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デカルトの「我思う、ゆえに我在り」は現実そのものを掴んだ哲学の第一原理だ

フランハルのルネ・デカルトの肖像の複製

哲学の命題で最も分かり難いというか、どうとでも受け取れるように人々が自由気儘に捉え易いのは「我思う、ゆえに我在り」(デカルト)の他には滅多にないだろう。只単に言葉としてもとても有名で、口に出した本人、デカルトの代名詞にも等しい。数学や物理学などもやっていたようだけれども「我思う、ゆえに我在り」の一言で哲学者のイメージが物凄く強いんだ。思考と存在を単刀直入に結び付けた表現は如何にも簡単らしい。ところが謎めきも凄まじくて何なのかと真剣に向き合うと全ての理解を弾き返すほどの印象を与えて止まない。

この土地での最初の省察を諸君に語らねばならぬかどうか私には分らない。それはあまりに抽象的なもの、かつあまりに一般的ならぬもので、それは世間の人たちにとっておそらく興味あるものでなかろうから。けれども私の捉えた基礎が十分に堅固であるかどうかを判断してもらえるためには、何らかの仕方でそれを私は語らねばなるまい。日常の道徳についていえば、きわめて不確実なものとわかっている意見にも、人はあたかもそれがまったく疑うべからざるものであるかのように、それに従うことが時としては必要であることを私は久しい以前から認め、そのことは既に述べてもおいた。けれども今この場合としては私はひたすら真理の追求に没頭したいと願うのであるから、まったく反対の態度を取らねばならぬであろう。いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものはすべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥けてゆき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちに残らぬであろうか、これを見とどけなければならぬと私は考えた。それとともに、私どもの感覚はややもすれば私どもを欺くものであるから、有るものとして感覚が私どもに思わせるような、そのようなものは有るものではないのだと私は仮定することにした。また幾何学の最も単純な事柄に関してさえ、証明をまちがえて背理に陥る人があるのだから、自分もまたどんなことで誤謬を犯さないともかぎらぬと思い、それまで私が論証として認めてきたあらゆる理由を虚偽なるものとして棄てた。最後に、私どもが目ざめていて持つ思想とすべて同じものが眠っているときにでも現れる、かかる場合にそのいずれのものが真であるとも分からない。この事を考えると、かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した。けれどもそう決心するや否や、私がそんなふうに一切を虚偽であると考えようと欲するかぎり、そのように考えている「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。そうして「私は考える、その故に私は有る」というこの真理がきわめて堅固であり、きわめて確実であって、懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束ねてかかってもこれを揺るがすことのできないのを見て、これを私の探求しつつあった哲学の第一原理として、ためらうことなく受けとることができる、と私は判断した。

デカルトの「我思う、ゆえに我在り」が著された方法序説の原文は母国語のフランス語で「Je pense, donc Je suis」(Discours de la méthode (éd. Cousin)/Quatrième partie)となっている。

日本語だと「私は思う、だから私は居る」がニュアンスとして精確だろう。人間について「私は在る」と一般的にいわないし、デカルトの言葉遣いも捻ってない。

主語が「我」ならば「在る」が合っているけど、フランス語の「Je」はどちらでも構わないというか、日本語の場合は「私」の他にも「僕」や「俺」など、一人称の人称代名詞は幾つも通用してしまうし、色んな翻訳が可能だ。

重ねてフランス語の「penser」(現在形一人称単数:pense)も思うと考えるが一つになっているから厄介で、どちらを選ぶか、または思考するとか纏めたりもできる。

文脈から判断するのが適切だろうけど、しかしデカルトは思うよりも考えているようでも考えると何かを認めるには至らないままに思っている感じもするのが難しい。

主体的に気持ちから捉えて疑いもなく考えるとすると「思う」が相応しい。いい換えると探求してないから必ずしも考えてないわけで、物事の発見を示している精神状態は「思う」の意味合いが強いのが適している。

デカルトの「Je pense, donc Je suis」の日本語訳はきっと「私は思う、だから私は居る」が完璧なんだ。

国内で広く伝えられる「我思う、ゆえに我在り」はいい回しが古いにしても主語が「我」の翻訳としてはピッタリだろう。

哲学的に概念化すれば「私は思考する、従って私は存在する」で抽象度が高いかも知れないし、または「私は考える、なので私は在る」みたいな解釈に持って行っても興味深いと感じる。

例えばスピノザカントは「考える」と「在る」でデカルトの主観性を精密に捉えていたのではないか、哲学者として認識論的に吟味しながら「知性能力」(考えながら在るという即応的な解釈/スピノザの能力重視の主知主義的な世界観)や「純粋理性」(考えてこそ在るという包括的な解釈/カントの理性重視の啓蒙主義的な世界観)を独自に見出だしたようだ。

デカルトの「我思う、ゆえに我在り」は三つの批判から哲学の第一原理として導き出されていた

  1. 道徳への疑念
  2. 感覚への疑念
  3. 思想への疑念

デカルトは方法序説の第四部の冒頭で彼自身の哲学の第一原理として「我思う、ゆえに我在り」の命題を提出した。

道徳と感覚と思想が何れも納得できなかった。少しでも疑念が抱かれてしまうから真実かどうかが分からない。本人は「真理の探求」というけれども世の中の真実でしかない対象を追い求めていて「我思う、ゆえに我在り」の命題に辿り着いたんだ。疑念を抱かずに済むのは道徳と感覚と思想ではない。何かを思って確かに在るという状態が真実でしかないと捉えていた。

他に例がないくらい斬新なのは思想が「かつて私の心のうちにはいって来た一切のもの」と把握されてしかも「夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した」と抜本的に否定されたところだろう。

普通に考えて何かを思って確かに在るという状態が思想なんだ。怪しい認識は誰も信じないし、信じて疑わない認識だけが思想なのに確かではないと尚更と退けられてしまった。

人類史上、初めての方法的な懐疑とも目されるし、後世のスピノザやカントを筆頭に取り分け哲学者にとって著しいけど、思考において人々への影響力の大きさは計り知れないほどの偉業を成し遂げていたんだ。

人間として気持ちの入った本物の思想を投げ出すように自分自身を差し置いて必要なかぎりの真実のために反省し切ったとすると相当に凄い。内面を完膚なく掻き毟られるほどの途轍もなく荒くれた状態に追いやられてしまうと想像する。

精神上、恐ろしいまでの苦しみを耐え抜いているはずだからどうすれば確かな認識が得られるかの方法論に全身全霊を捧げているし、哲学者そのものに他ならない生き方こそ明らかなわけだとすると感動しながら敬服せずにいられない。

およそデカルトの「我思う、ゆえに我在り」はそれ自体が一つの思想を打ち出していると受け取ってはならない趣向からあっさり納得できないけれどもだからこそ方法序説などで発表された十七世紀から二十一世紀に至るまで何百年も世界中の多くの人たちに問われ続けている命題なんだろう。

自分が何かを主張するよりも世界を知ることが大切だという信念が十分に実行されていて素晴らしいし、真実を追い求める曇りのない眼差しが完全に研ぎ澄まされていて美しい精神の持ち主だと称えたい。

デカルトが自らの内面を打ち壊すほどに我欲に囚われず、極めて冷静な知覚を行っていたし、客観的な認識が突き詰めて可能だったかぎり、哲学の第一原理の「我思う、ゆえに我在り」の命題の対象は現実そのものだったと察せられる。

方法序説の言葉遣いから分かるのは「私」の確かさだけれども「心」にはなくて「夢」ではない条件を満たしている真実でなければならない。

デカルトは「我思う、ゆえに我在り」で現実そのものこそ掴んでいたはずだ。

もはや道徳への懐疑で批判されるのは常識で、感覚への懐疑で批判されるのは経験で、思想への懐疑で批判されるのは内面だとしかいえないかぎりだ。

正しいかどうかは道徳でも感覚でも思想でもあり得るし、人間にとってそれぞれが本質的にいつでもどこでも不確かな対象ではない。

デカルトは現実そのものを何よりも知りたかったから「我思う、ゆえに我在り」と方法論的に定義したに違いないと納得するんだ。

面白いのは世界に人々の常識や経験や内面とは無関係にやって来るのが現実だと本当に良く分かる。

デカルトは哲学の第一原理に「我思う、ゆえに我在り」を当て嵌めながら現実そのものを指し示す考え方を哲学者として確立したとすると人生の幸せを抱き締めて不幸せに落ち込まないというか、つまりは普段からあらゆる世界を落ち着いて穏やかに見届けられるような人間性を会得したはずだから果てしなく格好良いと引き付けられる。

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