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芸術的な陶酔の第二部|小説

僕は友人と一緒に競馬場へ行った。僕は馬券を買って観客席へ紛れ込んだ。大勢が観客席に集まっていた。馬が、数頭、トラックの幅に並んでいた。ゲートが開き、レースが始まった。僕は馬券を折り曲げないように持っていた。周囲の人たちは馬券を握り締めていた。友人もそうだった。僕は馬券を丁寧に扱っていることが不自然に思われた。ゴールへ向かって走る馬の列は乱れていた。レースの着順が電光掲示板に発表された。友人は馬券を破り去った。僕は馬券を見た。僕は馬券を破り去らなかった。馬券は当たっていた。友人は、見せて、といった。僕は友人に馬券を近付けた。友人は馬券を取ると換金所へ走り込んだ。僕は友人を後方から追いかけて行った。友人は金を受け取ると一部だけ(僕が馬券を買ったときの金額)を僕に渡した。おい、僕が当たったんだぞ、と僕はいった。嘘だろ、僕が当たったんだよ、と友人はいった。そうだな、と僕はいい、でもやっぱり僕が当たったんだよ、といった。そうさ、君が当たって僕が金を貰った、と友人はいった。僕と友人は次のレースにも賭けた。僕が買った馬券は外れた。友人が買った馬券は当たった。当たれば当たるものだな、と友人はいい、札束を上着のポケットに入れた。上着のポケットが膨らんでいるようだった。そのとき、僕は所持金を使い果たしていた。僕は空腹を感じた。友人は出店でたこ焼を買った。友人はベンチに座り、たこ焼を食べていた。僕は口の中に唾液を溜めながら口を動かしている友人を見ていた。僕は公園の水道を使って水を飲み、空腹を紛らわした。濡れた唇を上着の袖で拭くとベンチに戻り、友人の隣に座った。食う? と友人はいってたこ焼を、一個、僕の前に差し出した。いらん、と僕はいった。欲しいんだろ、と友人はいった。欲しいさ、と僕はいった。じゃあ、一個、あげるよ、友人はいった。いらないよ、と僕はいった。我慢強いんだな、と友人はった。一個、貰うよ、と僕はいった。残念ながらもう、全部、食べちゃったんだ、と友人はいい、プラスチックケースを僕に渡した。捨てといてね、と友人はいい、公園を出た。プラスチックケースにはたこ焼の滓や青海苔やソースがこびり付いていた。僕はそれらを舌で掬い取って味わいたくなった。しかし僕はゴミ箱へ投げ入れることにした。僕がプラスチックケースをゴミ箱へ投げると風に吹かれて軌道が逸れ、茂みのそばに落ちた。犬がプラスチックケースを舐めていた。

どうだった? と彼女はいった。どうもこうもないさ、といって僕は昼間の出来事を話した。酷い話ね、と彼女はいった。友人が帰って来た。僕が当てた金はどうした? と僕は友人にいった。全部、使っちゃったよ、と友人はいい、欠伸をしながらテレビを映して見ていた。返しなよ、と彼女はいった。どうして? 僕はあいつから貰ったんだよ、と友人はいい、テレビを見ていた。彼女は僕を見ていった。あげたの? と。僕は頷いた。酷いわ、私だって欲しいものがたくさんあったのにあんな奴にあげるなら私に頂戴よ、と彼女はいった。次は君のために取っておくよ、と僕はいった。約束よ、と彼女はいった。僕は頷いた。

さっぱり僕は当たらなくなっていた。いつしか僕は競馬に没入していた。ログハウスに戻る途中、僕は歩行が進み難くなり、両脚が重く感じた。重い扉を何とか押し開けて(開けるか開けないかと何度も悩み躊躇った後にそうした)僕はログハウスに戻った。また外れたの? と彼女はいった。僕は弱々しく頭を垂れ下げた。もういいわ、あなたになんかもう期待しないわ、と彼女はいって台所へ行き、料理を作っていた。焦げた臭いが充満していた。換気扇を回せよ、と友人が大声でいった。うるさいわね、何なのよ、あんたは? いつからここの住人になったっていうの? と彼女はいった。いつの間にか、と友人はいった。煙と焦げた臭いが徐々に消えていた。彼女が料理を運んで来た。皿がテーブルと衝突して固い音が響いた。皿に置かれていた焼魚がずれた。焼きすぎだよ、と友人はいい、黒焦げだぞ、といい、食っていた。僕は焼魚を箸で細かく切り分け、申し訳なさそうに食べていた。賭事なんかもう止めたら? 全部、絵を描かなくなっちゃったじゃない? と彼女はいった。僕は焼魚の肉を噛みながら二回とも頷いた。

夜中に僕は部屋を抜け出した。競馬場へ向かった。僕は呼び止められた。僕が振り向くと知人が立っていた。構わないのかい? と知人はいった。何が? と僕はいった。だって賭事を止めるっていっていたんじゃないの? と知人はいった。僕と知人は一緒に歩いた。街路灯が道路を照らしていた。周囲は暗闇だった。ガードレールが白かった。白いペンキが乾燥して罅割れていた。止めるっていったってこのままじゃ止めるに止められないよ、と僕はいった。知人は身体を捻り、ズボンのポケットを探った。知人は皺になった札を、数枚、取り出した。僕は唇を噛んで見詰めていた。これをあげるよ、と知人はいい、彼女に渡して君が競馬で当たったことにしろよ、といい、札を持った手を僕の方へ寄せた。僕は躊躇った。ほら、と知人はいい、札を僕の胸に押し付けた。僕は両手をズボンのポケットに押し込んでいた。どうして? と知人はいった。しかし何だか勝手が違うような気がする、と僕は呟いた。何をいっているんだ、君は? 競馬で当てるっていうのはこういうことをいうんだよ、と知人はいった。僕は驚いて、えっ、と呻いた。まさか君は電光掲示板に発表された数字と馬券の数字が一致することだとでも思っていたのか? と知人はいった。僕は頷いた。知人は溜息を一つ吐き出して、呆れるよ、全く、といい、札の皺を丁寧に伸ばしていた。知人は自動販売機の挿入口へ札を合わせた。自動販売機の羅列するボタンの赤いランプが点った。知人はボタンを一つ押した。暫くして小箱が落ちた。知人は屈んで自動販売機から小箱を取った。知人はセロファンを摘まんだ手を小箱の周囲に巡らした。知人は銀紙を破り開き、煙草を小箱から取り出して僕に渡し、もう一本を小箱から取り出して口で咥えた。知人はズボンのポケットに手(小箱を持っていない手)を入れてライターを取り出した。ライターのスイッチを知人は押した。火が出た。僕は煙草を口に咥えた。知人はライターの火を僕が咥えていた煙草の先端に合わせた。僕は煙を吸った。僕は煙を吐いた。知人は咥えていた煙草に着火して煙を吸った。知人は煙を吐いた。なあ、と知人はいい、確かに君が僕から礼を受け取ることは換金所に行って礼を受け取ることと違うし、僕から礼を受け取って競馬で当てたというのは嘘になるのかも知れないが、これからはそうじゃないんだ、馬券を当てるっていうのは僕から礼を受け取ったということになるんだ、しかし勘違いするなよ、次に君が困難に出会って道端を歩いていたとしても僕がまた君に礼を渡すなんてことはもうないんだからな、またあるとしても別の話だろう、と知人はいった。しかし、と僕はいった。煙草の灰が落下した。知人が咥えている煙草の先端は灰が斑になっていて火が橙色に輝いていた。しかし君から礼を受け取ることが馬券を当てることになるっていうのは意味が成立しないんじゃないか? と僕はいった。そりゃそうさ、と知人はいい、こんなことを理解できる奴なんていやしないよ、といった。じゃあやっぱり僕は受け取れないよ、と僕はいった。どうしようっていうんだ、君は? と知人はいい、電光掲示板の数字と馬券の数字を一致させようとしたって不可能だよ、といった。それに可能だとしても時間を無駄にすることになるんだ、と知人はいった。僕と知人はガードレールに座っていた。そうか、分かったよ、と知人はいい、何回も頷いた。受け取れないんだな、と知人はいった。受け取れないんだよ、と僕はいった。仕方がない、と知人はいって暗闇に紛れて行った。僕はログハウスの方へ歩いて行った。道路はアスファルトだった。固かった。靴底のラバーが緩やかに弾んでいた。

僕は部屋の窓を開けた。窓枠に右足を掛け、左足を地面に踏ん張ってから離した両手で窓枠を掴み、僕は窓枠に飛び乗った。僕は靴を脱いで室内に静かに飛び降りた。僕は窓を閉め、カーテンを引っ張って閉めた。僕は玄関まで行って靴を置いた。僕は部屋に入った。彼女は眠っていた。僕は布団を捲り、彼女の隣に忍び込んだ。僕は彼女と一緒に眠った。電話が鳴った。僕は両瞼を開けた。彼女が虚ろな声で、何? といった。僕はベッドから滑り下りて布団を押し直した。僕は遠く歩いて電話まで行った。僕は受話器を取った。警察が相手だった。

僕は門の間を通って玄関を逸れ、自転車を止めた。自転車を置くと僕は建物の傍らを歩いた。石段が続いていて石段と建物の間に植木が並んでいた。僕はコンクリートの階段を上り、玄関へ向かった。僕はガラス扉を押し開けて建物の内部に入った。部屋の面積の半分に机がたくさん並んでいた。並ぶ机の上の空間は遮られていなかった。部屋の周囲の一部分にロッカーが建ち並んでいた。また部屋の壁があった。大きな窓が壁に嵌め込まれていた。外の暗闇を僕は見た。テーブルに手を置いた人が前傾姿勢で僕に顔を向けた。その人はスーツを着込んでいた。警官だった。僕は背を丸めてぎこちなく歩いて行った。僕は両膝を曲げたまま、歩き、警官に近付いた。僕は電話で呼び出されたことを警官に説明した。知人がテーブルのそばに座っていた。警官は僕に僕と知人の間柄を訊ねた。学校の同級生です、と僕は警官に答えた。警官は不審な表情を示し、兄弟じゃなかったのか? といった。僕は知人を見た。知人は頭をテーブルの方に垂れていた。知人の首は婉曲し、皺はなくなっていて刈り揃えられた髪の毛が整っていた。もし髪の毛を触ればちくちくしそうに僕は感じた。彼の両親は旅行に行っていていないので、僕が代わりに来ました、と僕は答えた。兄に電話すると聞いていたんだが、兄はいないのか? と警官はいった。彼の兄も両親と一緒に旅行中なのです、と僕はいった。警官は眉間に皺を寄せた。電話で話した人は君か? と警官はいった。はい、そうです、と僕は答えた。彼の兄を呼び出すように頼んだんだが、君は、はい、私が兄です、と答えていたな、と警官はいった。はい、と僕はいった。僕は何事も感じていない、また警官の迫力に圧倒されていないという素振り(普段と同じような素振り)を示して胸を僅かに張り出しさえした。僕は鼻水を静かに吸い上げた。僕は静かにしようと思ったが、すると逆にどんな小さな音さえも尋常と思えないほど大きく感じられた。警官はメモ帳を捲っていた。僕は鼻から溜息を抜いた。なぜ君は彼の兄でもないのに、兄です、と答えたんだ? と警官はいった。僕は何というかを分からなくなった。答えていませんとか気が動転していましてとか別の人がそう答えたんですとかを僕は思った。ん、と警官はいい、どうしてだ? といった。なぜそんなことを知りたいんですか? と僕は警官にいった。私が質問しているんだぞ、と警官はいい、反抗的だな、といった。僕は後頭部に手を当てて掻いた。髪の毛が擦れ合った。そんなつもりじゃありません、と僕は警官から顔を外らしていい、嘘をいってしまいました、と僕は警官に顔を向けていった。だからなぜそんな嘘をいったかと訊ねているんだ、と警官はいった。しつこい警官だなと僕は思い、警官なのかどうかが怪しく感じられた。しかしどこからどう見ても警官のようだった。なぜといわれましても、と僕はいい、身体を捩った。時々、彼女が見せるような可愛らしい仕草を僕は思い出した。はっきりしないな、ちゃんと答えろ、と警官はいった。知人がテーブルに手を乗せていた。手は拳だった。拳が震えていた。僕は顔をあちこちへ動かしながら立っていた。理由はありません、と僕は答えた。理由もなく嘘をいう奴がいるか? と警官はいった。いると思ったが、警官をからかっていると思われそうだったので、僕は警官に頷いていた。なぜだ? なぜ嘘をいった? と警官はいった。変な声が聞こえた。彼は僕の兄なんです。と知人はいった。何? 彼は君の同級生だと答えたんだぞ、全然、話が合わないじゃないか? と警官はいった。だから僕と彼は互いにそう呼び合っていたので、電話したときに彼は兄だといってしまったんですよ、と知人はいい、誰かに訊ねられたとき、癖になっていたものですからそう答えてしまったんでしょう、といった。ということは君はそんな兄を呼び出そうとしたのか? と警官は声を荒げていった。違います、と知人はいい、兄と彼は同じ家に住んでいたことは確かなんです、といった。知人の隣に座っていたもう一人の警官(立っている警官よりもスーツの色が濃い)が調書を記載していた。まさか君らはそんな空想的な兄弟関係を利用して不動産屋から家を借りたんじゃあるまいな? と警官はいい、それだけじゃないぞ、銀行から金を借りるにしても何にしてもだ、といった。そんなことは決してありません、と知人はいい、家を借りた人は兄てすし、彼は兄の厚意でその家に住み込んでいたんです、といい、僕たちはただ互いを呼び合うときにほんの些細な遊び心として兄弟といっていただけです、といった。知人の話声はだんだん小さくなった。警官は僕に向き直った。兄だと答えることが君は癖になっていたのか? と警官はいった。知人は閉じた口を動かしていた。彼の表情は緩んでいた。はい、そうです、と僕はいった。警官は鼻を鳴らし、不満そうだった。調書を記載していたもう一人の警官が、理由なんかありませんといったことに関して追求する必要があるんじゃないでしょうか? 警官は低い声を響かせて頷いた。どうして理由なんかありませんといったんだ? と警官はいった。僕は口を閉じたまま、喉を鳴らしていた。調書から顔を上げた警官は、君は癖になっていたことを認めたんだから理由がないなんて変だし、また理由がないとすれば癖になっていたなんてことは認められないはずだ、といった。どうなんだ? といって警官は僕に迫った。僕は後方に、一歩、退いた。僕は上半身を傾けて倒し、下半身は縒れながらも平衡を保っていた。僕は調書を見た。理由なんかないと書かれた部分を消してくれないかと僕は思った。警官がそんな要求を認めるはずがないだろうと僕は思った。僕は知人を見た。知人はテーブルに右肘を付いて横顔に右手を当てていた。知人の左手は垂れ下がっていた。僕は癖になっていたということを撤回するつもりもなかった。もし撤回すれば厳しい尋問がどこまでも続いてしまうように僕は感じた。さらにその場合、僕が癖になっていたことを認めたことも新たに問い詰められそうだった。おい、といって警官は僕の腕を強く掴んで僕を引き寄せた。どうなんだ? と警官はいった。癖になっていたことが理由だからです、と僕はいい、もしそうでなければ依然として理由はないことになります、といった。はぁ? といって警官は息を吐いた。警官は僕の腕を掴んだままだった。だから癖になったことが理由なんですよ、と僕はいい、しかしそうだとしても癖になったことが理由かどうかは別の話です、といった。警官は僕の腕を掴んでいた手を離した。締められていた袖が徐々に緩んだ。警官はスーツの衿を引っ張ってから、すると君は理由を認めてないことになるな、理由なんかありませんといったんだから、といった。はい、そうです、と僕は掴まれていた腕を押さえ、残っていた感触を消し去ろうとした。突然、警官は僕の服を握り締めた。そんな話を信じられるか? と大声でいい、真面目に答えろよ、といい、僕を押し飛ばした。僕は椅子を弾き飛ばして床に腰を打ち付けた。いい加減な答えばっかりしやがって、と警官はいい、癖になっていたわけじゃないんだな、といった。いや、と僕は震える声でいい、癖になっていたのは間違いありません、といった。君は理由なんかありませんといい、それを認めていないんだから癖になっていたわけじゃないんだろ、と警官はいった。僕は左右に首を振った。僕は調書を奪い取って逃げ出したいと思った。どうすればいいんですか? と僕は警官に聞こえないように小さく呟いた。留置場へ放り込むか? と警官がもう一人の警官へいった。調書を書いていた警官は納得し難いようだった。両手で頭を抱えていた知人が警官を見上げ、彼が理由なんかありませんといったことに大した意味はありませんよ、奇声を発したというその程度のことだったんです、といった。警官は両腕を組んだまま、否定的な素振りを示した。まあいい、と警官はいい、このままじゃもうどうしようもない、彼がそれを認めているかどうかは別として調書に記載しておこう、といい、癖になっていたんだな? といった。頷いた僕は脱力したまま、床に座り込んでいた。もう一人の警官が鉛筆を持った手を動かしていた。僕は認めていますよ、と僕は床に跪いていった。理由なんかなかったはずじゃないか? と警官はいい、何回も頷いていた。僕は漠然と床を眺めていた。警官が調書から顔を上げた。彼は理由を認めていないことに同意したはずだったんですが? といって警官は微笑んでいた。警官は二人で見詰め合ってから僕を見下ろした。立っていた警官は笑い声を出しながら、狂っているんだよ、といった。

知人はこっ酷く警官から説教を聞かされていた。僕は項垂れている知人を見ながら自分も説教を受けているような気がしていた。僕は一歩ずつ玄関へ進んで行った。警官の説教は長かった。知人が漸く警官のそばから離れると僕は警官に呼ばれた。僕は警官のそばへ行った。警官は上着のポケットからメモ帳を取り出し、開いて見ていた。君もそんな癖を直すようにしなければ駄目だ、と警官はいい、充分に反省しているんだろうな、といって僕を睨んだ。あんたにいわれるまでもなく、承知していると僕は思い、頷いた。警官は渋い表情を示し続けていた。一回も同じような真似をするなよ、と警官はいった。僕は頷いた。分かってんのか? と警官はいって表情を固めた。はい、一回も同じような真似はしません、と僕はいった。警官は執拗に僕を見ていた。僕は警官に謝ってから歩き出した。

僕が玄関から出ると知人が待っていた。どうして逮捕されたんだ? と僕はいい、石の階段を下りた。知人は既に石の階段を下り終えていた。僕は知人に続いて歩き、加速して知人の隣に行った。逮捕されたんじゃない、と知人はいった。事情を、と知人はいった。僕は置いてあった自転車を取りに行き、自転車のハンドルを掴んで進行方向を操作し、押していた。事情を訊ねられていたんだ、と知人はいった。僕と知人は門を出た。

通行人を殴ったんだ、と知人はいい、というか喧嘩になってしまったその相手が警官だったんだよ、といった。僕は警官二人を思い出した。どっちだったんだ? と僕はいった。終始、座っていた方だ、と知人はいった。どちらにしても同じようなことだと僕は思った。どうして喧嘩なんかやったんだ? と僕はいい、僕が君から礼を受け取らなかったからか? といって知人を見た。分からない、と知人はいい、むしゃくしゃしていた、といった。だからといって喧嘩なんかするなよ、と僕はいった。知人は唾液を吐き捨てた。

暗い景色の中に歩道がやや白く、遠くなるほど黒くなって続いていた。歩行とともに回転する自転車の前輪と後輪が間隔を交えて音を発していた。歩道と車道の間に木が並んでいた。僕は自転車のサドルに跨がって乗った。知人が歩行する速度に合わせて僕はペダルを踏んだり、止めたりした。

狂いそうだったよ、と知人はいった。殴る寸前? と僕はいいながら左右に分かれてペダルを踏んでいる両足を上下させていた。殴る寸前に狂いそうになったのは君じゃないか? と知人はいい、警官を殴ろうとしただろ? といった。僕は口を最大限に広げ、笑い声を出した。声は夜に広がり、樹木に吸収されたようだった。僕は両頬を上昇させたまま、口を閉じ、口を開けていった。君はいつ狂いそうだったんだ? と。君と別れて歩いていたときに警官と出会して見られて付き纏われて話を聞かされ、訊ねられたときかな、と知人はいい、堪らないほどの耐えられないほどの執念深さだったよ、あいつは、といい、僕が無造作に腕や脚を動かし回している間に警察署まで連れて行かれたんだ、といった。僕は知人よりも前方に出るとブレーキを使い、減速した。僕は知人が歩行する速度に合わせてペダルを踏んだ。

僕は昼まで眠っていた。僕は受話器を取ってその両端を同じ側の耳と口に合わせた。僕は受話器を持っていない手の人差指で電話のボタンを押した。受話器から連続した音が、数回、聞こえた。受話器から聞こえていた微小な雑音が消えた。僕は知人と公園で会うことを約束した。僕は鞄を用意した。僕は画材道具を鞄に入れた。僕は鞄を肩に掛けてログハウスから出た。彼女が草毟りを行っていた。僕は森を抜ける道を歩いた。

公園の中央に噴水があった。池があった。僕はベンチに座った。僕は鞄を隣に置いた。僕は前方を広く見ながらベンチに凭れていた。知人は僕の背後から僕の肩を叩いた。僕は叩かれた肩の方に顔を向けた。知人はベンチの端を回り込んでからベンチに座った。いい天気だな、と知人はいった。僕は陽光を感じて、うん、といった。僕と知人はそれぞれに両太股に画用紙を置いた。僕は鞄を僕に近い方のベンチの端に置き直した。僕は僕と知人の間にパレットを置いた。パレットの分割されたスペースに一つずつ絵具をチューブから押し出した。知人は噴水の方を見ていた。知人は筆の先端に絵具を染み込ませて画用紙に染み込ませた。もう僕たちが会うことはできないんだろうか? と僕はいった。僕は筆を持った手を動かすことを止めず、僕が持つ筆の先端はパレットと画用紙を繰り返し、往復していた。知人は噴水と画用紙を交互に見比べながら絵を描いていた。それがどうした? と知人はいい、何か不都合でもあるのか? といった。僕は不都合を思い出して暫し落胆したが、何とか気持ちを安定させて絵を描き続けた。彼女が怒っているんだ、と僕はいい、というか嫌がっているようなんだ、といった。嫉妬かな、と知人はいい、最近、僕たちが会うことが長くなりすぎているのかも知れない、といった。僕は尻が痛くなり、座り場所を僅かに移動した。もう会うことを止めても僕は構わないよ、と知人はいい、噴水に顔を向け、画用紙に顔を向けた。僕も同じだよ、と僕はいい、しかし会うことを止めたとしてもまた会ってしまったら、結局、どうにもならないじゃないか? と僕はいい、絵具が含まれた筆先で画用紙をなぞった。そりゃそうだ、と知人はいった。知人は筆先を空に向け、僕を見ていった。それはそうと友人は元気か? と。僕は友人を思い出した。僕は顔を噴水に向けたまま、両目で知人の顔を見て、元気なんじゃない? といい、どこを歩き回っているか知らないけど、といった。

僕はログハウスに戻った。知人の助言に従ってそうしたことだった。僕は椅子に座り、コーヒーを飲んでいた。彼ともう会わないんでしょ? と彼女がいって僕の隣に座った。僕は彼女の意見に対して賛成とも反対とも理解し難いような素振りを示した。どうしたの? それともまた会うんじゃないでしょうね? と彼女はいい、僕の首の辺りに密着させていた顔を離した。僕はもう彼と会うつもりはないよ、と僕はいい、でもやっぱり会いたいような気持ちが、多少、あるんだ、といった。彼女を嫌がらせるために知人と会うことはつまらないと僕は思った。またしかしそれを無視したとしても知人と会いたいという気持ちを僕は感じた。さらに彼女は僕よりもむしろ知人とこそ会いたがっているのではないかという思いが僕にあった。僕は彼女の腰に腕を掛けて引き寄せた。君は僕を使っているだけで彼を好きなんじゃないの? と僕はいった。彼女は驚いたようだった。どうして? 彼のことなんか好きじゃないわよ、と彼女はいい、あなたが彼ともう会わないことだけよ、私が望んでいるのは、といった。あなたが彼と会っている間に私は一人になってしまうわ、と彼女はいい、涙が光った。

僕は彼女と一緒に夜を徹して遊び続けた。彼女は眠っていた。僕は知人を思い出した。知人は僕と彼女が会っている間、一人になっているだろうかと僕は思ったが、彼の場合、そんなことを意に介さず、ボールか何かのように跳ね回っているだけのように思われた。また彼と電話で話すときにいつも聞こえる戯れ声のような嬉々とした音を僕は押し出し、彼は大勢の連中と一緒に楽しく過ごしているんじゃないか(僕よりも)とも思われた。すると僕は知人を憎らしく思われたが、もはや彼と会いたくないという決心は起こらなかった。逆により一層と会いたくなったのかも知れず、しかしいるかいないかは定かではないが、そうした連中に紛れ込んで会いたいのではなく、いつも会っていたときのように大勢の連中を除いて彼と会いたいと僕は思った。すると何だか僕は二人だけで会うことに素っ気なさを感じ、もう別れたいという感じだった。

彼女の寝顔を暫し見てから僕は部屋を抜け出した。僕は知人と二人だけで会った。つまらんな、と僕はいった。そうか? と知人はいい、君は僕の家にそういえば来たことがなかったな、といった。知人は鍵の束を持った手を僕の前に垂れ下げて振った。知人の家を訪れたとしてもつまらないと僕は思った。来るか? と知人はいった。止める、と僕はいった。知人は表情を変え(安堵を感じさせる表情だった)、部屋の中が散らかっているんだ、といい、来ない方が得策だよ、といった。もう君と会いたくなくなったよ、と僕はいった。知人は両上瞼を下ろし、顔を前方に傾けた。ああ、そう、と知人はいった。つまらないんだ、と僕はいった。そうか、と知人はいい、僕はつまらない奴だよ、と気が抜けた声でいってその場を離れて行った。僕は知人の背中を見ながら思った。今の僕の彼と会いたくない気分は一時的なものだと。明日になって気分が変わればまた僕は彼と会いたくなるかも知れなかった。

僕は布団を被ってベッドに寝ていた。柔らかい枕に後頭部を乗せて左右に転がしていた。僕は布団を顎まで引き寄せた。僕は布団から顔だけ出して寝ていた。夜は更けていた。

浜辺がクリーム色になっていた。白い砂粒が疎らにあった。海から出て来た彼女が僕にくっ付いた。水滴が僕の身体にくっ付いてそれらの幾つかが流れた。僕は彼女とキスした。知人を思い出した。彼は雑踏を突き抜けて来るような速さを備えていた。彼は速かった。しかし決してどこにも到達しないような、いやしかし到達したとしても遅すぎるようでもあり、彼が到着することはいつでも遅すぎるのだが、その到着しようとして急いでいる彼の様子はやはり速いとしかいいようがないほどだった。彼の遅さは非難される類のものではなかった。彼の到着を待っている限り、非難されるかも知れない彼の遅さだったが、そうでなければ猛烈な速度で会いに来る彼は長い距離を走らなければならず、遅くとも仕方がないなと僕は思った。どうして彼を嫌うんだ? と僕は彼女にいった。だって何だか油臭いのよ、あの人、と彼女はいい、僕の胸に頬を当てた。そりゃアルバイトで彼は整備士をやっているからだよ、と僕はいった。風呂に入っているのかしら? と彼女はいった。入っているよ、と僕はいった。染み付いちゃってもう臭いが取れなくなっているのね、と彼女はいった。僕はもう彼と会うことを止めたいと思った。彼は僕が呼べばいつでもどこにでも来てくれる相手だった。彼と会うことを企ててそれで会ったとしても僕と彼は何もすることはなく、どうすることもなかった。僕は彼が自動車を整備している姿を想像していた。

君と一緒にいる間もどうしても知人の姿が消え去らないんだ、と僕は彼女にいった。滝にでも打たれれば忘れられるかしら、と彼女はいった。彼女が知人を嫌わなくなれば僕は彼を忘れられると思った。しかし僕は彼を忘れる必要もないと思われた。僕は買物に行って来るといおうと思ったが、知人に会いに行く、と彼女にいった。駄目よ、と彼女はいい、僕の腕を掴んだ。僕は彼女を振り払おうと思ったが、止めた。どうして? と僕はいった。会いに行くなんて駄目よ、と彼女はいった。遠くの浜辺に小さく友人らしき人物が見えた。そこから、一瞬、光が舞った。銅像が輝いたらしかった。僕は脱力して浜辺に寝転んだ。彼女は僕に寄り添って寝た。彼女は僕の胸に手を置いた。僕の胸は鼓動していた。会いに行くなんて駄目よ、と彼女はいった。

僕は眩暈がしていた。僕は部屋のベッドに運ばれていた。ドアがノックされた。ドアが開いて彼女が飲物を盆に乗せて運んで来た。飲物は温かいレモンジュースだった。僕は彼女の柔らかい身体をきつく抱き締めた。僕は悲しくなっていた。彼女が僕と知人が会うことを阻む障壁のように思われていたことを僕は悔しかった。これ、と彼女はいい、手紙を僕に見せた。知人から送られた手紙だった。具合はどうだい? 元気になってね、と書かれていた。もう一つ小さな手紙が封筒に入っていた。彼女へ宛てられた手紙だった。それを僕は彼女に渡した。彼女は小さな手紙を読んでいた。僕は気になってそれを読んだ。彼を看病してくれてありがとう、と書かれていた。僕は知人の紹介で彼女と出会ったことを思い出した。

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