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芸術的な陶酔(小説)の第一部

ジグソーパズルのピースがたくさん散らばっていた。一つとして同じ形のピースはなかった。どのピースも形が異なっていた。僕はピースを二つ摘まんで(右手と左手に一つずつ摘まんだ)、それらを繋ぎ合わせようとした。恐らく接合部分が合わなかったんだろうと思うが、僕は摘まんだピース二つを繋ぎ合わせることに時間を費やした。それでも僕は次々とピースを繋ぎ続けた。合いもしないピース同士を繋ぎ続けた。ジグソーパズルの箱には完成図が印刷されていた。僕が繋いだピースの塊(接合部分が合わないので、それぞれのピースは重なったり、折れ曲がったり、隙間が開いたりしていた)は完成図と一致していなかった。彼女は僕を狂人だと指摘した。冗談だった。僕は敢えて意識的に合いもしないピース同士を繋ぎ続けた。それとも合うピースを探し出す途中の時間を拡大して強調するためだったのかも知れない。それは短い時間だし、ジグソーパズルが完成して箱の完成図と一致すれば忘れてしまうほど短時間に起こることだった。合うピースを探すとき、合うかどうかを試すためにピース二つを繋ごうとする。合わなければ別のピースを探し始め、合うピースが発見されれば満足する。それが本来のジグソーパズルの遊び方といえよう。しかし僕は本来のジグソーパズルの遊び方に満足できなかった。僕は合いもしないピース同士を繋ぐことによって異様な完成品を見ることになった。

僕はテレビを見た。詩を書いている青年の姿がテレビに映っていた。僕はピースの塊を掌に乗せて転がしていた。どこからどう見てもピースの塊は歪だった。僕は気分が悪くなった。感触が掌から腕に伝った。僕は後頭部を小刻みに振るわせた。僕は悪い気分を持続したまま、ピースを繋ぎ続けた。床からピースを摘まんで、ピースの塊に押し込んでいた。そのとき、僕はある声を聞いた。女性のような声だと僕は思った。彼女は歌を歌っていた。小型テレビに音符が飛び交っていた。僕はそれを見ていた。彼女は美しい声で歌ったり、喋ったりした。彼女に抓られると僕は擽ったいような痛いような感じを受けた。僕は彼女の歌を聞きながらピースを繋ぎ続けた。長く直接的に繋いだり、球形に集めたりした。僕と彼女は小型テレビに映っている音符を一緒に見ていた。彼女は歌い続けた。僕は彼女と一緒に見た音符のことを誰にも教えてはならないと思った。彼女は長々しく歌を持続させていた。音符を見たことを誰かに教えても構わない、教えようと教えなかろうと、そんなことはどうでも構わないと彼女は思っているかのようだった。

彼女と会わない日が続いた。長く感じられた。ピースの塊が残されていた。僕は何ともいえないような気分だった。そんなとき、古い友人が僕を訪ねて来た。僕が小学生だった頃からもう何年も会っていなかった友人だった。僕は玄関を開けて彼を迎え入れた。彼は無愛想な表情で胸の辺りに両腕を組んで椅子に座り、曲がった左脚に曲がった右脚を上から掛けて乗せていた。彼の右足は揺れていた。僕は茶を差し出した。普通、僕が茶を差し出すなんてことは想像もできないことだった。生まれてから初めて茶を差し出したように感じられた。友人は椅子に深々と座り込んでいて目前の茶を飲むような素振りは感じられなかった。茶は熱そうだった。しかし直ぐに冷めてしまいそうな雰囲気だった。僕は立っていることに疲れ、友人と向かい合って椅子に座った。僕は圧迫を感じ、彼に出て行って欲しいと思った。彼は出て行きそうになかった。僕は我慢の限界を越え、何の用か? と彼に訊ねた。彼は上半身を前方に傾けて両肘で支えた。彼は僕を罵倒した。僕は驚いて後方へ僅かに退いた。僕は座り直した。彼は僕を驚かせたことを謝罪すると鞄から銅像を取り出してテーブルに乗せた。彼は銅像を眺め、嘆息を洩らしながら惚れ惚れとしている様子だった。銅像は人形のような形で構成に隙間はなく立っていた。何のために生きているか? と彼は僕に訊ねた。いきなり飛んでもない質問を浴びせられたと僕は思い、唖然とした。銅像のために君は生きているんじゃないか? と友人はいった。僕は彼が精神異常だと思ったが、会話することはできそうだった。銅像以外のために生きている、と僕はいった。彼は銅像を掴んで撫で下ろしながら銅像以外のものも銅像に含まれているんだぞ、といった。僕は口を閉じて鼻から息を抜いた。君が銅像以外のもののために生きているということは銅像のために生きていることなんだから君が生きていられるのは銅像の御陰であり、銅像に感謝しろ、と彼はいった。僕は銅像から顔を背けて、嫌だね、といった。彼は両手をテーブルに強く付いた。茶碗から茶が零れ出し、灰皿が弾んだ。彼は銅像を握ると僕の側頭部を叩いた。僕は頭を両手で押さえて床に転げ落ちた。銅像に感謝しろ、と彼は怒鳴った。嫌だねと思いながら僕は床に倒れていた。彼が近付いて来たので、僕は銅像を奪い取って床に叩き付けた。銅像の一部分が小さく飛び散った。銅像の形は大して変わらなかった。友人は銅像をテーブルに置くと僕を抱え起こした。急に友人が優しくなったように感じられた。君は銅像を嫌っているんだな、しかしそれも銅像の御陰だ、と彼はいった。僕は銅像を右手で倒した。銅像から逃れようったって無駄さ、銅像から逃れられる奴なんていないんだからな、と友人はいい、銅像を立て直した。友人は僕の肩を抱いて、君が銅像を嫌って拒否すればするほど銅像の流儀に嵌まっていることと同じだよ、銅像なしじゃ君は生きられないんだからな、といった。友人は僕の髪の毛に開いた手を当てていた。僕は銅像を取り寄せて抱き締めた。おお、と友人は感嘆の声を洩らし、僕から少し離れた。部屋の扉が突然と開き、彼女が飛び込んで来た。何してるの? と彼女はいい、僕のそばに座った。友人は茫然と見ていた。僕は銅像と一緒に彼女を抱いていた。友人は僕から銅像を取り戻すと上着の袖で銅像を磨いていた。彼女の柔らかい胸を感じながら僕は銅像を叩き落とした。友人は銅像を拾い上げながら、いい加減に諦めろよ、銅像の素晴らしさを君は知ったんじゃないかな、と彼はいった。友人は財布から札束を出し、数え始めた。凄いわ、と彼女はいい、札束を見ていた。凄いこともないさ、と僕はいい、偽札だろ、と僕はいった。本物だよ、と友人はいい、札束から一枚を抜き取って僕に渡した。僕は両手で札を持って引き伸ばした。僕と彼女は札を見詰めた。精密にできているけど、偽札に違いないよ、と僕はいい、札を友人へ返した。本物だよ、と友人はいい、彼女の背中を押した。僕と彼女は重なり合って床に倒れた。札が、一枚、僕の顔のそばに舞い落ちた。本物じゃないかしら、と彼女はいった。まあ、そうかもね、と僕はいい、彼女の背中に巻き付けた腕に力を加えた。僕が友人を一瞥すると彼は札束を数えていた。僕は顔を傾けて落ちている札を見た。やっぱり、偽物だ、と僕はいった。本物だよ、と友人は札束へ顔を向けたまま、いった。どっちなのかしら? と彼女はいい、僕の顔に頬を当てた。銅像が決めることだよ、と友人はいった。僕は彼女の両耳にそれぞれの手を当てて塞いだ。そんなはずがないじゃないか? 勝手に決めないでくれよ、と僕はいった。友人は銅像を掴むと猛然と僕を殴ろうとした。僕は殴られた。僕と彼女は互いに密着したまま、転がって行った。友人は銅像を振り上げて追いかけて来た。銅像は断続的に床に叩き付けられた。僕と彼女は壁に接触してもう転がれなくなった。友人は追い付いて振り上げていた銅像を振り下ろした。僕は両腕で彼女の頭を覆った。投げ放たれた銅像はカーテンに包まれてゆっくりと落下していた。重々しい音が聞こえ、床に落ちた銅像は僅かに動いてから止まった。あげるよ、と友人はいい、部屋を出て行った。かわいいわね、と彼女はいい、銅像を部屋の隅に飾った。

家具の配置がいつもと違うように僕は感じた。僕は彼女と一緒に家具の置き場を元に戻した。彼女はカーテンを開き、端の方へ寄せた。寄り集まったカーテンに銅像は阻まれて見えなくなっていた。彼女は窓に向かって立ち。深呼吸した。僕は椅子に座り、テーブルに右肘を付くと右手を右頬に当てて顔を支えた。顔は傾いていた。左腕は筋力が緩み、左脇腹と接触しながら微妙に揺れていた。両脚は曲がったまま、並んで、両足は床に接地していた。尻は椅子に乗っていて撓んでいた。彼女は思い出したように声の音程を上げ、貰って行っていいかしら、といってカーテンを捲り、銅像を抱えた。構わないよ、と僕はいい、瞬きを繰り返した。あらそう、と彼女はいい、銅像を持って部屋を出て行った。

僕は冷蔵庫を開けて食料を漁った。空腹というわけでもなかったが、無性に何かを食いたくなった。常日頃の僕が小食だったことを思うと自分でも奇妙に感じられた。部屋の中の食料を、大方、食べ尽くしても僕は食い気が収まらなかった。釘でも鉄球でもガラスでも何でも構わないから食わせろと僕は思った。最硬度の牙を獲得したような気分だった。僕は釘も鉄球もガラスも食わなかった。もし食ったら怪我すると思った。もし食ったら狂人になると思った。僕はそれらを退けた。何でも食えるという気分やまた何でも食いたいという欲求は収まることがなかった。

僕はベッドに寝ていた。夜だった。照明は消され、テレビ画面が映っていた。音量は小さかった。まだまだ僕は食い気が収まらなかった。僕は想像した。このまま、食い気が莫大に増大し続けたらどうなるだろうか? と僕は思い、想像した。僕は驚いてベッドから跳ね起きた。幻覚を見ていた。莫大に膨れ上がった化物が目前に現れた。僕はベッドに倒れ込んだ。何だ、ありゃ? と僕はいった。声は震えていた。両瞼を閉じてまた開くとやはり化物は見えた。僕はその化物を僕だと思った。化物と僕は、全然、似ていなかったが、僕はそう思った。化物は物凄い筋力を備えていた。僕は詳しく幻覚を見続けた。幻覚は目前にあり、通常の視界を背景にして囲まれているようだった。背景の一部は幻覚を見ている僕の後方へと至っていると思われた。化物は一匹だった。遠くに森が低く横長に延びていた。都市があった。人々が逃げ焦っていた。高架道路の下に緊急隊員たち数人が集まってトランシーバーで会話したり、人々を避難所かどこかへ誘導していた。化物の話を理解できそうな人はいなかった。化物が何かを話すとそれだけで人々は恐怖して逃げ惑っていた。化物は立ち尽くしていた。寂しそうだった。

僕は一人で道を歩きながら暇さえあれば幻覚を見ていた。両目の焦点を暈すようにすると目前に幻覚が現れた。幻覚はいつも同じだった。化物が、一匹、いて都市にいて遠くに森が延びていて空が広がっていた。緻密に見ようとすれば部分を拡大することもできた。高架道路の下に緊急隊員たちがいたり、建物の隙間に突進する人々がいた。

僕の食い気はいつしか収まっていた。化物を何とか制御しなければならないと思い、それに心労を費やしていたのかも知れなかった。化物は制御するのが不能と思われたが、僕が必死に頑張れば制御できそうだった。化物が何かをしようとすると途端に僕は制御した。例えば化物が人を踏み潰そうとしたときに僕は化物の足を止めさせた。尤も化物はやたらに暴れたりすることはなかった。しかし巨大な化物を見ているだけで僕は恐ろしくなり、いつ危険な行動を開始するかも不明だったので、僕は化物を制御しようと必死になっていた。

僕は彼女に説得されて美術学校に入学した。僕はどんどん実力を備え続けた。素晴らしい技術を習得し、コンクールで一等賞を獲得した。僕は授賞式に参加した。みんなに拍手で迎えられた。僕はメダルと賞状を授かった。彼女が祝福のキスを僕に与えた。授賞パーティが終了すると僕は彼女と一緒に二人だけで場所を変え、授賞を祝った。

一等賞を獲得した絵はある画家が描いた絵をモデルにしていた。僕が注目したモデルは多くの画家たちが描いた絵に発見することができた。僕が注目した絵画を描いた画家は恐らくまた彼よりも以前に描かれていた絵画をモデルにしてそれを描いたと思われた。僕が注目したモデルとは平板な背景に特徴点を打つというか、盛り上げてみせるというものだった。背景を暗くして特徴点を明るくしたりした。さらに特徴点の数は一個ではなく、もっとたくさんあった。画面全体に特徴点をたくさん打つ場合、そうした特徴点の画面に占める面積が背景よりも大きくなってしまい、逆に特徴点の集まりが背景のように見えてしまうことがあった。僕は注意してそれを避けた。またそれでなくとも背景に特徴点が埋没してしまうような状況(例えば面積が大きい背景を明るくして面積が小さい特徴点を暗くしてしまうこと)も避けた。避けるべき状況二つのどちらか一方でも感じられれば僕は絵画を描き直した。

絵画を描いたときからかあるいは僕が一等賞を授賞式したときからか定かではないが、僕は絵画を描くことに対して非常な困難に陥るようになった。それ以前の僕と比べようもないような変化だった。精神的な不安と身体的な衰弱に悩ませられるようになった。以前の僕ならばそんなことに悩んだりするはずはなかったと思われた。古い友人が出て行ってから僕は精神的に快調だったし、体力も万全だった。それが全く両方とも逆転してしまった。僕は次の絵画を完成させることができず、描いたり、消したりしてそんなことを繰り返してばかりいた。絵画を描くと僕は不安になった。不安になると僕はせっかく描いた絵画を消してしまった。すると猛烈な疲れを感じ、食欲も減退した。何かを食べなければならないと思っても食事を行う気力も体力もほんの僅かしかなくなっていた。窶れた僕を見て彼女は心配していた。僕は彼女が見ていると思うと無理に食べなければならないと思ったし、また実際に食べもした。ただ彼女と過ごした食事の間も僕は絵を描くことを忘れなかった。僕は絵を描きたい、それを忘れたくても忘れられず、僕は絵を描くことができる時間を作成するというか、工面することに忙しくなった。そんなことをやっていると分かったことだが、絵を描くことができる時間が工面できたとき、僕は相当に疲れてしまっていてもはや絵を描くことなんかできもせず、休息しながら体力の回復を待ち、また彼女と食事をすることにもなっていた。絵を描くことができる時間を工面したり、疲れた体を休ませている間、僕はなかなか気分が安定していた。前者の場合、僕はまた絵を描けなかったと思いながらも動こうにも動けず、ベッドに寝たままだった。彼女が僕の部屋を訪れる(それが僕を起き上がらせる契機だったのかも知れなかった)と僕は両腕を支え棒のようにして上体を起こし、両脚をベッドに滑らせて床に下ろし、レストランへ出発することにしていた。彼女が食物を部屋に持ち込むこともあり、その場合、僕はベッドに座ったり、寝たりしたまま、食事を行うことにしていた。

柄にもないことだったが、僕は美術学校の先生に相談した。なぜ僕は疲れ易いんですか? と僕は疑問を先生に告白した。先生は、疲れない人なんかいないだろ? といい、誰だって働けば疲れるんだから休むことだ、といい、笑っていた。僕は疲れることに疑問を感じていた。というのは僕が幻覚を見たときの圧倒的な体力を知っていたからかも知れないが、僕は疲労するなんてことを信じられなかった。絵を描くための筆を持つことにも苦労するなんてことを僕は信じられなかった。過去の体力に憧れて現状の衰弱を否定するのも変だなと思われたので、僕は現状の衰弱を認めることにしようと思った。どうにも衰弱を避けられそうになかったので、どうなるかを予想もできないことだったが、逆に積極的に衰弱し続けてやろうと思った。逆転の発想だった。だからといって莫大な体力が復活するわけでもなかったが、しかし僕は体力の衰弱に悩まされる(莫大な体力を要求する)ことは殆どなくなった。また同じように悩まされる(過去に憧れながら現状を否定することによって悩む)ことがあるかも知れないと思うと僕は断言できなかった。幻覚を見る以前に僕はそうした悩みと無縁になったはずだったにも拘わらず、今回、そうした悩みに僕が取り憑かれてしまったことを思うとまたいつ何時そうなるかも知れないので、断言を控えることにした。尤も僕は精神的にそのような悩みから解放されていたことに変わりはなかった。ただしその悩みによって体力が減退したことに僕は違いを感じていた。幻覚を見ていた当時の僕であればそんな悩みを吹き飛ばすことは造作もないことだった(実際に僕は鼻息で吹き飛ばしていた)が、そうした悩みを吹き飛ばすだけの体力がなくなってしまうとき、また別の方法を探すべきじゃないかと思われていた。

丁度、夏休みだったので、僕は旅行することにした。僕は絵を描くことが極端に下手になってしまったので、何とか技術力を向上させることが狙いだった。森の中にログハウスを借りて僕は生活していた。ログハウスは一軒だけ森に囲まれていて別の家は森に遮られ、見ることもできなかった。

早朝、僕は森の端まで歩いて行った。海があった。太陽が照っていた。雲が、数個、浮かんでいた。僕は森の中からそれらを眺めていた。空気が漂っていた。僕は砂浜を歩いて行った。岩があり、僕は石段を上って岩に座った。岩は歩道と浜辺の段差の陰にあった。僕は前を見ていた。海があり、空があった。太陽光が海面と反射する光粒がたくさんあり、点滅していた。

僕はログハウスに戻り、作業を始めた。しかしすぐにやる気は失せ、僕はベッドに寝転がっていた。

描きたいことが何もないようだった。友人がログハウスに訪れて来た。もう描くことなんか止めれば、と友人は提案した。嫌だね、と僕はいった。嫌だっていっても実際に何も描けてないんだし、だらだらしていても仕方がないだろ、と友人はいった。僕は溜息を吐き、どうしてこんなことになってしまったんだ? といい、昔だったら描きたいことがたくさんあって描くことが楽しかったのに、といった。さあね、と友人はいった。僕は項垂れてベッドに寝込んだ。

僕は知人に電話した。電話が繋がると受話器から知人の声が聞こえ、それと同時にゲームか何かをやっているのか知らないが、楽しそうな戯れ声も聞こえていた。戯れ声を無視して僕は自分のどうしようもない実情を知人に話し、助言を求めた。それはある種のスランプ状態かも知れない、と知人は指摘し、画家を、三人、僕に教えた。一人は若くして原因不明で死亡していた。もう一人は人生の半ばに描くことを止め、別の仕事に従事していた。もう一人は延々と描き続けていた。知人は延々と描き続けていた画家を先例として強調し、僕が描き続けられる可能性を示唆した。僕は気力を感じた。しかし体力はさほど増えたというほどでもなかった。増加した気力を体力と結び付けようとすると体力も一緒に増すようだったが、結び付けようとしなければ体力は弱々しいままのようだった。それらを結び付けるためには意志を持続することが必要とされるようでもあった。

もう描くことを止めれば、といった友人はベッドの傍らに座っていた。銅像に関する一件があって以来、僕は何かと友人に対して反発というか、抵抗を試みることにしていた。友人は全くいい加減な奴で、彼が次にいったことは、描き続けなよ、だった。それに反発するために僕がいわなければならないことは、もう止める、だったが、そうなってしまうと僕は困るので、そうするよ、と僕は答え、励ましてくれてありがとう、とさえいう始末だった。

僕は友人に反発することを止めたかのようにも思われるが、実際にそうではなくて僕は極端に大袈裟に礼を述べ、恰もそれが誇張された嫌味として把握されるように計らっていた。しかし友人が僕の礼を聞き、恥ずかしがって嬉しそうな表情を見せることを思うと友人に対して謝罪したい気持ちが溢れ出し、友人を追い払って彼女と抱き合ってしまうこともしばしばあった。そんなとき、友人と彼女はとことんまで似通っているように思われ、僕は友人と抱き合っているような錯覚を感じていた。僕の誇張された嫌味は友人に向けられていたわけではなくてどちらかといえば銅像の方へ向けられていた。しかしそんなときにも友人と銅像が酷く似通っているように思われ、銅像に向けたはずの嫌味を友人は彼自身の身に受け取って辛く思ってしまうんではなかろうかということを僕は危惧した。ただ友人が僕の嫌味を聞き、辛く思っているかどうかを僕は分からなかった。友人は全く何事にも無頓着な性格を有しているのかも知れず、僕が勝手に一人で混乱しているだけなのかも知れなかった。

夜中に僕は起き出した。悪夢だった。銅像が喜んだり、悲しんだりし、また飛んだり、跳ねたりしていた。そんなわけで、僕は心地よい睡眠が阻まれてしまったが、強烈な睡魔を感じ、また眠り込んでいた。

翌朝、僕は悪夢を思い出して銅像に対しても友人に対するときと同じように謝罪の念を感じた。僕は銅像を布で磨いていた。布は雑巾だった。友人は雑巾を僕から奪い取り、未使用だった布を僕に渡した。僕は友人から受け取った布で、銅像を磨いていた。そうじゃない、と友人は強くいった。雑巾で拭くな、と友人はいった。僕は不思議に思い、作業を中断し、布を友人の方へ寄せた。雑巾じゃないよ、今さっき君から受け取った新品の布だよ、と僕はいった。いや違う、それは雑巾だよ、と友人はいった。僕は布を投げ捨てた。僕は両手を上空へ掲げ、どうしようもないよ、といった。どうもこうもない、最低だな、君は、銅像を雑巾で拭くなんて、と友人はいった。僕はもはや怒りが頂点に達し、怒鳴った。君が新品の布を渡してそれで拭いたっていうのに君はそれを雑巾だというのか? ふざけるのもいい加減にしろよ、と。僕は床に落ちていた雑巾を拾い上げると猛烈に銅像を擦り付けた。止めろ、止めろ、と友人はいい、僕から雑巾を奪い取った。僕は何も持たず、銅像を布で磨く友人を見ていた。

友人は僕を銅像に寄せ付けないようにした。僕が銅像に触ろうとすると友人は、汚い手で触るな、といって僕を退けた。僕は洗面所へ行き、蛇口から水を噴出させ、石鹸を両手で擦り、泡で両手を洗った。石鹸が小さくなるまで僕は両手を洗い続けた。濡れた両手をタオルで拭いて僕は意気揚々と銅像を触ろうとした。しかし友人は、汚い手で触るな、といって僕を押し飛ばした。友人は勝手に僕を汚いと見做していると僕は思った。

あんなに銅像を嫌っていたあなたがなぜそんなに銅像を触ろうとするの? と彼女がいった。嫌ってなんかいないよ、しかしあいつめ僕を汚いと見做していやがるんだ、と僕はいった。構わないじゃない、放っておけば、と彼女はいった。僕はどうしても我慢ならなかった。僕は銅像と友人の方へ近付いて行って腕を伸ばした。友人は気付くと伸ばされた腕を叩き落とした。畜生め! といって僕は舌を打ち鳴らした。

確かに彼女がいったように僕は友人と銅像を放っておくべきかとも思われたが、しかし納得できなかった。我慢ならなかった。友人は、汚物だ、といった。僕は周囲を見回した。汚物らしきものは見当たらなかった。君だよ、君、と友人はいって僕を指し示した。何を! と僕は叫んだ。可哀想な汚物よ、と友人はいい、銅像に頬擦りしていた。どうして僕が汚物なんだ? 君こそ汚物そのものじゃないか? と僕はいった。銅像がそういっているんだ、君は汚物だって、と友人はいい、銅像に耳を当て、何やら聞いているような素振りを見せた。馬鹿なことをいうな、と僕は鼻息を抜いた。一体、僕が何をしたっていうんだい? と僕は友人に訊ねた。知らない、と友人は答えた。友人が僕を汚物と見做すことを僕は何とも思わなかったが、しかし恐ろしくなった。汚物はどうなるんだい? と僕は堪えられずにいった。汚物はトイレに落ちて下水道に流されてばらばらになるんだ、と友人はいった。汚物が僕だと思うと恐ろしくて仕方がなかった。僕はトイレの穴に引っ掛かって流れやしないよ、と僕はいった。余程、大きな汚物なんだな、しかし大きなトイレだってあるんだよ、流そうと思えば流せるんだよ、と友人はいった。だったらもっと大きな汚物を捻り出そうじゃないか、と僕はいった。じゃあもっと大きなトイレが必要だ、と友人はいった。僕は飽き飽きして友人から顔を背けた。

君は僕を流したいのか? と僕はいった。友人は銅像を抱き締め、両瞼を閉じていた。彼は眠り込んでいるようだった。そんなことでもなさそうだ、と知人が現れていった。知人はログハウスに飛び込んで来ていた。どういうことだ? と僕はいい、知人に会えたせいか安堵感がどっと染みていた。ゲームを中断してまでも知人が来てくれたと思う(知人はゲームを終わらせてから来たのかも知れなかったが)と僕は知人に礼を述べたくなったが、そんな間もなく、知人は話し続けた。いやね、彼が君を流すつもりだとしても分かっていることだが、彼はいつもいうことがいい加減だろ、だから全く逆のこと、つまり君を流さないことをも考慮するべきだと思うよ、と。彼に狙いなんてものは、一切、ないんだ、まあ、あるといってもないといっても同じだがね、と知人はいった。単なる脅しか? と僕はいった。いや、そう決め込んでも駄目だ、と知人はいい、脅しだと思い込んで不可能な夢だなんて思い込んでいると逆に危険だよ、といった。不意打ちに遇って流されてしまうかも知れない、と知人はいった。携帯電話が鳴った。知人は携帯電話のボタンを押して呼び出し音を止め、相手の声を聞きながら返事を繰り返していた。携帯電話のスピーカーから小さな声の雑多な集まりが静寂に紛れて聞こえた。知人はゲームの続きを行うために帰って行った。相変わらず、忙しい人ね、と彼女はいった。

雨が降った。屋根に欠陥があったらしく、天井の一部から水滴が点線になって床に落ちていた。修理工が、数人、来た。一人が数人から離れて立っていた。彼は図面を見ながら数人に対して指図を行っていた。数人は一斉に作業を始めた。床に積まれていた木材を運んで脚立を上り、天井に嵌め込んだ。欠陥があった木材は部屋の外に運び出された。僕と彼女は修理代を払うためにログハウスから出た。欠陥があった木材はトラックに乗せられていた。彼女は明細書を受け取り、修理工と雑談しながら金を彼に渡した。彼はトラックのドアを開け、座席に座り込んだ。トラックのドアが閉まった。エンジンが始動し、トラックは揺れていた。震える排気管から黒っぽい煙が噴き出して徐々に拡散しながら白くなって煙は消えた。トラックはログハウスから離れて行った。

また戻って来るよ、と友人はいい、スパナを僕に見せた。置き忘れてしまったんだ、友人はいった。スパナなんか屋根修理に使われていたか? といって僕は思い出した。しかしスパナは屋根修理に使われていなかったように思われた。戻って来ないね、と僕はいい、あいつらたくさん持っているんだから一つくらいなくなったって何とも思わないよ、といった。戻って来るさ、賭けてもいい、と友人はいい、スパナを振った。何を賭けるんだ? と僕はいった。銅像を賭けてもいい、と友人はいった。もし戻って来なかったら銅像をどうするんだ? どうしたってどうしようもないんだぞ、と僕はいい、捨てたって壊したってまた形を変えて現れるんだぞ、といった。あっ、といって友人は視線を逸らした。小型自動車が向かって来ていた。小型自動車は庭に停車した。作業服を着た修理工が屈みながら降り立った。修理工は後頭部を手で押さえながら、あの、とゆっくりいい出し、スパナがどこかに落ちていませんでしたか? といい、見回していた。これですね、と友人はいい、スパナを空中に翳した。ああ、といって修理工は安堵したような表情で溜め息を吐き出し、それです、といい、スパナを受け取った。助かりました、これがないとぶっ叩かれるんですよ、と修理工はいい、チーフにね、といって小型自動車の方へ歩いた。修理工は小型自動車に乗り込んだ。車内が狭くて乗り難そうだったが、修理工は何とか身体を縮め込んで小型自動車を運転して行った。小型自動車が見えなくなるほど遠く去ろうとしたとき、君が何を賭けるかを聞いていなかったね、と友人はいい、ガムを噛み始めた。友人は賭けに勝ったという満足感に浸っているようだった。僕は唾液を飲み込んでから、僕は君と賭けを行うなんて承諾してなかったんだぞ、といった。それは済まないことをした、と友人はいった。僕はうんざりして、賭けるつもりなんかないんだよ、と強くいった。いやいや、もしもの話として、と友人はいい、僕の腕に絡み付いた。僕は友人を振り払い、もしもも何も賭けないっていっているんだよ、といった。友人は項垂れてログハウスに入って行った。雨が大降りになっていた。

夏も終わりそうな季節だった。暖気が部屋に篭っていて外の方が寒くなっていた。僕と友人は向かい合って座っていた。僕と友人の間にテーブルがあった。テーブルにはカップが二つ置かれていた。カップにはコーヒーが入っていた。コーヒーは熱かった。熱いコーヒーが冷めた頃、僕はコーヒーを飲んだ。君は賭事を嫌いなんだね、と友人はいった。好きだよ、と僕はいった。だって君は賭けないっていっていた、と友人はいった。賭けないといっても賭事を嫌っていることにはならないよ、と僕はいった。友人は両手でカップを包むようにして持ち、背中を丸め、コーヒーを少しずつ飲んでいた。だって君は好きだといったじゃないか? と友人はいった。好きだといっても好きとは限らないよ、と僕はいった。それじゃ話にならない、と友人はいい、コーヒーをまた少しずつ飲んでいた。彼は気分が変わり易いのよ、万華鏡みたいだもの、一瞬ごとに変わるの、と彼女がいった。そうでもないさ、いつも同じだよ、と僕はいった。彼女は不貞腐れてテーブルに突っ伏した。僕は彼女の背中に手を置いていった。とにかく僕は好きだからといって賭事を行うようなことはしたくないんだよ、しかし賭事を行わないからといって賭事を嫌っているわけでもないけどね、と。じゃあ賭事を見ているの? と彼女はいった。見てもいないよ、と僕はいった。どうして見ないんだ? と友人はいった。見ているよ、と僕はいった。見ているんならば賭事に参加すればいいじゃないか? と友人はいった。分かったよ、参加するよ、と僕はいって立ち上がり、コーヒーカップを素っ飛ばした。床に落下してコーヒーカップが割れ、破片が飛び散った。零れ出したコーヒーが床に広がって黒くなった。黒い泡が幾つか現れていた。

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