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浅田彰のドゥルーズ主義者としての水準

浅田彰構造と力ドゥルーズガタリを大々的に取り上げて他でも言及が多い。そしてさらに自分で自分をドゥルーズ主義者と呼んだりもしていたし、本当にそうなのではないかと思う。


しかし驚くのは余りに一般的過ぎるというか、ドゥルーズの捉え方がオーソドックスな印象を与えるために別にドゥルーズ主義者でなくても可能だし、普通に読むだけで誰でも受け取るような認識しかなさそうなところなんだ。


浅田彰の口から自称してドゥルーズ主義者と出て来るとビックリさせられる、この人は敢えていっているのではないか、例えば教科書で名前を知っているだけでもその考え方や生き方に心酔している結果みたいな響きが避けられなくて。


思想を根底的に考えれば最も正しいかも知れない。どんな人、または作品でも好き嫌いは抜きにして接すれば何かしらの影響は受けていて自分の考え方や生き方に作用するから全て引っ括めて心酔しているとも過言ではないだろう。少なくとも精神的には無意識に原因として吸収されているのではないか。本人が気付くと気付かないとに関わらず、日々の経験の一から十までの観念は人間性を織り上げているに違いないとすると浅田彰の言葉遣いは詩そのものだし、個人の好き嫌いを越えるまで内面性が直視されているかぎりは本当に広大な宇宙としか呼べないくらい凄い。


僕はドゥルーズは出会いが面白いとブログで取り上げたけれども世界観としては無意識を含めて認識されたところが新しかったと思うし、精神的に「欲望」が重要ならば意識された存在(自我)だけが対象ではない、またはそれなしに捉えると哲学としても意味合いがずれるかも知れない。ドゥルーズの出会いが素晴らしいとすれば偶然も入り込む余地があるわけで、広大無辺に何が起こるかも予測不可能な人生を口に出したに等しいから面白いとなるわけだ。


世の中を見渡しているとドゥルーズの誤解され易い部分は無意識の出会いの特色で、浅田彰はきっちり捉えていて非常に頭が良いと感心するけど、僕はブログの記事で説明抜きに出会いが面白いといった通り、どっちでも構わないと思う。特色のない出会い、意識から只単に我欲という経験も受け入れるのがドゥルーズの本性ではないか。それこそ哲学者として懐が誰よりも広くて素晴らしいと称えたくなる。人間的に好き嫌いどころか、思想的に正しいか、誤っているかさえも越えていた。無意識を認めるならば方法上は当然な帰結だし、不確実な立場にも頷くべきなので、ドゥルーズは誤りを喜ぶ哲学を作り上げたから凄い。もはや哲学者ではなくて認識がハチャメチャで学問にしては巫山戯ているとすれば余りに新し過ぎる。何をどう捉えるかのパラダイムそのものが大転換を起こしていて哲学のスタイルが画期的に変わってしまったせいではないか。


注意すると悲しみを笑えるのは生きている以外の何ものでもない。いい換えれば存在論が命にまで届いているために誤りも喜びだから思考が矛盾しているわけでは決してない。ドゥルーズが哲学者ではないとした見方は間違っている。ただしスタイルがそれを受け入れるようになっているから意味はあるし、一定の条件では反対論者も普通に正しい。もしもドゥルーズが哲学者でなければ他の誰かが哲学者でも良いとなるけど、却って懐は狭いといわざるを得ないし、了見も疑われてしまうから認識能力の度合いは圧倒的に高い。スピノザニーチェを学んだとすれば二人と肩を並べるくらい信用できるのではないか。今此処で疑問形を使いたくなるキャラクターこそ唯一の弱点だろう、しかしながら。反対論者も許すようなスタイルでは実生活で知識が役立たないし、主体性のない方法に等しいからドゥルーズは哲学者だとしても思考の核心には課題を残してしまっていた。


浅田彰のドゥルーズはドゥルーズの一般的なイメージにぴったりだと思うし、ある意味、教科書だけど、ドゥルーズの本性から考え返すと無意識の出会いの特色に物凄く拘泥りを持っていて「欲望」で捉えるならば意識された存在(自我)の方面は断じて認めたくないというスタンスが諸々の言動から窺われずにいなかったと気付くんだ。


〈交通〉を全面的に遮断すること、音楽に完全な沈黙を強いることは不可能である。ほんのわずかな隙間さえあればいい。音楽はそれを走り抜けてコスミックな〈交通〉を生むだろう。



すなわち予測不可能な認識から何が起こるかも分からない世界観のドゥルーズが重視されているわけだ。


ドゥルーズの哲学者としての歴史的な位置付けは難しい。スタイルが自分は哲学者でなくても構わないみたいな雰囲気が濃厚だから敢えてどこかに収めたい場合には旧来の認識論や存在論とは又別に方法論という系統を立てなくてはならない。すると古代のまぜこぜの哲学から近代のデカルトの方法哲学を経由して批判的に継承したスピノザの知性優先の線を現代まで引っ張って来たわけだけれども実際上はマルクス(経済学者)とニーチェとフロイト(心理学者)こそ批判的に継承しながら思考する対象を増やして社会学の視野で多角的にやっていたと分かる。哲学者としてはスピノザからニーチェへの流れの中にあってもはや哲学自体を問いかけるまでに至ったところがユニークだった。スピノザは倫理学が、ニーチェは文献学がメインだから哲学的に突っ込んだ思考は必ずしも目立たなかったけれどもドゥルーズは方法論という文脈でしっかり見据えて追求してくれたから第一人者とも過言ではない。文字通り、哲学とは何かも出していたり、本人も十分に自覚していたのではないか。


ドゥルーズを学問的に纏めれば方法論的な哲学者という見方が可能だけれども浅田彰はそうしたドゥルーズ主義者ならば外せない要素を大事にしているのは確かなので――無意識の出会いの特色も言語上で転倒しながら主体性の一環と見做せば(個人的にはあり得ない解釈だと思うし、世界の中枢に個人の思想が抜け落ちたかのように主体性がないところがドゥルーズの哲学者と呼ばれる真実の所以なので、人々に思考するべき対象を超越論的な経験論と良くいわれるけれども一つの独特な仕方で味わいとして与えているためだろう、世間並みに評価しても勘違いにしかならない)旧来の哲学者とは変わらなくてむしろマルクスの経済学やフロイトの心理学の専門用語で全てを置き換えているだけみたいなイメージが出て来ないともかぎらない――一見すると如何にも正統的な解釈を辿っているわけだ。


そもそも僕は哲学に興味がなかったんで、哲学的な正確さは多少は犠牲にしてもいいと思ったんですね。マルクスの言ったように、哲学は世界をさまざまに解釈してきた。観念論か唯物論か、主観主義か客観主義か、解釈はどうにでも変更できる。しかし大切なのは世界を変革することなのだ、と。



僕は驚かされてばかりみたいにせよ、浅田彰が「哲学に興味がなかった」とするとドゥルーズ主義者とは何なのかと驚きながら悩まされてしまった。


まさか解釈としての哲学だけが遠ざけられたにしてはいい過ぎの言葉が見付かったからこれまでのようには沈黙していられない。好き嫌いを越えた人がどんな方法を持っていてもあり得ると思うわけには行かないかぎり、興味がないのにドゥルーズを考えているのか、ドゥルーズは哲学ではないから興味があるのか、二つに一つを問い詰めなくて気が済まなくなる。


僕がヒントにしたのは、哲学者ジル・ドゥルーズが反精神医学者フェリックス・ガタリと組み、哲学的な正しさなどかなぐり捨てて書いた『アンチ・オイディプス』(1972年)でした。


『構造と力』刊行30周年 via REALKYOTO

浅田彰はドゥルーズを必ずしも哲学者として見てないために興味を持ってドゥルーズ主義者になったんだと考えて良い。


言葉遣いは精妙だし、ドゥルーズの良さをしっかり掴んでないと「哲学的な正しさ」と誰にも分からないはずだけど、僕にいわせれば誤りを喜ぶ哲学の判断力そのものは本当はドゥルーズでさえも借り物の概念だから「器官なき身体」(アルトー)とか「万里の長城」(カフカ)なんて言葉から思い付いたみたいな感じだし、余程、知覚が優れてないとオリジナルには発想できないはずのイメージなので、ドゥルーズへ向けて方法論での完全性への要件として実質的に口に出したらそれこそ破格なまでに〈暴力的〉だろう。


浅田彰は誉め殺しにも近い。理論の整合性ではなくて「哲学的な正しさ」はドゥルーズには端からなかったと僕は思う。ドゥルーズが偉大な哲学者なのは超越論的な精神の判断力そのものの在り方を人々の認識に組み込んだ以上でも以下でもないのではないか。たぶんアルトーとカフカが大きくて二人からイメージを掴んで方法論の基礎付けに取り入れて詩的な概念と共に成功したはずだ。ドゥルーズは人間の感性の効果としての性質からは把握されない特殊な判断力に気付いていた、いってみれば。借り物の概念に依拠しているとすると、表現上、人々から言動が神秘傾向に見られても仕様がないだろう。だからドゥルーズが哲学者かどうかは重要だし、思考が本格的かどうかがテーマにならざるを得ない。手持ちの言葉の実質が経験されてないかぎり、哲学でなくとも作品に打ち出せたはずはないけど、ところが人々の認識に組み込んで方法論は一般的に成り立つし、誰にでも超越論が精神としてあるに違いないと初めて明かしたんだ。


結果から捉えると詩的な概念がなぜ必要なのかのドゥルーズ哲学の意義を押さえている浅田彰は素晴らしいし、やはりドゥルーズ主義者そのものだけど、認識としてはおよそ詩的な概念だから反哲学みたいな形で結び付けてしまう格好なのが本当に面白い。


いい換えると浅田彰はドゥルーズ主義者として《精神の超越論的な水準》を少なくとも詩的な概念を通じて生きているのではないか。


ドゥルーズには自分は哲学者でなくても構わないみたいな雰囲気が濃厚だからそのままというか、妥当に認識すれば間違いなく、外へ出るような思考なので、哲学者としてのみ理解するのは難しいはずだけど、方法論的な哲学の特徴だから避けられないと良く分かる。

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