最も重要なのは顔の表情が包括されていた。普遍的な芸術作品と受け取られる内容を備えているせいだ。ヴァン・ゴッホは一筆毎に色や形を変えながら灰色のフェルト帽を被った自画像を精密に制作していて天才としか呼べないけど、それは珍しくない。集大成としては烏のいる麦畑が完璧だし、世界は容易には汲み尽くせないくらい自然と不可分なまでにリアリティーを超常的に高められている、いい換えれば一筆にメッセージが込められていて互いに寄せ集められながらイメージを無限大に展開しているようなんだ、ところが興味深いのは顔の表情について全てが網羅されているのではないか。絵の微細な質感の組み合わせによってヴァン・ゴッホの顔付きが全体的な雰囲気として落ち着き払っているだけではなくて数多に引き出され得る。
灰色のフェルト帽を被った自画像はイメージが最小限の構成要素にまで分離された余りに細か過ぎる自己表現から人々によって想像される恒久的な芸術作品なんだ。
感情から捉えると喜びから悲しみまでの本当に多種多様な真実、または人生が味わわれてしまうし、人間性が超越されているとも過言ではなかった。
ならば灰色のフェルト帽を被った自画像に見えて来る神様というのは全知全能の創造主としての存在そのものの無限性だろう
心の目を通して分かるのはヴァン・ゴッホが画家一筋で生きている情熱的な存在が普遍性を持っているせいだし、噛み砕いていえば人間として誠実だからそうした気持ちを嘘偽りなく絵に打ち出していると考えられるかぎりだけれども些細な日常の一つの見方に由来している。
ヴァン・ゴッホの眼は偉大な天才の眼である。だが、キャンヴァスの奥に立ち現れて私自身を解剖する際のその解剖の仕方から見て、そのとき彼のなかに生きていると感じられるのは、もはやひとりの画家の持つ天才ではなく、私がかつて出会ったことのない哲学者の天才なのである。
ヴァン・ゴッホのどんな自画像を引用するかで少し迷ったけれども手がかりというか、アルトーがヴァン・ゴッホのエッセイで取り上げていた作品と同じでやはり相応しかったようだ。
結果は神様だから「哲学者の天才」ならば突き抜けていたというと間違いなのが本当かも知れない。注釈しておくとアルトーは別の著作で自分自身を神様と捉えたりもしていた。思考において分かるかぎり、それぞれは通じ合っているはずだった。
アルトーの「哲学者の天才」は実際には神様の別名なんだと納得させられてしまう
思考は同じだけれどもアルトーもヴァン・ゴッホについて神とは口に出さないように画家としてユニークなのは灰色のフェルト帽を被った自画像では哲学よりも透き通っていた。
本質的に思考そのものが哲学ならばそれ以外で全く示さないスタイルというのは理性的な人間の自己表現として凄まじく素晴らしい生き方だろう。
だから僕も本当に画家一筋とヴァン・ゴッホを燃え上がる情熱と共に捉えざるを得ないし、絵描きの人生に受け取る思考から哲学的な画家と呼ぶだけでは掴み切れない素性が永遠に気に入ってもいるんだ。
世界を表現するイメージが多面体の様相を帯びているために纏まり切らない思考しか実現されてないかぎり、一つの自画像を画家の思考において纏めながら誰にでも神が見えて来るような絵だと定義するのは虚しいはずだ。
ヴァン・ゴッホは優しいと受け取めたい。人々にイメージを無限大に広げながらいつでもどこでも想像する自由を与えていた。透き通る思考によって自然に展開される真実しかないというスタイルは今此処が幸せなせいだろう。絵としては出会いの良さが全てを物語っていると称えるべきだと感じる。
神様が心の目に見えて来る灰色のフェルト帽を被った自画像は可愛い。本当かどうかを定義するのが虚しくて画家の人柄が優しいせいで、もしもヴァン・ゴッホが神様ならば神様から把握されたヴァン・ゴッホを描き出した自画像としか経験されない。聖典が万物を極意的に封じ込めたのと変わらず、灰色のフェルト帽を被った自画像はヴァン・ゴッホ自身を知るためには小さいわけなので、気持ちは正しく可愛い絵なんだ。
当たり前ならば作品から作者へと魅了されるほどに覚え込まれた印象のままに飛び越してしまいがちな感無量の思いを初々しく振り撒きながらつとに目覚めさせて止まない。
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