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些細な日常

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相互に共通点を有しない物は、その一が他の原因たることができない|スピノザのエチカの第一部定理三

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スピノザ の エチカ の第一部:神についての定理三を心からの敬愛を込めて理解する。 定理三 相互に共通点を有しない物は、その一が他の原因たることができない。 証明 もしそれらの物が相互に共通点を有しないなら、それはまた(公理五により)相互に他から認識されることができない、したがって(公理四により)その一が他の原因たることができない。Q・E・D・ バルーフ・スピノザの エチカ (畠中尚志訳) 第一部定理三は第一部公理五と公理四から証明されるけど、すなわち複数の対象について認識論的な関係性と存在論的な因果性が相互の共通点によって一つの現実の中に同時に把握されるようになる思考のためで、スピノザの世界観を反証的に(それ以外は無理だと)はっきり示しているようだ。 五 たがいに共通点を持たないものはまたたがいに他から認識されることができない。すなわち一方の概念は他方の概念を含ま…

異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない|スピノザのエチカの第一部定理二

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スピノザ の エチカ の第一部:神についての定理二を心からの敬愛を込めて理解する。 定理二 異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。 証明 これもまた定義三から明白である。なぜなら、おのおのの実体はそれ自身のうちに存しなければならずかつそれ自身によって考えられなければならぬから、すなわち、一の実体の概念は他の実体の概念を含まないから、である。 バルーフ・スピノザの エチカ (畠中尚志訳) 実体の定義からするとそれ自身で存在し、認識される対象だからかりに複数の実体の属性が同じ場合でも「相互に共通点を有しない」という第一部定理二の内容は明白だろう。 しかしスピノザは「異なった属性」という状況に敢えて固執している。なぜか。複数の実体の属性が同じだとそのこと自体が実体同士の共通点として捉えられる可能性があるためだと推察される。認識を裏返すと属性の同一性は複数…

実体は本性上その変状に先立つ|スピノザのエチカの第一部定理一

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スピノザ の エチカ の第一部:神についての定理一を心からの敬愛を込めて理解する。 定理一 実体は本性上その変状に先立つ。 証明 定義三および五から明白である。 バルーフ・スピノザの エチカ (畠中尚志訳) 第一部定義三と定義五はそれぞれに実体と様態/実体の変状の概念を示している。 三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。 バルーフ・スピノザの エチカ (畠中尚志訳) 端的にいうと単独性を持つ対象が実体で、存在と認識において独立性を持つ可能性によってスピノザは定義している。独立性がないと単独性は個別性と区別できない。従って実体は複数かも知れない場合が出て来る。スピノザは可能性でも実体に独立性を与えることによって個別性と複数という特徴を切り捨てている。実体はもしも数えるな…

ミスターラグビー/平尾誠二の日本のスポーツの未来へのメッセージ

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平尾誠二 は日本のラグビー界を第一線で牽引して来た。高校時代に伏見工業高校から全国大会で優勝を果たすと大学時代には同志社大学から大学選手権の三連覇を果たす。そして社会人の神戸製鉄に入ると日本選手権の七連覇を果たしたり、二十代の全盛期は優勝三昧の現役生活を送っていたに等しい。日本代表にも十九歳から選出されて新しく開催された四年に一度のラグビーワールドカップの第一回から第三回まで予選を勝ち残って本大会へ進出している。第二回ではジンバブエ戦で日本の初勝利に貢献したらしい。1998年に三十四歳で選手を引退してからは神戸製鉄や日本代表の監督として2000年まで活躍して日本選手権で優勝したり、ワールドカップの本大会へ四回目の進出を遂げたりしていた。 投稿| ラグビーワールドカップ 一昨年、胆管癌によって五十三歳の若さで、急逝したけど、来年、日本で開催される第九回のラグ…

デカルトの「我思う、ゆえに我在り」は現実そのものを掴んだ哲学の第一原理だ

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哲学の命題で最も分かり難いというか、どうとでも受け取れるように人々が自由気儘に捉え易いのは「我思う、ゆえに我在り」( デカルト )の他には滅多にないだろう。只単に言葉としてもとても有名で、口に出した本人、デカルトの代名詞にも等しい。 Portrait of René Descartes by Frans Hals / Public domain 数学や物理学などもやっていたようだけれども「我思う、ゆえに我在り」の一言で哲学者のイメージが物凄く強いんだ。思考と存在を単刀直入に結び付けた表現は如何にも簡単らしい。ところが謎めきも凄まじくて何なのかと真剣に向き合うと全ての理解を弾き返すほどの印象を与えて止まない。 デカルトの「我思う、ゆえに我在り」という言葉は何を意味するか この土地での最初の省察を諸君に語らねばならぬかどうか私には分らない。それはあまりに抽象的なも…

やまゆり園で障害者ばかり襲った植松聖の反社会的で独善的な差別意識の存在は悪魔の操り人形だった

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植松聖が 相模原障害者施設殺傷事件 というやまゆり園で二十六人の死傷者を出した事件はなぜ起きたか。犯行の原因を認識しようとすると非常に錯綜していて難しいと感じざるを得ない。 植松聖/障害者施設で殺傷事件 19人死亡| NHKアーカイブス |NHK 本人は障害者ばかり襲うという差別意識を著しく示していたけれども犯行前には知人や友人どころか、日本の一般人として当時の総理大臣の 安倍晋三 にまで伝えようとしていたらしい。 世の中で障害者が取り立てて問題を起こしているわけではないし、突如、いきり立って大袈裟に訴える必要は全くないだろう。 植松聖は大麻を常用していたらしくて普段の障害者への差別意識が余りに嵩み過ぎた結果として総理大臣に伝えようという異常行動が出て来たと直ぐに分かる。 ところが厄介なのはやまゆり園で二十六人の死傷者を出したという相模原障害者施設殺傷事件に繋がった言動…

日本人の知性と思考の方法論的な哲学

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お笑いの 有吉弘行 が哲学について本を出していると知った。 毒舌訳 哲学者の言葉 という題名で、数多の哲学者たちの言葉を題材にして自説を述べている。インターネットで偶々だったけれども紹介しているサイトを見かけたから気になって訪れてみたんだ。 哲学とは…変わり者の人が適当に言ったことをなんとか普通の人たちが解釈してあげて無理やり「わかるわかる」と納得してあげているもの。 有吉弘行の 毒舌訳 哲学者の言葉 心外というか、哲学は本質的に思考だから、表現上、間違っていると項垂れるしかない。しかし目を背けてはならないはずだ。お笑いとして許される気持ちを棚上げとすれば真面目に日本を過ごし易く変えるためには現時点で 知性改善論のような思考 が人々に求め叫ばれているのではないか。まさか興味深い世相が露呈し捲っている。有吉弘行で示し出されたというのは本当に物凄く面白いし、僕は思考が超大…

ソクラテスの死は如何にも哲学者らしい威厳を放っていた

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古代ギリシャで ブラトン と アリストテレス と並んで三大哲学者の一人と考えられる ソクラテス は西洋哲学の源流とも過言ではないほどの存在だった。彼の弟子がプラトンで、その又弟子がアリストテレスだったからソクラテスがもしもいなかったら、全員、消えてしまって西洋で哲学が歴史的にどう流れたかが相当に変わっただろうと震撼させられる。 西洋哲学の源流の思考の面白さ Heaes of Plato, Aristoteles and Socrates by mararie / CC BY-SA 人々の考え方に大きな影響を哲学は与えている。何等かの主義を持つかどうかは別としても社会に共通する枠組みは一般的にあるのではないか。古代ギリシャの三大哲学者は現代でも通用するような原形を示している。 ソクラテスの知識(エピステーメー) プラトンの理想(イデア) アリストテレスの論理(オルガノン) 当…

ベラスケスのラスメニーナスの受け留め切れなかった芸術的な衝撃へ

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謎多い絵として真っ先に思い浮かぶ ベラスケス の ラスメニーナス (女官たち)は画面全体が不思議な構成に覆われている。描かれた主要な人物たちが部屋の天井から押し潰されたように感じさせるとしたら ゴッホの烏のいる麦畑 の大変な空の様子と同じくらい悩ましくも美しいかぎりだから作風は天才的だとも過言ではないだろう。 ただし比べてみればベラスケスの ラスメニーナス が翻って愛するほどに優しく味わわれてしまうのも構図というスタイルだけに止まりそうなので、絵よりは芸術として概略的に捉えるべき認識が正しいのではないか、考え出すと印象はちょっと薄いようだし、デザインこそ特徴的に個性的に認められる。 分かり易いはずだし、 ヴァン・ゴッホ の 烏のいる麦畑 のように全ての対象が《圧縮された詩情》と共に展開された正に自然な構図ではないから理解するために例えば ランボー の イルミナシオン を参照しながら超…

浅田彰のドゥルーズ主義者としての水準

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浅田彰 は 構造と力 で ドゥルーズ と ガタリ を大々的に取り上げて他でも言及が多い。そしてさらに自分で自分をドゥルーズ主義者と呼んだりもしていたし、本当にそうなのではないかと思う。 しかし驚くのは余りに一般的過ぎるというか、ドゥルーズの捉え方がオーソドックスな印象を与えるために別にドゥルーズ主義者でなくても可能だし、普通に読むだけで誰でも受け取るような認識しかなさそうなところなんだ。 浅田彰がドゥルーズ主義者を自称するとびっくりする この人は敢えていっているのではないか、例えば教科書で名前を知っているだけでもその考え方や生き方に心酔している結果みたいな響きが避けられなくて。 思想を根底的に考えれば最も正しいかも知れない。どんな人、または作品でも好き嫌いは抜きにして接すれば何かしらの影響は受けていて自分の考え方や生き方に作用するから全て引っ括めて心酔しているとも過言で…