α5100とTouit 2.8/50Mの初夏の晴れた公園の花々の撮り歩きの五つの作例 結城永人 - 2018年5月5日 (土) ゴールデンウィークの前半、四月三十日に良く晴れて暖かったので、地元の公園に愛用のカメラのSonyのα5100とレンズのZeissのTouit 2.8/50Mを携えて花々の写真の撮り歩きに出かけた。 目当ては何といっても山の裏道でひっそり咲いているのを見付けて大喜びした鈴蘭だ。 好きな花だけど、しかし白一色で小さいからピントが合わなくて動かなくても写真撮影には手強いとも知った。最初は失敗ばかりだったし、スマホやコンパクトのカメラでは被写体の輪郭を十分に取れなくて――光の少ない木陰の鈴蘭にかぎればもはややるだけ無駄の散々な境地を強いられるばかりだ――たとえ一眼レフのカメラでも露出やシャッタースピードや絞り値などをしっかり覚えて細かく調整しないと厳しかった。鈴蘭との出会いは写真家として相当に練習になった。 二年目の去年は山の裏道の鈴蘭の集落へ何度も足を運んで試行錯誤を繰り返しながら蕾や葉っぱや満開や散り際などの納得できる作例を多く残せたと思う。 今年も頑張るつもりだったけれども日頃の生活難に加えて寒暖差アレルギーの体調不良で無理かも知れなかった。 しかし何とか起き上がって天気も良好だから三年目の鈴蘭の写真撮影に挑み得たのは幸いだった。 満開なのは一週間も続かないようだし、雨が降ると直ぐに汚れて散りかけそうだから一日だけ出かけても真っ白に咲いた鈴蘭は撮れないのではないかと心配されたもののタイミングも良くて被写体には事欠かず、写真撮影は狙い通りに進められた。 作例①花柄が以前よりも総じて小さい鈴蘭だった 公園の山の集落では虫に食われた葉っぱも多くて育ちが悪いようなのを悲しんだ。雑草も目立つので、遠めから撮るのは気が進まない。レンズのTouit 2.8/50Mがマクロだから近寄ってこそ本領を発揮するけれども花が段々と幾重にも気持ち良く垂れ下がって並んでいる感じが出せないのが参った。花弁の縁の反り返りも歪みがちだ。 落ちた花は全くなかったし、蕾が幾らかあったので、もう少し後が満開だったかも知れない。 直ぐに雨が降ったから今年の地元の公園の鈴蘭が晴れ間に最も輝いた瞬間を表現できたと納得してはいる。 振り返ると四月が例年よりも暖かくて雨が少なかったのが鈴蘭の育ちに影響したのか、何れにせよ、花も葉っぱも小さ過ぎる印象を与えるのは自然の姿として捉える他はないし、何よりも今此処に咲いた鈴蘭の生きる喜びをα5100とTouit 2.8/50Mで的確に表現するように努めた。 数十枚の写真撮影でピントが合わずに失敗したのは皆無に等しかったので、写真家として三年目で流石に上達したと実感した。手強い鈴蘭でも日向ならばシャッタースピードを、日陰ならばシャッタースピードとISO感度も必要以上に上げながら手持ち撮影ではしっかり構えてシャッターを押した後までカメラとレンズを動かさないようにすると上手く行き易いわけだ。一人で驚いたし、また失敗作だらけかと恐ろしくも仕上がりを確認してみたらピントが悉く合っていたから写真撮影に自信を深めた。 作例②真っ赤な久留米躑躅が正しくも満開だった 去年から二回目の写真撮影で、寄ると赤一色に咲き捲ったイメージが単調になるのをどう捉えるかが反省された。光と影の階調を入れれば鮮やかさが際立つはずだ。作例は逆光から折り重なる花弁に差し込む光の強弱を色の濃淡へ置き換えるように表現するのを心かげた。被写体の色数が少ないほどに立体感がリアリティーを大きく左右するし、何よりも光と影の階調を考えたくなる。久留米躑躅の花は血のように赤くて身震いを覚えるほどの美しさを持っているので、そうした一瞬で胸打たれる魅力の全てを過不足なく打ち出せる写真撮影を望んでしまう。見るからに鮮やかに咲いて分かり易いからカメラの扱いに注意する必要はさほどないとしても拘泥って微妙に変わる世界を知るのは面白いし、写真家にとって醍醐味の一つだろう。 作例③平戸躑躅がピンクの大きな花を咲かせていた 花弁が薄くて萎れ易い感じがするので、カメラを向ける角度が気がかりになる。誤って汚れたところを目立たせるわけには行かない。去年は写真撮影を行っても平戸躑躅の作例をブログには載せなかった。どうも素晴しい角度が見付かり難い。花柄が大きくて印象が直ぐに変わるせいもありそうだ。躑躅でも完全に密集して満開なのを見かけなくて幾らかバラ付きながら咲いた一角に惹かれるので、花の写真撮影は何輪か纏ったところを狙うようになる。薄い花弁がピンクに大きく閃くとても可憐な躍動感を表現したい。α5100とTouit 2.8/50Mならば描き込みの確かな細やかさが向いているはずだし、写真撮影に安心して取り組めると同時に真骨頂の仕上がりが期待できるのではないか。去年とは打って変わってブログへ迷わず、載せられる平戸躑躅の一枚目の代表的な作例を得た。若干、近めから纏まって咲いた何輪かを写し取れたのが生き生きと可愛くて満足している。 作例④蕾だらけの白琉球が不意に気に留まった 緑が透き通るように薄くて以前から爽やかな印象を与えて気持ち良いと感じていた白琉球の蕾が一杯なのが嬉しくてカメラを向けずにはいられなかった。細長くて如何にもふんわりしているから心温まりもするし、惹かれる花の蕾そのものか。人生で明るい未来を予感させる。数多く整然と並びながら優雅さを醸し出しているのが写真撮影の構図では注目される。距離感が本当に問われる。イメージが遠過ぎると漠然と潰れるし、余り近いと曖昧に伸びる。白琉球の蕾の一つ一つが画面に綺麗に収まるかどうかを考えてしまう。見たままに爽やかな印象を与えるような構図を取りたい。およそ写真撮影で奇を衒っては上手く行かない世界だろう。無心というか、何も意図せずに最高だから被写体に巻き込まれて自分自身が一体化しながら構図を決めたらもはや念写するような方法が求められる。白琉球の蕾の素晴らしさに写真家の作為という作為は要らないと学ぶ。 作例⑤散り残る山躑躅も最後の輝きを放っていた 地元の公園の山を覆うように生えているのが山躑躅の木で、もうちょっと早ければ真っ朱に広がっていたかも知れない。大分は散って咲いているのも相当に色褪せながら春の終わりを告げているようだった。しかし後から散り残って新たに咲き出した幾つかの木は移り行く季節と共に生きる情感を如実に示していて風流だった。そして花開いて最後の輝きを放っている姿は感動的に受け留められた。国有の艶やかな色彩も初夏の光の中に憐れみ深く溶け込みながら見る目に有り難みを一際と増すように美しかった。写真の撮り歩きは臨場感を大切にするべきだと思うし、今正に接している他でもない世界の特別な経験と真実を捉えられると本望なので、雑念に惑わされず、心のままに被写体を見付け出せるようにしたい。山躑躅の散り残る最後の輝きの作例は成功したから微笑ましいし、今回はα5100とTouit 2.8/50Mだったけれども愛用のカメラとレンズで次回は何がどう撮れるのか、又出かけたいと実感している。 関連ページ初夏の光の花々:山躑躅(朱色/赤)と鈴蘭と日陰躑躅と淀川躑躅初夏の七つの花々の写真と俳句 コメント 新しい投稿 前の投稿
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