沖雅也の涅槃への自殺と双極性障害 結城永人 - 2022年7月19日 (火) かつて俳優の沖雅也の自殺が伝えられたとき、遺書の言葉とされた「おやじ、涅槃でまっている」と共に何なのかと疑問を感じたのを良く覚えている。聞き慣れない「涅槃」という言葉が入っても何十年も過ぎた今振り返っても自殺者の遺書として本当に珍しい表現だったと改めて驚く。 沖雅也が書いた涅槃とは何か Buddha in Nirvana in Tokyo National Museum by Daderot / Public domain 涅槃(ねはん)インド発祥のヒンドゥー教やジャイナ教や仏教の概念で、命が生と死を繰り返す輪廻を越えた状態を意味する。あらゆる迷いや苦しみの煩悩を断ち切った悟りによる完全に自由で静寂で幸福な境地、解脱として捉えられる。 ※宗教や宗派によって概念的な意味合いは異なる。 参考サイト涅槃 仏画や仏像で涅槃仏や涅槃像というのを見かけるけれどもおよそ釈迦が右側を下にしながら横になって右手で頭を支える体勢が取られていて煩悩を吹き消しながら涅槃に至る入滅を表現している。 沖雅也が自殺した遺言の内容 オープニング|俺たちは天使だ!|日本テレビ 沖雅也の自殺の遺言として報道された「おやじ、涅槃でまっている」は実際は遺言の宛名だったらしい。「おやじ」は実父が亡くなってから養子縁組で養父になっていて所属する芸能事務所の社長でもあった日景忠男を指している。彼がホモだったので、性の多様性が殆ど知られない時代に沖雅也との関係がさらに謎を呼んだりもした。 今… プラザホテル様へ 大変申し訳なく、お許し下さいませ。 つかこうへい様 あなたの名、つかを使いし僕をゆるせるものならおゆるし下さい。 人は病む。いつかは老いる。死を免れることはできない。 若さも、健康も生きていることもどんな意味があるというのか。 人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。 老いと病と死とを超えた人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることが 正しいものを求めることと思うが、今の私は誤ったものの方を求めている者 おやじ、涅槃でまっている。 「おやじ、涅槃で待つ」という遺書。 - こんな印象的な遺書を遺して自殺...|Yahoo!知恵袋 沖雅也は宿泊中だった東京都新宿区の京王プラザホテルの四十七階のバルコニーから飛び降りて自殺した。 遺書の冒頭で死に場所に選んだ「プラザホテル」と部屋を借りる際に使った偽名の知り合いのつかこうへい(劇作家)にお詫びしている。 本文で自殺の動機が語られるけれども抽象的で哲学的な内容になっているのが驚く。文字通り、人生に疲れたというか、自らの存在そのものに価値を見出だせず、現世に別れを告げたい一心が吐露されている。生活上の問題を何か抱えていたとしても自殺の動機ではないとこれほどはっきり分かる遺書もないのではないか。本当に弱り果てた精神から死を選ばざるを得なくなった内的な状況が短いけれども明らかに伝わって来る。 死んで向かう場所は涅槃という真意を問う 一筆啓上 姦計が見えた|必殺仕置屋稼業|ABCテレビと松竹 一見すると自殺で涅槃に至ろうとするのは安易な発想だと感じる。宗教上、必要なはずの修業などの正しい生き方が取り除かれている。只単に死後の安逸、今此処の苦しみから死ねば逃れられるということを涅槃と表現しているように受け取れる。 しかし「今の私は誤ったものの方を求めている者」という自殺願望者でも涅槃に至ると全く考えられないわけではない。 人間は世の中の何もかも分かるものではないとしたら正しい生き方も誤った生き方も結論を下すことはできない。そのかぎりにおいて自殺願望者がたとえ誤った生き方だとしても予想外に死んで涅槃に至る可能性が出て来る。 沖雅也はどちらを考えていたか。遺書の内容からすると「若さも、健康も生きていることもどんな意味があるというのか」と人生の意味が問われているので、「結局何かを求めていることにほかならない」も生きている間に答えは出ない(求め続けるしかないのが答えだ)という認識を示していると受け取れる。 涅槃は只単に死後の安逸というよりも今此処から知る由もないものと捉えられたかも知れない。 すると「おやじ、涅槃でまっている」は確実な言葉ではない。可笑しみも感じるほどの期待を込めた想像上の目的地を伝えたという。もしかしたら行けるので、そのときは宜しくみたいな表現になっている。相手も死んでからどうなるかは分からない点で本当にユーモアを認める。 沖雅也の遺書は人を楽しませるようなところがあってエンターテインメントとも過言ではない書き方なのが本当に珍しいし、死を間近に控えながら少しも狼狽えない姿勢が見受けられるのがたとえ嘘でも人間的に凄いので、生きながら知ることが出して良かったと個人的に感謝することさえも吝かではなくなる。 沖雅也が死を選んだ理由について 花の棺|京都殺人案内|朝日放送と松竹 沖雅也は児童期に父親の破産かあって中学時代に両親して父方に付いたけれども折り合いが悪くて卒業前に家出したという生い立ちがある。 大分県から東京都へ出て来て名前や年齢を偽りながらホテルに宿泊して様々な仕事で生計を立てた。 十六歳のときに古賀誠一にスカウトされて俳優の道に入ると同年に映画のある少女の告白 純潔の出演で、エランドール賞の新人賞を取って頭角を現す。 数年、映画界で伸び悩んだようだけれどもテレビの人気ドラマのキイハンターや必殺仕置屋稼業や太陽にほえろ!や俺たちは天使だ!などに出て誰でも知るような俳優になった。 遺書の宛名の「おやじ」の日景忠男とは沖雅也が十六歳のときにホモバーでアルバイトをしていて客として知り合った。 九州から家出してきた16歳の沖と日景氏が知り合ったのは、池袋の「ぐれえ」というバー。日景氏によれば、月12万円を払う約束で週に一度、部屋に来てもらうようになったという。 「私は同性好きだけど、彼は違っていた。沖は食っていく手段として、仕事を選んだだけ。普通に女性が好きな男でしたね」 しかし、日景氏の沖への思いは強くなる一方だった。沖のために「一騎プロ」(のちのJKプランニング)を立ち上げると、社長兼マネージャーとして常に寄り添った。 沖雅也の死後に養父が激白「肉体関係は何の愛情もない、乾いたものでした」/壮絶「芸能スキャンダル会見」秘史|アサ芸プラス|徳間書店 日景忠男は沖雅也の最大の恩人といっていいけれどもホモとヘテロという性状の違いがあってホモへの差別意識が減った今の世の中でも不可思議な印象を与える。 日景忠男は恋愛に近い感情があったとしても沖雅也は必ずもそうではないとすると前者が後者へ献身的な働きかける思いは無償の愛のような純粋さへ昇華した格別のものかも知れなかった。 当時、沖雅也の自殺に加えて日景忠男の記者会見の大泣きしてどうにもならない様子も本当に良く覚えている。 関連ページ石原裕次郎が太陽にほえろ!の最終回のために考えた命の尊さ 双極性障害の自殺率は精神疾患として高い 日景忠男/スーパージョッキー|日本テレビ 日景忠男によると沖雅也は自殺する三年前から躁鬱病、現在は双極性障害と呼ばれる精神疾患に悩まされていた。 双極性障害/躁鬱病気分が非常に落ち込む鬱状態と気分が非常に盛り上がる躁状態を交互に繰り返す気分障害の一瞬とされる。 躁鬱の入れ替わる間は通常の気分でいる。三つのタイプに分類される。双極I型障害:明らかな躁病を伴うもの。双極Ⅱ型障害:軽い躁病を伴うもの。気分循環性障害:躁鬱とも軽度なもの。遺伝的な要因が強く、生涯、続くことが多いけど、治療によって症状を和らげることもできなくはない。 参考サイト双極性障害について 沖雅也は自殺未遂の自動車事故を起こした際に双極性障害を診断された。人気が爆発して過労の影響もあったかも知れないけれども双極性障害が遺伝的な要因が強いということは中学時代の家出や未成年での一人暮らしなども躁状態から起きなかったとはかごらない。交通事故の後には肝炎を発症して災難が続いた。薬の副作用で浮腫みや肥満があって双極性障害も重くなったといわれる。見た目が変わることは俳優にとって厳しいかも知れないし、悩みが増したとしても不思議ではない。 世界保健機関(WHO)「Preventing Suicide: a global imperative」(2014)では、自殺で亡くなった人のうち精神障害のある人は90%であり、自殺関連行動と最も関連のある精神障害はうつ病とアルコール使用障害であるとしています。また、自殺の生涯リスクは気分障害4%、アルコール依存症7%、双極性障害8%、統合失調症5%と推定され、併存疾患があると自殺関連行動の危険は増大し、精神障害が2つ以上ある人は自殺の危険が有意に高いと記されています。 自殺の予兆への介入|こころの耳|厚生労働省 双極性障害は自殺の相当な誘因になる。躁から鬱へ移ったときに激しく思い悩んだり、二つの混合状態を伴う場合も落ち着きを酷く失っている。統合失調症や鬱病よりも自殺率が高いといわれるから注意を要する。 沖雅也は非常に知的な言葉遣いで遺書を認めて自らの命を絶ったけれども双極性障害を患っていたせいなのも否定できない。病的な気分だけではなくて通常の気分もあるから死因をどちらかに限定することは難しいと思う。 日景氏は生前、沖は自殺する3年前から躁鬱病だった、と明かしている。 「さらに沖が亡くなった後、日景は、彼が飛び降りる直前に声を掛けたというガードマンにも話を聞いた。すると、飛び降りたというより、バルコニーの縁に座っていた沖に“何やってんだ”と声を掛けたら、驚くような感じで振り向き、バランスを崩して落ちた、と説明したというのです」 沖が当時、精神的に不安定であったことは間違いない。ただ、日景氏は、沖は本気で死のうとは思っていなかった、と見ていたのだ。 「沖雅也」が涅槃で待った「日景忠男」晩年の煩悩|デイリー新潮|新潮社 日景忠男は沖雅也が死んだのは自殺ではなくて事故と捉えていた。遺書は書いても本気で死ぬつもりはなかったという。彼の自殺を認めたくない気持ちが誰よりも強かったのだけは間違いないだろう。 沖雅也の遺書は精神疾患がある人が知的に劣るとはかきらないと良く分かるし、むしろ苦しみを抱えているからこそ冴え返るような閃きの凄さも含んでいると思う。 宛名の一文が衝撃的で忘れられないけれども本文も抜き差しならない人間存在の根本的な儚さを告げている。彼が自殺したのは悲しいにせよ、正しく命懸けの思考に他ならない遺言は今此処を生きるかぎり、貴重と共に重要な示唆を与えてくれる。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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