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α5100とTouit 2.8/50Mの初夏の晴れた公園の花々の撮り歩きの五つの作例

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ゴールデンウィークの前半、四月三十日に良く晴れて暖かったので、地元の公園に愛用のカメラのSonyのα5100レンズのZeissのTouit 2.8/50Mを携えて花々の写真の撮り歩きに出かけた。
目当ては何といっても山の裏道でひっそり咲いているのを見付けて大喜びした鈴蘭だ。
好きな花だけど、しかし白一色で小さいからピントが合わなくて動かなくても写真撮影には手強いとも知った。最初は失敗ばかりだったし、スマホやコンパクトのカメラでは被写体の輪郭を十分に取れなくて――光の少ない木陰の鈴蘭にかぎればもはややるだけ無駄の散々な境地を強いられるばかりだ――たとえ一眼レフのカメラでも露出やシャッタースピードや絞り値などをしっかり覚えて細かく調整しないと厳しかった。鈴蘭との出会いは写真家として相当に練習になった。
二年目の去年は山の裏道の鈴蘭の集落へ何度も足を運んで試行錯誤を繰り返しながら葉っぱ満開散り際などの納得できる作例を多く残せたと思う。
今年も頑張るつもりだったけれども日頃の生活難に加えて寒暖差アレルギーの体調不良で無理かも知れなかった。
しかし何とか起き上がって天気も良好だから三年目の鈴蘭の写真撮影に挑み得たのは幸いだった。
満開なのは一週間も続かないようだし、雨が降ると直ぐに汚れて散りかけそうだから一日だけ出かけても真っ白に咲いた鈴蘭は撮れないのではないかと心配されたもののタイミングも良くて被写体には事欠かず、写真撮影は狙い通りに進められた。
α5100とTouit 2.8/50Mの作例①花柄が以前よりも総じて小さい鈴蘭だった

公園の山の集落では虫に食われた葉っぱも多くて育ちが悪いようなのを悲しんだ。雑草も目立つので、遠めから撮るのは気が進まない。レンズのTouit 2.8/50Mがマクロだから近寄ってこそ本領を発揮するけれども花が段々と幾重にも気持ち良く垂れ下がって並んでいる感じが出せないのが参った。花弁の縁の反り返りも歪みがちだ。
落ちた花は全くなかったし、蕾が幾らかあったので、もう少し後が満開だったかも知れない。
直ぐに雨が降ったから今年の地元の公園の鈴蘭が晴れ間に最も輝いた瞬間を表現できたと納得してはいる。
振り返ると四月が例年よりも暖かくて雨が少なかったのが鈴蘭の育ちに影響したのか、何れにせよ、花も葉っぱも小さ過ぎる印象を与えるのは自然の姿として捉える他はないし、何より…

クリスティン・フォークトの日常生活をドラマチックに表現した写真は本当に素晴らしい

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写真の良さは元々は記憶が目に見えるところにあったと思う。過ぎ去った時間が目の前にある驚きが人々を衝撃的に魅了して世の中に広まったのではないか。一つの魔法なんだ。どんな写真でも同じだけれども被写体に注目するとしかし気付かなくなる。写し出された世界が只単に見えると共に奇跡的な味わいを持っていて如何にも写真らしくスタイリッシュに表現するのは難しい。
Woman's face in winter by Kristin Vogt [CC0], via Pexels
クリスティン・フォークトは完璧だと甚く感動した。何気ない瞬間が魔法にかかって写真に生まれ変わっているとすると本当に素晴らしくて些細な日常だから個人的に相当に引き付けられもするんだ。
日常生活がドラマチックに受け取られるのは写真家が実現した奇跡的な味わいのせいだ。スタイリッシュな撮り方が非常に際立っている。精妙でちょっと分かり難い――写真家において全てが上手く行き過ぎて恐いくらい自然そのものに纏まっていてイメージに込められた気持ちの詩も透き取っているようだ――けれども被写体に注目するとドラマの一場面を確かに思わせる。人生の流れから取り出され記憶ならでのリアリティーが尊ばしくも存分に繰り広げられている写真なんだ。
センスがお洒落なので、ファッション雑誌の切り抜きのようにも受け取る。知るや否や焦った、どこかでパクったのでは不味いと無料で使える写真にしては完成度が飛び抜けているし。もはやGoogleの画像検索にかけてチェックせずにはいられなかったけれどもクリスティン・フォークトは自分の写真を公開している可能性が非常に高いだろう。美しさも被写体そのものはさほど金銭を費やしてなさそうだからファッション雑誌のプロの写真家でなくても本人の表現力でカバーできる範囲に収まっているのは間違いないと思う。
Golden retriever by Kristin Vogt [CC0], via Pexels
A woman with a smile by Kristin Vogt [CC0], via Pexels
Half-eaten blueberry donut by Kristin Vogt [CC0], via Pexels
Dawn beach by Kristin Vogt [CC0], via Pexels
何でも構わないけれどもク…

ジェス・フォアミの写真は透き通った世界の清らかさが理想的な創作活動で感動する

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タイの写真家でジェス・フォアミの写真がとても良いと引き付けられた。写真を載せているPixabayのアカウントがcunconというので、辞書で調べてみると「cun con」はタイ語で赤ちゃんを意味するらしい。写真の趣きからすると天真爛漫なイメージを表現したいのではないか。
A girl in white clothes by cuncon [CC0], via Pixabay
または天使の情感ともいえる。心の味わいが詩的なのが素晴らしくて目が離せない。透き通った世界の清らかさが被写体の全てに広がっているような写真だと思う。
目に移る自然の光景があるがままで素敵だと良く分かるという撮り方で、些細な日常の良さを的確に示しているのは個人的にも愛さずにいられないわけだ。
Summer beach by cuncon [CC0], via Pixabay
臨場感が心地良いから写真を見ながらそうしたイメージの中へ行ってみたいと感じるのは自分も表現者としてジェス・フォアミと同じように皆を引き付けられると有り難いととても参考になる。
写真家のPixabayのアカウントの付け方で考えると赤ちゃんならば赤ちゃんという必要性をしっかり引き受けて創作するのが大事なんだ。
若いうちは簡単だけれども年を取ると難しい。自分にできないことが分かり過ぎる状態ではないか。だからできることにも迷ってしまい易い。悲しまなくて本当は良いんだろう、老いの情けなさを。思い切って自分にできることに挑みかかれば若々しい気持ちがして来るのも明らかだし、人生に頑張り甲斐を新しく掴み取る。
A man watching a smartphone by cuncon [CC0], via Pixabay
ジェス・フォアミの写真にはいつかどこかで見たような既視感が不思議な懐かしさを湛えながら漂っている。きっと人々が無意識に求めている喜びを写真家として捉え切っているせいだろう。タイの国柄もあるにせよ、天真爛漫なイメージ、または天使の情感が真実だから胸に共鳴するに違いない。
誰が受け取っても疑い得ない表現力を発揮できるのは理想的な創作活動だと憧れてしまう。
上手く行っていると天国に、一番、近い島と歌って良いはずだし、清らかな思いから他でもなく、感動する写真家のジェス・フォアミの写真は美しくて麗しい光の恵みを封じ込めている。

クロザルの自撮り写真の著作権がクロザル自身にないのは動物の創作活動だからだった

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写真家のデビッド・スレーターがインドネシアのスラウェシ島で絶滅危惧種のクロザルにカメラを設置してシャッターを切らせた自撮り写真の著作権がどこにあるかが分からなくて社会問題になった。
Monkey selfie row via BBC News
一旦はWikimedia Commonsに掲載されてクロザル自身がカメラのシャッターを押した作者ながら著作権を持たないから勝手に使って良いとパブリック・ドメインになったけど、ところがデビッド・スレーターは自分がカメラを設置してクロザルに自撮りを仕向けた共同制作者だから著作権を持つと主張してサイトのコンテンツから取り下げて欲しいと法廷での争いが起きてしまった。
2014年にアメリカの著作権庁がクロザルがカメラのシャッターを押した作者でも動物だから人間のように著作権の対象にはならないという判断を下したので、デビット・スレーターは共同制作者として認められず、パブリック・ドメインを主張するWikimedia Commonsが勝ったらしい。
デビット・スレーターはアメリカでのクロザルの自撮り写真の著作権を失ったけど、しかしそれを使って写真集を売り出していたのがさらにPETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)に民事訴訟を起こされたんだ。
アメリカの著作権法では動物の著作権を禁止していないからクロザルが著作権を持つと改めて主張してデビット・スレーターの権利侵害とクロザルの代理人として権利行使を求めるという主旨だった。
2017年にPETAがクロザルに著作権はないとした判決に控訴していたのを取り下げたけれどもデビット・スレーターが自分が著作権を持つと共に野生動物を保護する慈善団体にクロザルの自撮り写真を使って出版した写真集の収益の四割を寄付すると和解が成立したらしい。
両者は共同声明の中で、この一件により「人間以外の動物にまで法的権利を与えることについての重要かつ最先端の問題を取り上げた」と述べています。
著作権が問われた「サルの自撮り」の法廷闘争がついに完全終結 via GIGAZINE
概して動物に著作権があっても良いはずだけれどもどこからどこまでが創作物なのかの線引きは相当に難しい
知的財産権の一種としては動物の精神状態が分からないと立法しても曖昧になってしまう。
人間と同等に捉えるならばWikimedia CommonsやPETAが主張するようにクロザ…

ルイス・キャロルの最後のアリス・リデルの肖像写真の不思議なカメラの向け方に思うイギリス文学と詩的な感性

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The Last Sitting by Lewis Carroll [Public domain], via The Metropolitan Museum
写真家としてのルイス・キャロルを発見して乞食娘のアリス・リデルが非常に素晴らしくて飛び抜けて良いと感じたけれどもそれに次いで記憶に残るのが椅子に腰掛けたアリス・リデルの肖像写真で、ルイス・キャロルがアリス・リデルを撮影した中では最後の一枚といわれている。
右上から微妙に見下ろしたカメラの向け方が小説の不思議の国のアリスを彷彿とさせるくらい如何にも不思議だと感じさせられてしまう。
ルイス・キャロルは数学者で普段は理知的だったのとは対照的にそうした日常生活の安定性を真っ逆さまに揺るがすほどの遊び心を持っていたとナンセンスな小説の愉快な書き方から分かる。
イギリス文学だとローレンス・スターントリストラム・シャンディが全ての小説の始まりではないかと分かり易い物語と切り放して考えられるほどに支離滅裂でナンセンスだった。そして支離滅裂でナンセンスな小説というとジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイクが言葉遣いまで引っ括めて完全に打っ壊れたように徹底的にやっていてもはや普通に読めないところまで行っているのが世界的にも有名かも知れない。個人的にはサミュエル・ベケットを最も高く評価するけれども訳の分からない小説ばかり書いていたものの最初の特に誰にも相手にされなかった並には勝る女たちの夢がハチャメチャそのものの作風と同時に無名で貧乏なのにやっていたから小説家として《意味不明な自己表現》に人生を賭けていたと畏敬せずにいられなくなる仕上がりなんだ。哲学的にも命懸けで読み得るし――アントナン・アルトーの思考の不可能性に社会上の接線を持っているのではないか――本質的に重要な作家の一人に他ならないと僕には数えられもする。しかしイメージだけならば小人の国で理解不能に陥ってしまう主人公を描いたジョナサン・スウィフトガリヴァー旅行記が物語としても非常に分かり易くて日本でも子供から大人まで不朽の名作として良く親しまれていたり、イギリス文学ではナンセンス小説はおよそ珍しくなくてルイス・キャロルの不思議の国のアリスも驚くに値しないとも過言ではなかったかも知れない。
日常生活から捉えると遊び心が満載なので、写真の最後の一枚の十八歳のアリス・リデルの肖像は…

乞食娘のアリス・リデルの湿板写真から逆算するルイス・キャロルの不思議の国のアリスへの本当の願い

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ルイス・キャロル不思議の国のアリス(小説)にはモデルが実在していたらしい。主人公のアリスと名前が同じのアリス・リデルという。他にも兄弟姉妹が、九人、いて作者のルイス・キャロルは数学講師で在籍していたイギリスのオックスフォード大学のクライストチャーチを出会いの場として当時の学寮長だったヘンリー・リデルの一家と交流していたんだ。休日には子供たちとも良く遊んでいたらしくて不思議の国のアリスの成立には取り分けロリーナとアリスとイーディスの三姉妹(リデル家の長女と次女と三女)が大きく関わっていたといわれる。
Edith, Ina and Alice Liddell on a Sofa by Lewis Carroll [Public domain], via The Metropolitan Museum
しかし中心的な位置を占めていた子供が小説の主人公と同名のアリス・リデルだったようで、元々は地下の国のアリスとして個人的に「クリスマスプレゼント」と贈っていた作品が知人の出版への勧め――ある日、作家のジョージ・マクドナルドの夫妻と居合わせた息子のグレヴィルの目に喜ばしく留まったせいで――から加筆修正を施されて小説として完成したのが不思議のアリスだった。
経緯がとても面白い。世界中に広まって数え切れない人々に読み継がれていている作品が元々はたった一人のために作り出されていたという。人生で成功を爆発的に収めたければモチーフもやはり皆を考えては駄目なのではないか。それこそ個性が他でもなく引き付けるようにたった一人のための思いを掴んでおくと良いとはっきり分かってしまうような実例を与えている。
自己表現でモチーフまで作者の個性に合わせると作品の人気は皆の好き嫌いに左右されるはずだし、尊ばれるかどうかは運任せになりそうだから、丸っきり、失敗を余儀なくされる危険性もあるかも知れないし、するとルイス・キャロルの不思議の国のアリスが不朽の名作と人々に十九世紀の後半から歴史的なまでに知れ渡った現実は一か八かの賭けに他ならなかったとも過言ではない。
本人は最初から期待してなかったわけで、小説が売れなくても数学者としてオックスフォード大学から生活費を得ていたし、平々凡々、どうでも構わなかったみたいだ。なので小説家としては無邪気な成功を偶さか上手く収めた格好ではなかったか。無難といえば無難なばかりの人生設計…

花々のマクロ撮影は世界が変わる瞬間を色鮮やかに写真に残せるのが嬉しい

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マクロ撮影はどんな被写体でも世界が変わる瞬間を写真に残せるのが面白いと思うけれども取り分け花々だと色鮮やかに仕上がるから今正に見方が新しく生み出されていると求められるリアリティーが増して来るようでいつも嬉しい気持ちが大きい。
ミラーレス一眼カメラのα5100にさらに等倍マクロレンズのTouit 2.8/58Mを購入して以来、写真のマクロ撮影の作例がどんどん増えて行くばかりだ。
最初は世界が変わる瞬間に怖がっていたかも知れない。被写体を傷付けるのではないかと一つの慣れ親しんだ見方の崩壊、または逸脱に心を僅かにも苛まれずにいなかったような感じがする。しかし常日頃のイメージだけが正しいわけでは決してないはずだし、写真のマクロ撮影は被写体に隠された新しい真実をはっきり引き出せるところが良いんだと考えるほどに積極的に取り組めるようになった。
とはいえ、実際に取り組んでみるとマクロ撮影によって被写体への一つの慣れ親しんだ見方が余りにも変わり果ててしまって何が写っている写真なのかも咄嗟に分からない場合には精神的な混乱を招くのが心残りだと悲しみながら又躓くように狼狽えずにもいなかった。
写真家として何をどう捉えるかのどうだけでは不味いと考え込んでしまうし。何をが改めて問い直されるんだ。

マクロ撮影を本当に望んで積極的に取り組むと常日頃のイメージを狙いの部分に切り分けるくらい被写体に近付いて行く。全体に何なのかがもはや分からなくなる瞬間が薄気味悪く受け取られもするわけで、耐え難い苦しみを余儀なくされざるを得ない。止めるべきではないかとカメラを持つ手が震えて気持ちから引き下がろうと案じる。
するとしかし驚くのは美しさが閃いたりもするんだ。
被写体から薄気味悪くて離れ去った記憶の中にたとえ部分でしかなくても新しい世界の良さが写真家として経験されたせいだろう。
全体のイメージとは必ずしも合致しないという又別の美しさが諸々の部分には潜んでいる場合があるに違いないわけならばカメラに収めずに捨て去るのは惜しいし、または忍びなくも引き付けられるかぎりは追い求めて行くしかなくなるように気持ちは情熱的に切り替えられるんだ。
被写体の部分的な魅力を捉える写真は本当にマクロ撮影でなければ殆ど不可能なスタイルなので、醍醐味といって良いと思うし、そうした特徴的な素晴らしさに気付いて取り組むほどに面白いばかりで、新しい世界との…

アレクサンダー・セメノフの壮麗なかぎりの水中写真と野生動物を撮影する際の心構え

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一度、目にしたら容易に忘れられない美しさとはこれではないかと感じさせて止まない壮麗なかぎりの水中写真の数々を生物学者で写真家のアレクサンダー・セメノフの写真撮影から驚きながら覚えたんだ。
Pegea confoederata by Alexander Semenov via Flickr
色鮮やかで不可思議な形の生き物たちが幻想的な印象を与える。さながら御殿のようだ。思い起こすとやはり壮麗なかぎりだけれども手放せない幸せが人生で尊く示されていて足を踏み入れた誰も彼もが心から喜んでいる。極楽とも過言ではない様相を呈していて現世での不満は吹き飛ばさてしまう。苦しいだけの毎日からは嘘みたいな本当の世界としての住処だ。もはや立ち去ろうとは認められず、去り難いかぎりの思いに駆られる。幻想的な印象と共に御殿とそっくりの生き物たちも胸一杯の真実こそそれぞれに固有の仕方で体現しているわけだ。
しかし人々の美しさへの発想が自然界から取り込まれているとすれば自己表現の事情はおよそ反対かも知れない。素晴らしい建築物のイメージは生き物たちの魅惑する様子にこそ最初から含まれていたと考えて良い。美しさとは何かの問いかけに改めて気付かされるほどに愛しさが増して来る。根源的にいえば些細な日常の触れ合いの奇跡、つまりは好運な恵みだろう。身近な愛しさによって美しさもさらに遠大に生み出され得るに違いない。少なくとも魅惑する様子の生き物たちから目が離せなくなる気持ちは他の世界よりもずっと身近で、抜き差しならない状態を示していると認める。美しさは愛しさだと呼ぶだけの今此処が正しく楽園のようで、よもや尊べばいっそ何もかも抱き締めたくなるくらい衝撃的に感じ入る。
One Lesson I Learned in Photography - Episode 3: Alexsander Semenov via EIZO Grobal
アレクサンダー・セメノフによれば驚きながら受け取らざるを得ない壮麗なかぎりの水中写真の数々をどのように撮影するのかで最も大切なのは生き物を知ることらしい。
野生動物の写真を撮影する場合はまず第一に被写体を知る必要があります。
カメラを設定することやとても良質な望遠レンズを幾つも揃えたりすることでは全くないんです。
まず第一に必要なのは動物の行動やいつどこで出会えるかを知ることです。
One Less…

見納めの鈴蘭の花へ耽る感慨と止められないくらい引き付けられる写真撮影での最も興味深いところ

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先週から雨が多くて満開だった鈴蘭の集落はどうなったかと確かめに行ったら枯れかけながら汚れているのが大半だった。色艶は落ちて姿形も崩れる。鈴蘭を理想的に写真に残すには咲いて直ぐの状態がやはりピカピカで丸っこくて良い。他の花でも同じだけれども鈴蘭だと分かり易い感じがする。白一色で花弁の動きが少ないので、イメージのちょっとした変化でも気に留まるせいだ。
辺りには雑草も増えて写真撮影は苦しいし、暖かくて蚊が出て来て刺されながらなのも厄介だったけれども今年はもはや見納めの鈴蘭だと思う。

そして感慨に耽る。気に入った花を失うというのは失恋にも近い。心の整理が必要ではないか。逃れるのも容易ではない悲しみに普段よりも多く包まれているようだ。来年までの別れならば貧困生活に打ち勝てるかどうかが僕には問われる。鈴蘭はきっと咲くはずだ。

振り返ると写真撮影が上達したのが嬉しかった。今年は去年よりも失敗作が明らかに少なかった。去年は二つしかブログに載せられなかった。静かに佇む一房朝露の透き通った花弁で、公園の山で鈴蘭の集落を見付けたのが遅過ぎて枯れかけた花ばかりだったからただ撮るだけでも苦労していた。しかし今年はカメラのシャッタースピードを上げて手振れを十分に減らしたし、天気も快晴を狙った。ピントが合って少しでも描き込みが増すように頑張ったわけで、慎重に取り組んだのが良かった。難しい被写体へはいつもと同じでは駄目だし、自分から写真撮影のスタイルを相応しく考えなくてはならなかった。

鈴蘭で最も興味深いのは光によってイメージが大きく変わるところだ。日向では葉っぱが黄緑で、花の白さも光沢が減るのに日陰では濃緑の葉っぱと光沢を増した白い花になる。暖色と寒色の色調の著しい相違から鈴蘭の表情は千変万化の趣きと切り放せない。本当に面白い。
花の付き方がどれも似た感じだから鈴蘭の写真撮影は二三枚で直ぐに飽きてしまいそうだけれども光と表情の組み合わせが奥深い。止められないくらい引き付けられるし、写真家としてはどんな世界が見出だされるかと胸踊らされてしまわずにいない。

鈴蘭の蕾に待ち遠しい初夏へのカメラ考察

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森へ行くと鈴蘭が蕾を覗かせていた。四日前の写真撮影で立ち寄ったら茎だけだったから早いと驚いた。もう直ぐに満開だろう。初夏の息吹きを感じる。鈴蘭の花が待ち遠しくも写真に収めるならば来週一杯こそ最高に違いない。再来週以降も暫くは枯れないにせよ、雨風で汚れたり、蜘蛛の巣が張ったりするので、真っ白なままを端的には狙い難そうではないか。
しかしやはり本当に厳しいのはピント合わせだ、カメラにおいて。鈴蘭の蕾を撮りながら一年振りに思い知らされる現実だった。天気は快晴で、シャッタースピードも四桁の1/1000sだから手振れの心配はなかったのに仕上がりに気乗りしないのは描き込みなんだ。似た花のスノーフレイクは四日前の写真撮影でもまずまずだったけれども鈴蘭は小さい分だけ写りが悪くなってしまう。白一色の花でコントラストも低いかぎり、カメラはフルサイズのセンサーでなければ描き込みが不足せざるを得ないようだ。
α5100では完全にお手上げだと感じるよ。高解像レンズのマクロプラナー、Touit 2.8/50Mを着けているにも拘わらず、撮影した写真がいつもイメージ通りに仕上がってくれない。数多く試しながら構図を選び出す以前に納得できないというか、どうにもかっちり写らないので、最初から無駄な努力を積み重ねないためには考え方こそ変えるべきなんだろう。
鈴蘭の花や蕾の写真撮影は輪郭だけ大きく崩れなければ上出来という仕方で取り組むしかない
愛用のカメラとレンズのα5100とTouit 2.8/50Mで、一等に好きな花の鈴蘭が弱点の少ない光の状況を克服しても望んだ写真を表現できない気持ちは悔しいにせよ、他の仕方が全くないわけではないからよもや落ち込み過ぎても頂けない人生だとはいっておきたい。
鈴蘭にはピントが合わせ辛くて狙う位置が狭いけれども、その代わり、周りのぼけは物凄く利いて来るという写真撮影が可能なんだ。
作例はちょっと寄っただけでも幻想的な雰囲気が余程と大きく広がっているのが驚かされる。ぼけで被写体を包み込むようなスタイルが大事ではないか。すると輪郭が幾らか緩んでも気にならない写真が得られそうだ。鈴蘭でなくても写真撮影でいつも考えて損はないし、仕上がりにおいて味わい深さに繋がって来る。重視して然るべきなのはまさか間違いない、写真家として。
鈴蘭は普通に表現するのは大変な被写体だけれどもカメラで周りのぼけを活か…

井浦新の芸術へ憧れを抱いた言葉遣いは若々しくも素敵だ

テレビの日曜美術館の司会が変わっていて調べたら四年前だったらしくて本当にびっくりした。去年くらいではないかと思っていた。数年来、殆ど観てなかったから記憶は曖昧だし、情報は間違いなさそうで、唖然とさせられながらも頷く他はなかった。
少しずつ又観ながら男性の司会が従来よりも良く喋るのではないかと気に留まった。ゲストが来て良く喋るので、日曜美術館の司会というと聞き役のイメージが固まっていたところで、完全に覆されてしまった。
言葉にすれば「何だ、この人は」と感じたけれども口数が多くても口調が穏やかなので、不思議な印象を与える。日曜美術館のかつての司会者のイメージになかったし、喋り自体も自分の思いを言葉にしっかり乗せようとしているようだからユニークで、好ましくも生真面目な人なのではないかと考えもした。
井浦 新さん(@el_arata_nest)がシェアした投稿 - 4月 6, 2016 at 7:55午前 PDT
井浦新という、知ってみれば。部屋でコンタクトレンズを着けてないからテレビでは遠くて顔も名前も分からなくてインターネットで見付けて本当かどうかも怪しかった。ただし「井浦さん」と偶に呼ばれていた記憶があったから納得した。間違いないはずだろう。
写真では顔にも見覚えがあったからちょっと驚いた。元々はファッションモデルだったらしくてファッション雑誌で見ていたかも知れなかった。さらに俳優としてテレビや映画にも数多く出演したとなると目に留まる機会は生活の様々な場面で幾らでもあったわけだ。
立て続けに驚くけど、ファッションモデルや俳優で日曜美術館の様々なテーマで個別のゲスト並みに良く喋る、毎回、司会で参加して聞き役よりも明らかに幅広くしっかり付いて行けるというのも疑問ではないか。
しかし経歴がやはり物語っていてアートディレクターとして創作活動の総合的な立場で活躍してもいた。写真家として個展を開いたりもしているみたいだけど、普段の生活からして芸術そのものに必ずしも疎いわけではなかったんだ。
気持ちとしては興味津々で、むしろ思いっ切り、頑張っているんだと改めて実感されて来る。
存在から来る言葉遣いが面白い井浦新にせよ
日曜美術館の司会としては従来のゲスト並みに良く喋る井浦新で、作品や作者への感想を自分の言葉で丁寧に伝えるように努力しているところが好感度が高いと思うわけだけれども芸術の受け取り方その…

Wikimedia Commonsの埋め込みコードはブログでの様々な作品の引用や紹介に助かるよ

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ブログで他のサイトの作品を引用したり、紹介したりするのに埋め込みコードがあると載せ易い。
幾つかのサイトで取れてYouTubeTumblrFlickrなどが出しているけど、ところでWikimedia Commonsが取れると分かって非常に大きいと感心した。様々な絵や何かの画像が数多くあるんだ。埋め込みコードで簡単にブログに載せられる。パソコン版のサイトでしか出してないようで、スマホ/タブレットが主体の僕には気付くのが遅れてしまった。
Man Ray and Salvador Dali by Carl Van Vechten [Public domain], via Wikimedia Commons
Wikimedia Commonsでサンバドール・ダリとマン・レイの肖像(カール・ヴァン・ベクテン)にインパクトを感じたので、埋め込みコードで咄嗟に載せてみたくなった。

以前からサルバドール・ダリ(左/芸術家)の目を見開いた表情は良く知っていたけど、しかし隣でマン・レイ(右/写真家)まで一緒になってやっているのが面白いというか、見ていて僕もやってしまうわけなんだ。すると気持ちが熱くなる。創作活動の励みに持って来いではないか。頑張ろうという決意を新たにせざるを得ない。そして人生も鼓舞されるばかりだ。
ブログでの表現力がWikimedia Commonsの埋め込みコードで高まったのは確かなので、嬉しいかぎりだ。

追記:作品によって著者やクリエイティブ・コモンズの明記とリンクが必要だったり、画像などに人物が入っていると作品の著作権とは別に肖像権などが加わったりするようだから注意して使わなくてならない。
追記:サイト作成では埋め込みコードの画像はダウンロードして自分のサイトにアップロードして載せる方が良いと思い直した。埋め込みコードだとリンク先のサイトが閉鎖したり、サービスを止めたりする恐れがあるし、画像の表示も自分のサイトにアップロードした方が比較的に速くて安定している。