ルイス・キャロルの最後のアリス・リデルの肖像写真の不思議なカメラの向け方に思うイギリス文学と詩的な感性 結城永人 - 2017年8月25日 (金) 写真家としてのルイス・キャロルを発見して乞食娘のアリス・リデルが非常に素晴らしくて飛び抜けて良いと感じたけれどもそれに次いで記憶に残るのが椅子に腰掛けたアリス・リデルの肖像写真で、ルイス・キャロルがアリス・リデルを撮影した中では最後の一枚といわれている。 如何にも不思議なアリス・リデルの写真の構図 The Last Sitting by Lewis Carroll / Public domain 右上から微妙に見下ろしたカメラの向け方が小説の不思議の国のアリスを彷彿とさせるくらい如何にも不思議だと感じさせられてしまう。 ルイス・キャロルは数学者で普段は理知的だったのとは対照的にそうした日常生活の安定性を真っ逆さまに揺るがすほどの遊び心を持っていたとナンセンスな小説の愉快な書き方から分かる。 イギリス文学だとローレンス・スターンのトリストラム・シャンディが全ての小説の始まりではないかと分かり易い物語と切り放して考えられるほどに支離滅裂でナンセンスだった。そして支離滅裂でナンセンスな小説というとジェイムズ・ジョイスのフィネガンズ・ウェイクが言葉遣いまで引っ括めて完全に打っ壊れたように徹底的にやっていてもはや普通に読めないところまで行っているのが世界的にも有名かも知れない。個人的にはサミュエル・ベケットを最も高く評価するけれども訳の分からない小説ばかり書いていたものの最初の特に誰にも相手にされなかった並には勝る女たちの夢がハチャメチャそのものの作風と同時に無名で貧乏なのにやっていたから小説家として《意味不明な自己表現》に人生を賭けていたと畏敬せずにいられなくなる仕上がりなんだ。哲学的にも命懸けで読み得るし――アントナン・アルトーの思考の不可能性に社会上の接線を持っているのではないか――本質的に重要な作家の一人に他ならないと僕には数えられもする。しかしイメージだけならば小人の国で理解不能に陥ってしまう主人公を描いたジョナサン・スウィフトのガリヴァー旅行記が物語としても非常に分かり易くて日本でも子供から大人まで不朽の名作として良く親しまれていたり、イギリス文学ではナンセンス小説はおよそ珍しくなくてルイス・キャロルの不思議の国のアリスも驚くに値しないとも過言ではなかったかも知れない。 日常生活から捉えると遊び心が満載なんだ 写真の最後の一枚の十八歳のアリス・リデルの肖像は一つの人間的な温かみとして乞食娘などの子供時代よりも新しく出ているように認める。 面白いだけが全てではない。小説ならば不思議の国のアリスにはっきり味わわれるようなナンセンスな喜びがなぜ必要とされるか。アリス・リデルが成長して十八歳という少年期に入ってもはや訳の分からない世界を昔よりも純然と楽しめなくなったせいもありそうにせよ、ルイス・キャロルも生まれて初めて気付いたみたいに鮮烈な印象を与えていた。 笑い、またはユーモアが人間関係の潤滑油だとすれば愛する気持ちといい換えられるし、優しさとも感じる遊び心だけど、とにかくアリス・リデルが子供だった様々な写真と比べると不思議なほどに様変わりして生きられているとカメラの向け方から伝わって来る。 写真家のルイス・キャロルの視角だし、今現在の気持ちが表れているとすると右上から見下ろしたのは昔というか、過ぎ去った過去を懐かしみながら可笑しいばかりだった遊び心が愛情として自覚されたようだ。 感極まった高みから一人静かにも心の目を伏せながら構えたカメラの向け方としかいえない構図こそ不思議でならない写真だと考え得る。 ルイス・キャロルは子供時代の無邪気なままで天使のように清らかな世界を何よりも大事にしたかったためかも知れないので、写真家としてアリス・リデルの肖像写真を十八歳で最後の一枚に止めてしまったのはいつでもどこでも個性的な自己表現だけを求めていたし、または嘘偽りがないという正真正銘の生き方を人間として決して手放さない気持ちだったようにも驚かされるんだ。 とても素晴らしくて心が泣けて来る趣きがある 懐かしみに全ての記憶が溶け込みながら今正しくかつてないほどに透き通って浮き上がるままに押し寄せるみたいな止めどなさが凄まじく美しい。 アリス・リデルへの愛情がさよならの代わりに如実に端的に捉えられているイメージで、十八歳で最後の一枚の肖像写真なのはきっと不思議でもありふれたに過ぎない詩的な感性の結実といって良いはずだし、日頃から作詩するのも事欠かなかったとされるルイス・キャロルの文学的な人生を送っていた一人の詩人としての側面が大きく目に見えて頷かれるところも興味が尽きなくて感心が絶えない。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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