スピノザのエチカの第一部:神についての定理二を心からの敬愛を込めて理解する。
定理二 異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。
証明 これもまた定義三から明白である。なぜなら、おのおのの実体はそれ自身のうちに存しなければならずかつそれ自身によって考えられなければならぬから、すなわち、一の実体の概念は他の実体の概念を含まないから、である。
実体の定義からするとそれ自身で存在し、認識される対象だからかりに複数の実体の属性が同じ場合でも「相互に共通点を有しない」という第一部定理二の内容は明白だろう。
しかしスピノザは「異なった属性」という状況に敢えて固執している。なぜか。複数の実体の属性が同じだとそのこと自体が実体同士の共通点として捉えられる可能性があるためだと推察される。認識を裏返すと属性の同一性は複数の実体の共通点を保証する概念として受け取られるべきという論理がスピノザの心には潜んでいるはずなのが分かる。だから「相互に共通点を有しない」複数の実体の証明は「異なった属性」こそ想定しなくてはなかったといって良い。
スピノザのエチカの第一部定理二では複数の実体の差異性が認識される
丸っきり、実体の定義から「明白」で、取り上げること自体が無意味とも過言ではないほどの印象を与えるので、第一部定理二はスピノザのエチカには無駄があると人々から揶揄されたりする部分の正しく実例かも知れない。
ところが認識される複数の実体の差異性は反対に属性が同じならば相互に共通点を有するという知見を新しく与えてもいる。これは実体の定義だけではあっさり結論されないし、それ自身で存在して認識される対象の本質的な要件としての内在性の概念に抵触するかどうかは予め分からない。どんな外在的な結び付きも定義上の実体の単独性から不可能だとしても属性の同一性によって複数での内在的な結び付きは可能かも知れない。
エチカの第一部定理二は複数の実体の差異性を別々の属性から捉えることによって共通の属性から捉えた場合の複数の実体の同一性も知覚させる。
論理的に当たり前の帰結だけれどもスピノザの方法を理解するために重要なのは属性の実体の内在性を把握する性質を複数の実体の差異性の証明から初めて教えている。
実体の定義、それ自身で存在して認識されるという単独性を属性が表現しているからこそ複数の場合に後者が異なったら前者は共通点がないわけなので、属性は実体において外在的に関与しないと分かる。
翻って内在的に関与するために属性の概念は実体の複数の場合の共通点の可能性も残している。属性がもしも同じならば実体の定義に示される単独性から外在的に不可能なのは明白にせよ、内在的に共通点があってももはや不条理ではない。複数の実体の差異性の反証として想像される。
スピノザは認識がとても巧いというか、複数の実体の同一性を証明するためには属性の結び付きが内在的か外在的かを示さなくてはならない、すなわち実体の本質を属性がどのように表現するかの概念化が必要なのを完全に省略しているのは凄い効率的な思考だ。
エチカの第一部定理二の複数の実体の差異性は別々の属性に基づくかぎりの真実だけれども証明が実体の定義しか参照しなくて済むために方法上は反証としての共通の属性の場合の複数の実体についても同一性が速やかに結論されずにいなくなる。
一見すると実体の定義の単独性のみに由来する自明の理だから複数の実体の差異性は無駄な認識だし、第一部定理二は不要な知識だけれども同時に複数の実体の同一性も想像すれば言外に分かるのが有り難い。
繰り返すと後者は実体の定義の単独性のみでは決して分からないし、証明しようとすれば実体について外在的ではなくて内在的な結び付きしか表現しないという属性の定義が必要になってしまう。前者はそうではないから簡単だし、複数の実体と属性についての内在的な結び付きによる順応的な仕組み(異なれば異なり、同じならば同じ)がもっと分かり易く伝えられている。
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