花々のマクロ撮影は世界が変わる瞬間を色鮮やかに写真に残せるのが嬉しい 結城永人 - 2017年6月25日 (日) マクロ撮影はどんな被写体でも世界が変わる瞬間を写真に残せるのが面白いと思うけれども取り分け花々だと色鮮やかに仕上がるから今正に見方が新しく生み出されていると求められるリアリティーが増して来るようでいつも嬉しい気持ちが大きい。 ミラーレス一眼カメラのα5100にさらに等倍マクロレンズのTouit 2.8/58Mを購入して以来、写真のマクロ撮影の作例がどんどん増えて行くばかりだ。 最初は世界が変わる瞬間に怖がっていたかも知れない 被写体を傷付けるのではないかと一つの慣れ親しんだ見方の崩壊、または逸脱に心を僅かにも苛まれずにいなかったような感じがする。しかし常日頃のイメージだけが正しいわけでは決してないはずだし、写真のマクロ撮影は被写体に隠された新しい真実をはっきり引き出せるところが良いんだと考えるほどに積極的に取り組めるようになった。 とはいえ、実際に取り組んでみるとマクロ撮影によって被写体への一つの慣れ親しんだ見方が余りにも変わり果ててしまって何が写っている写真なのかも咄嗟に分からない場合には精神的な混乱を招くのが心残りだと悲しみながら又躓くように狼狽えずにもいなかった。 写真家として何をどう捉えるかのどうだけでは不味いと考え込んでしまうし。何をが改めて問い直されるんだ。 マクロ撮影を本当に望んで積極的に取り組むと常日頃のイメージを狙いの部分に切り分けるくらい被写体に近付いて行く。全体に何なのかがもはや分からなくなる瞬間が薄気味悪く受け取られもするわけで、耐え難い苦しみを余儀なくされざるを得ない。止めるべきではないかとカメラを持つ手が震えて気持ちから引き下がろうと案じる。 するとしかし驚くのは美しさが閃いたりもして来る 被写体から薄気味悪くて離れ去った記憶の中にたとえ部分でしかなくても新しい世界の良さが写真家として経験されたせいだろう。 全体のイメージとは必ずしも合致しないという又別の美しさが諸々の部分には潜んでいる場合があるに違いないわけならばカメラに収めずに捨て去るのは惜しいし、または忍びなくも引き付けられるかぎりは追い求めて行くしかなくなるように気持ちは情熱的に切り替えられるんだ。 被写体の部分的な魅力を捉える写真は本当にマクロ撮影でなければ殆ど不可能なスタイルなので、醍醐味といって良いと思うし、そうした特徴的な素晴らしさに気付いて取り組むほどに面白いばかりで、新しい世界との出会いを嫌がりながら避けたがる迷いは怖がるとか薄気味悪いなんて二つともすっかり消え失せるに至った。 詩的にいえば写真のマクロ撮影は写真家と被写体との忘れ難い約束に他ならないだろう 歴史から物事の全体のイメージが刷新されると共に部分でしか捉えられなくてそれが何だったのかも分からなくなるけど、ところが受け取って喜ばしく生きながら経験されたはずの美しさだけは記憶に刻まれるままに写真に残され得たという。 マクロ撮影は写真と被写体との忘れ難い約束としては互いの秘密にまで立ち入っているところが凄くて恋愛に置き換えると二人だけの世界に等しいために他の誰にも容易には察知されない真実が含まれてしまう。 だから詩情も否増す。写真が地球上で唯一無二と解き放たれた詩人の言葉のような感触を速やかに与える可能性を持っているのがマクロ撮影だと認める。美しさが尊いばかりで自由に表現されれば天使がやって来るかも知れないと期待するのも強ちではない、偶さか写真を受け取る人々の心に。僕としては間違いなく目指すべき自分らしさだからカメラとレンズのα5100とTouit 2.8/50Mを使い出して実現できた結果にはとても満足しているんだ。 花々だと色鮮やかに仕上がるから美しさが目に見えて際立つし、忘れ難い約束の詩情も殊更と心に染みるので、マクロ撮影には比類なく打って付けの被写体だろう。 芸術的にはデザインも重視される。被写体が何なのかが分からない代わりに色や線などの様々な要素と光の増減の組み合わせが写真の趣きとして見逃せないと思う。 どこにピントを合わせると効果的に撮影できるのか 被写体に近付くほどにモチーフよりもデザインが気になる。普通とは逆さまにデザインからモチーフを浮かび上がらせたい感じがする。 余程と大写しで、被写体の輪郭/イメージの枠組みを越えて新しい世界の真実に迫ろうとするとカメラを向けている自分自身が何を狙っているのかも定かではなくなるし、思いは手探りの状態なんだ。 目の前の美しさを写真に捉えるためにはモチーフが抜け出されている被写体をデザインからどれだけ綺麗に纏められるかにかかっていると考えながら狙いを定めずにいられない。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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