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芸術的な陶酔(小説)の第三部

彼女が知人を嫌っていることに変わりなかった。しかし僕はそのことを気にもせず、知人と会うことも続けていた。彼女は僕が知人と会っていたことを知るとやはり僕を罵倒し、また知人をも罵倒していたが、だからといって僕と彼女が愛し合っていることに変わりはなかった。僕と彼女は絡み合ってベッドから転がり落ちた。絡み合いは解けず、僕と彼女はそのままで床の上を左右斜めあらゆる方向に回転していた。そうしている間に僕は彼女と一緒にベッドの下に入っていたことに気付いた。ベッドの下は埃だらけだった。衣服や髪の毛に埃の塊を何個もくっ付けながら僕と彼女は一人ずつベッドの下から這い出した。僕と彼女は風呂場へ行き、シャワーで互いの埃を隅々まで流し落とした。僕と彼女はシャンプーで頭を洗い、石鹸で身体を洗い、全身の泡をシャワーで流し落とした。

僕が知人と会えば会うほどますます彼女は嫌がった表情を見せ、もう彼と会わないで、と叫んだ。すると僕と彼女はより一層と強く抱き合うという始末だった。彼女の叫び声はログハウスの外にまで届いていた。驚いた友人が慌ててドアを開け、僕と彼女を引き離した。友人は銅像で僕の頭を叩いた。僕は頭から流血した。彼女は僕の頭を両手で支え、傷を消毒し、包帯を巻いた。どうしてそんな奴を庇うんだ? と友人はいった。だって可哀想だわ、と彼女はいい、僕の頭を抱き締めた。止めろ、止めろ、と友人はいい、彼女の肩を引っ張って僕の腹を蹴り飛ばした。友人は銅像で僕を叩こうとして僕を追いかけた。僕は逃げた。

僕は一目散に知人の家に飛び込んだ。知人は紅茶を用意していた。僕は紅茶を飲んだ。紅茶は薄い茶色で湯気が漂い、微かにレモンの香が混ざっていた。あいつと一緒にいると身体中が痛くなって仕方がないよ、と僕はいい、紅茶を飲んだ。僕は知人を見た。知人は僕を見ていた。君が無事で安心したよ、と知人はいった。知人はカップをテーブルに置くと溜息を吐いた。

僕はログハウスに戻った。友人と仲直りしなければならないと僕は思った。僕は箱を持ってテーブルに置いた。何、何? と彼女がいい、箱を開けた。ショートケーキが、三個、入っていた。これで何とか? と僕は友人にいい、頭を下げた。何をだ? と友人はいい、ショートケーキを一瞥した。早速、彼女はショートケーキを食べていた。僕も食べた。友人は鼻を鳴らし、いらんわ、といった。あらそう、と彼女はいい、友人のために残してあったもう一個を食べてしまった。友人は立ち上がり、部屋を出て行った。

僕は知人と待ち合わせた。僕たちがレストランのそばを通ると友人が一人で食事を行っていた。僕と知人はレストランに入った。友人はスパゲッティを食べながら両目で僕を見上げた。僕と知人は友人と向かい合った席に並んで座った。調味料が入った小瓶が置かれた場所に混ざって、一際、大きな瓶があるなと僕は思った。銅像だった。僕は銅像を持ってスパゲッティの上で振り動かし、友人をからかった。友人は噛んでいたスパゲッティを飲み込むと、止めろ、といった。僕は気分を損ね、銅像をテーブルに置いた。止めた方が良いよ、と知人はいい、銅像を誤解する恐れがあるからな、といい、タバスコの瓶をスパゲッティの上で振った。タバスコ数滴がスパゲッティに落ちた。友人はフォークでスパゲッティを掻き回した。ありがとう、と友人はいい、スパゲッティを食べた。辛すぎないだろうかと僕は思いながら友人を見ていたが、友人は噛んでいたスパゲッティを吐き出すこともなく、飲み込んだ。食後のコーヒーが運ばれて来た。どうしてショートケーキを食べなかったんだ? と僕はいった。食えないよ、あんなもの、と友人はいった。友人は熱心に読んでいた漫画本から顔を上げ、食わなくたって構わないじゃないか? といい、食ったからといって君たちが仲直りできるとも限らないよ、といってまた漫画本に顔を向けた。友人がショートケーキを食べなかったからといって僕と友人が啀み合っていると限らないと僕は思った。僕たちは険悪なのか? と僕はいい、それとも良好なのか? といった。友人はコーヒーを飲んでいた。知人は溜息を吐き、呆れたようだった。もう最悪だよ、と知人は声を震わせていい、頭を垂れた。知人はレストランから出た。友人が知人に続いた。友人は腹を押さえて満腹な様子だった。僕は一人だけ残された気分になり、彼らを追ってレストランから出た。

僕はやっと部屋に辿り着くと疲れてベッドに倒れ込んだ。隣の部屋に彼女と友人がいた。テレビの音量が扉と壁の隙間から小さく聞こえ、談笑する声が聞こえた。僕は億劫なので、照明を使うこともしなかった。夜だった。

朝だった。天気は快晴だった。僕は爽快な気分で部屋を出た。友人が絵を描いていた。僕は柄にもなく友人が描いていた絵を見て褒めた。うるせえな、と友人はいい、描くことに意識を集中していた。テーブルに銅像が置かれていた。僕は銅像を倒した。友人は激怒して銅像で僕を殴った。友人は銅像を置き直すとまた絵を描き始めた。僕は庭に出た。彼女が花に水を与えていた。僕は彼女のそばに屈んだ。きれいでしょ? と彼女はいった。僕は頷いた。色々な花が並んでいた。僕は全部に対して頷いた。私、これ、嫌いなの、と彼女はいい、茶色の花を指した。それは最悪だね、と僕はいった。可哀想だわ、と彼女はいった。彼女は茶色の花に水をたくさん与えた。色が変わることはなかった。仕方がないよ、そういう花なんだから、と僕はいった。見ていると辛くなるの、と彼女はいった。僕は茶色の花を根刮ぎ引き抜こうと思ったが、止めた。僕は立ち上がり、小石を蹴り上げた。小石は大して上がりもせずにすぐに落下し、転がって止まった。僕は両手を別々にズボンのポケットに包み込ませて散歩へ行った。

森のそばを僕が歩いていると金色に眩い花が咲いていた。珍しい花だった。僕は金色の花を引き抜こうと思った。しかし曲がりくねった茎や婉曲した花弁を触ろうとすると悪寒や寒気が感じられた。僕は金色の花に背を向けて離れて行った。その間、僕は何回も瞬間的に振り返り、金色の花が咲いていた方向を見た。

僕はストアに行ってアイスクリームを二つ買って来た。僕はアイスクリームを彼女に渡した。彼女は嬉しそうに笑ってアイスクリームを舐めた。友人は、いらない、といって絵を描いていた。僕と彼女は庭の隅に座ってアイスクリームを舐めていた。彼女の辛さが多少なりとも癒されたようだった。遠くに小さく茶色の花が見えていた。辛いわ、と彼女はいい、アイスクリームを舐めた。彼女の舌がアイスクリームを掬い取りながら上下左右にくねくねと動いていた。

雷が鳴った。急速に空が暗くなった。僕と彼女は急いでログハウスに入った。雨が大量に降っていた。僕と彼女は窓際に座って外を見ていた。空が光った。雷鳴が轟いた。大丈夫かしら? 花、と彼女はいった。全滅だろうね、と僕はいった。豪雨だった。当分、雨は降り止まなかった。僕と彼女はテレビゲームで遊んでいた。

雨雲が逸れ、徐々に傾いた陽射しが数を増し、太さを増した。僕はテレビゲームを止め、扉を押し開けて外に踏み出した。外気は湿っていた。地面に雨水が含まれていた。水溜まりがそこここにあった。彼女が後ろから僕の背に密着し、僕の首に腕を掛けた。僕は花壇(といっても囲まれているわけではなかった)へ行った。あーあ、と彼女はいい、花壇の近くに屈んだ。花は全て倒れていた。茎は折れていたり、折れていなかったりし、花弁は散っていたり、散っていなかったりした。倒れた花々は濡れていた。茶色の花も無残だった。屋根を作っておこうかしら、と彼女はいった。僕は大工作業を想像し、疲れを感じた。

僕は板と鋸と釘と金槌を用意した。板を三枚に切り分けた。鋸を板に当てて押したり、引いたりして切った。板一枚の両端に一枚ずつ別の板を垂直に接合した。接合部分に釘の先端を当てて釘の頭を金槌で打った。金槌で打っていた釘の頭が板に沈むまで金槌で釘の頭を打った。僕は完成した屋根を地面に立てた。屋根の下は暗かった。日光が届かなかった。屋根の下に花を植えることは花の成長を妨げる恐れがあった。僕は彼女と相談して屋根を使用することを止めた。屋根が倒れた。僕と彼女は相談した。結局、ログハウスに接近した地面(日光を受け易い方向にある場所)を選び、そこに花を植えることにした。そうすると確かに花が雨に打たれて倒れる可能性がなくなるわけではないが、しかし花を倒すほど強い勢いがある雨が花に到達する方向が減少し、雨に打たれて花が倒れる可能性は減少する(花が雨を避けるべき障害物がない場所にあるよりも)と思われた。彼女は所定の場所に花の種を撒き散らしていた。埋めた方がいいんじゃない? と僕はいった。そうだね、と彼女はいい、スコップ(園芸用)で土を掘り起こし、穴に花の種を入れ、花の種が入った穴に土を被せた。彼女はスコップの背で土を均していた。僕は作業を終了したという心地よい疲れを感じ、両腕を上げて全身を伸ばした。

僕は作ったまま、用がなくなった屋根を見た。屋根は何にも利用法がないようだった。僕は屋根を分解した。重労働だった。屋根は接合部分が固く、容易に外れなかった。僕は力を込めて接合部分を分離した。板が三枚になった。板の端に貫通している釘を僕は抜いた。釘が刺さっていた板の端を地面に叩き付けたり、釘抜きを使ったりした。抜けた釘は曲がっていたが、ほぼ真っ直ぐだった。僕は板三枚を重ね、釘数本を集め、鋸と金槌と釘抜きを揃え、それらを物置に保管した。

彼女が萎れた花々を眺めていた。彼女は悲しそうだった。僕も彼女の隣から見ていた。彼女はスコップの先端で花弁や茎を繁った雑草の方へ弾いた。時々、地中に張った根と繋がったままだった茎があり、彼女が芝生へ弾こうとしても根と繋がった場に留まりながら揺れていた。

僕は久し振りに絵を描いた。画布に線を何本も描いた。向かい合った画布の両端を線で繋いだ。画布のもう一組の両端も線で繋いだ。線で囲まれた四角が画布にたくさんあった。それぞれの四角を僕は全て別の色になるように絵具を塗った。そうすると僕は、多少、安心できた。僕はまた別の画布にも線を描き、たくさんある四角に色を塗った。僕は色の配置を前回の絵と異なるようにした。僕は大量に絵を描いた。画面の構成はどれも同じだったが、色の配置は全てが異なっていた。知人が部屋に来ると欠伸をした。退屈な絵だな、と知人はいった。僕は絵を壁際に並べて鑑賞した。どれもこれも繋がっているように見えた。僕はそれぞれの絵を区別しようと思っていたが、しかしどれも似ているように見え、また同じ絵だと思われもし、さらにたった一枚しか絵がない(並んだ絵が繋がっていて一枚になった絵)かのようにも思われた。色の配置が異なっていても構成が同じだから並んだ絵が同じに見えてしまうのかも知れないと僕は思った。知人が絵を差し出した。大木が描かれていた。配色は全体的に暗く、濃かった。濃緑の葉が繁り、濃茶の幹(黒い筋が疎らにあった)が画布の半分に位置を占めていた。知人が描いた絵を見ていた僕は以前に僕が描いていた泥沼を思い出した。僕が描いていた絵はたくさんあり、部屋が狭く感じられるほど壁際に並べられ、また重なり合ったり、床に置かれていてどれもどちらかといえば暖色が強い傾向だった。そうした絵に囲まれていた僕は何か朗らかな気分になり、部屋全体がいかにも画家が住むべきアトリエだという印象を受けた。急に僕は自分が画家になったように感じた。しかし所々に見える壁や床、あるいは家具や小物類は相変わらず、くすんでいるようだったので、散在する絵を整理すればそうしたアトリエとしての部屋の雰囲気もなくなるだろうと僕は察知できた。僕は絵を部屋の隅に纏めて重ねた。暖色が強い絵の表側を遮断するようにして僕は絵を重ねた。僕の手が届かなくなるほど段が高くなると僕はその隣の壁際に残った絵を纏めて重ねた。僕は床に座り、煙草を一服した。

何、やってたの? と彼女がいった。僕は何とも答えようがなかったので、曖昧に話を逸脱させ、彼女を促してテレビゲームを始めた。僕と彼女は対戦した。いつもならば僕と彼女は力量において互角だったが、僕は連続的に負けた。勝つ毎に彼女は両腕を振り上げて喜んでいた。僕は悔しくなったが、喜ぶ彼女を見ていると逆に喜びを感じることもあった。

僕は部屋に戻った。僕は一人だった。最も低い段の最も上にある絵を僕は引っ繰り返した。全体的に暖色が強い絵を僕は凝視した。両目が痛くなるほど痛くて疲れるほどに感じられた。僕は何回も瞬きし、乾きそうな両目を涙で潤わせた。その絵を見ていると僕は別世界に行くことができる、あるいは行くことができたとさえ思った。不思議だった。別世界といってもアトリエのことだったが、暖色が強い絵を飾ると部屋がアトリエになると僕は思った。しかし一枚だけでは駄目だった。僕は絵をたくさん並べた。しかし駄目だった。僕は夢から覚めたような感じだった。絵を飾ったからだと僕は思った。絵を持って歩きながら絵を揺らしたときに絵の表側と裏側が交互に現れていたことが僕の夢を覚ましたようだった。強い暖色は薄暗い絵の裏側を無視させる効果があったのかも知れなかった。もう一度、僕は夢心地になろうとして並べていた絵を段に纏め、その最上段の一枚を引っ繰り返した。その絵を僕は壁に立て掛けた。僕は暖色を凝視した。印象は前回よりも弱く感じられた。同じことを繰り返せば繰り返すほど印象が弱々しくなり、色もくすむだろうと僕は推測した。僕は思い出した。最初に絵を見たとき、恰もその絵の中に入り込めるかのような錯覚を僕は感じていた。しかしもはや絵の中に入り込もうとしても画布が破れるか、それとも頭を負傷するかしかできそうになかった。

夜になり、食事を済ませた僕は部屋に入り、ベッドに寝て布団を被っていた。窓も扉も閉じられていた。僕はどうにも眠れず、思いを巡らせていた。空想に耽っていた。メリーゴーランドが回転していた。白馬や馬車や王子や王女が上下しながら円周に沿って動いていた。以前、僕が幻覚を見たとき、幻覚に自分がいると思って驚いたが、今回の場合、幻想的な映像の中に僕は自分を意識的に登場させていたので、驚きはなかった。恍惚感や陶酔感を感じようとすればできないこともなさそうだったが、僕はごく僅かだけそれらを感じることにし(感じるための意識的な操作が必要だった)、大半、微睡んでいた。確かに僅かだとしても僕が微睡んでいた間に何が起こっていたかを僕は知らなかった。それを思うと僕は僕が寝ているベッドに穴が開いて落ちそうな気がした。僕はベッドを肘で付いて感触を確かめた。やや驚いたが、少し安心した。僕は何が何だか自分でもさっぱり分からなくなってしまった。あらぬ方向へ僕の思いが逸れているような気がした。幻想的な映像の中を走っている自分がいて、またそうした映像を巡らしている自分がいた。さらに僕の背後にも自分が、もう一人、いるようでもあり、そうなるともうどんどん自分が増殖するようだった。暖色の絵をたくさん描いたときと同じだと僕は思った。

朝方、僕は虚ろな感じで窓の外を見た。靄が漂っていた。日中にも拘わらず、電球が灯されていて外の明るさと電球の明るさを区別できず、恰も電球が灯っていないかのような(その場合でもしつこく見れば電球は灯っているのだが)感じを受けるときのその灯っていないような電球と同じような明るさが外から部屋の中にまで明度が減少しながら通じていた。その明かりは実際に灯っていない電球と同じほどの明るさとも思われるが、しかし灯っていない電球が明るいことは変だと思われ、結局、電球のガラス素材がどこかの光を反射するか受けるかして明るいときと同じようだった。

僕は森の中にある道を歩いた。一歩ずつ歩いた。木々が次々と道の両側に並んでいた。僕は走った。木々は繋がって形が失われていた。道は一本だった。僕は歩く速度を減じた。木々が次々と道の両側に並んでいた。僕は進行方向を逸らし、木々の間に侵入した。枯れた落葉が地面に密集していた。僕は森の中にいた。霧が濃かった。僕は幹を触った。樹皮は凹凸があり、僕が樹皮を触れた指先に凹凸が伝わった。つまらなくなって僕は部屋に戻った。森から出てどこへ行っても変わらないと僕は予感していた。僕が期待していたことは森が別世界と繋がる(急に部屋がアトリエになったと感じられた瞬間と同じような印象を受けたい)ことだった。残念ながら期待は外れた。

僕は精力的に絵を描くようになった。朝も昼も区別がなくなるほどに作業を続けた。彼女は僕の姿を見て驚いていた。僕がスランプ状態だった頃、画布のそばにぶっ倒れて這い蹲っていたことを彼女は指摘した。僕は暖色の絵を見たときに感じられた印象を彼女に教えなかった。どうしてどうして? と彼女はしつこくいった。僕は、分からない、といった。彼女は拗ねた。彼女は僕が描いた絵を取り上げて眺めた。さらに彼女はその一枚と壁際に散在した数多くの絵を見比べているようだった。どれも同じような絵ばっかりね、と彼女はいい、退屈に感じているようだった。同じような絵ばかりたくさん描いたって仕方がないんじゃない? と彼女はいった。僕も同感だった。しかし細かく執拗に見ればどの絵も違っていると僕は思っていた。以前にあなたが描いていた泥沼の方を私は好きだったんだけど、と彼女はいい、部屋から出た。ドアが閉じられた。僕は彼女のために泥沼を描こうとした。しかし別な技術が体得されてしまったからか以前に描いていたような泥沼を僕は描けなくなっていた。描いたとしても僕は納得できなかった。どうしても何か画面が全体的に輝いているように思えてしまい、あの光沢が絵具に沈んだような泥沼と異なっていた。

知人が部屋に訪れた。それにしても同じような絵ばかりを描いていてよくも退屈しないものだな、と知人はいい、呆れていた。知人はどこから持って来たか分からないような絵を僕に見せた。大木が描かれた絵だった。それは僕が暖色の絵をたくさん描いていたときに知人が持って来た絵と同じようだった。君も同じ絵ばかり描いているじゃないかと僕は思ったが、その絵は僕が描こうとしても描けなくなっていた泥沼と同様な技術で描かれているようだった。全体的に光沢がなく、暗色の絵具が大量に使用されていた。渦巻いた絵具が画布の至る所にあり、大小も様々だった。暗色の絵具は画布の表側と裏側を繋ぐ側面にも垂れ固まっていて僕が絵を捲ると画布の裏側にまで達していた。僕が絵を顔に近付けて見ると画布に穴が開いていた。穴は小さく、空洞の内周も真っ暗だった。虫に喰われたのか? と僕は知人に訊ねると彼はいった。穴なんか開いていないぞ、と。えっ、と僕はいい、絵を顔にもっと近付け、鼻の先が乾いた絵具に接触し、臭いが感じられ、絵具が乾いた体温で溶けそうだった。僕は顔を画布から少し離した。知人はベッドに座り、自棄糞な調子で着ていたシャツやズボンを探り、煙草を取り出し、煙草を咥え、ライターで煙草に着火し、煙を吸った。ライターの火は消え、知人は煙を吐き出した。僕は画布の裏側を見た。裏側は板になっていて黒っぽい絵具が点々としていた。画布の表側と裏側が貫通していて溢れ出た絵具が固まった黒い点々だと僕は思ったが、画布の側面に固まった絵具と続いて裏側にまで飛び散った絵具が点々になったものだとも思われた。乱暴に描かれているから穴が開いていても変じゃないなと思ったよ、と僕はいった。丁寧に描いたつもりだったんだが、と知人はいい、火が着いた煙草を右手の人差指と中指で挟み、口から離し、左手をベッドに置いていた。知人は右足を床に着地させ、曲がった右脚に曲がった左脚を掛けたまま、左足を揺らしていた。いつ描いたんだ? と僕は絵を見ながらいい、絵を持つ両手に力を加え続けた。昨日の夜だったかな、と知人は天井の方へ顔を上げていった。知人は口を窄め、煙を吹き出した。つい最近だな、と僕はいった。知人は首を回していた。知人は煙草を灰皿に押し付けた。煙草は縮み、煙が煙草から離れ、膨らみながら上昇し、拡散して消えた。貰って構わないか? と僕はいった。どうぞ、と知人はいい、そのために持って来たんだ、といった。僕は知人に対して謝罪したい気分だったので、散在していた僕が描いた暖色の絵一枚を床から拾い上げて知人に渡した。知人は絵を受け取った。しかし知人はまだ大量にある暖色の絵を一瞥した。欲しかったら、全部、あげるよ、と僕はいった。全部、あげたとしても僕はいつでも同じような絵を描くことができると思っていた。持ち帰ることが面倒だし、どれも同じだから一枚で結構だよ、と知人はいい、部屋から出て行った。知人は絵を途中で捨てるんじゃないかと僕は思った。知人にとって暖色の絵はつまらないんじゃなかろうか、またそれでなくとも彼がその絵をどうするんだろうかと僕は心配というわけでもなかったが、興味を感じた。僕は部屋を出た。ログハウスを出た。彼女が何かをいったが、既に僕はかなり遠くまで走り去っていた。

森の中に通じている道は一本しかなく、知人の後姿が見えた。知人は僕に気付き、どうしたんだ? といった。僕は呼吸が乱れていてなかなか話せなくなっていた。相当な勢いで来たんだな、と知人はいって僕を見た。ずっと君がベッドに寝たままだったことを思うと信じ難いほどの速度だ、と知人はいった。君ほどじゃないよ、と僕は屈んだまま、いった。断続的な呼吸で僕の話は間延びした。どうしたんだ? と知人はいい、何か用か? といった。その絵をどう使うかを知りたくて、と僕はいった。知人は暖色の絵は胸の前に出した。美味しそうだから食べようかな、と知人はいった。狂っているのか? と僕はいい、絵具と画布と画板と釘を食べるなんて、といった。知人は大声で笑った。冗談だよ、と知人はいった。ああ、と僕はいい、息を吐いた。空腹だ、と知人はいい、腹を摩った。僕は台所から持って来たパンを知人に渡した。パンはふっくらと小麦色に焼けていた。知人はパンに齧り付いた。パンの白い中身が現れた。知人は食べながらいった。用意がいいんだな、と。まあね、と僕はいい、恥ずかしくなった。もういらない、と知人はいい、絵を僕の胸に寄せた。僕は受け取りたくなかった。僕もいらないよ、と僕はいった。じゃあ額縁に嵌めて部屋に飾ることにするよ、と知人はいった。僕は心配になった。どうして飾るんだ? と僕はいった。僕は知人の家まで行って彼がそれを行うかどうかを確かめたい衝動に強く動かされ、全身が奮えた。止めだ、止めだ、と知人はいった。僕と知人は森から出る寸前まで歩いていった。ゴミ箱があった。知人は絵をゴミ箱に入れた。そのうち回収車が来て処分するだろ、と知人はいった。僕は躊躇った。僕は絵をゴミ箱から取り戻した。僕を殴るつもりか? と知人はいい、一歩、後退して緊張した様子だった。そんなんじゃない、と僕はいった。僕は絵を持った両手を高々と振り上げた。精一杯、振り上げると僕は最高の力を両腕に加え、両脚で体勢を整えて両脚を振り下げた。絵が地面へ強烈に落下した。絵は、数回、弾み、止まった。僕は絵を何回も何回も踏み潰した。僕は涙が溢れそうだった。おい、もう気が済んだだろ、と知人はいい、怒り狂って暴れ続ける僕を捕まえた。捕まえられても僕は絵を踏むことを止めず、届かなくなっても両脚を振り続けた。

僕と知人は道路傍の石段に座って休んでいた。絵の残骸がゴミ箱のそばに放置されたままだった。あんなことじゃあこれから先が心配だ、知人はゴミ箱の方を見ていい、あの程度のことじゃあ何にもならない、といった。僕は涙をシャツの袖で拭き取った。僕は笑った。心配無用だ、と僕はいい、却って楽しみだよ、といい、さらに笑った。知人は僕を見ていた。知人は立ち上がると絵の残骸を拾って来た。見ろよ、ゴミだらけになっちまった、と知人はいった。知人は指で埃や石粒を除けようとしたら怪我した。ガラスだ、と知人はいい、血の粒を僕に見せ、怪我した指を舐めた。知人は僕から顔を背け、唾液を吹き飛ばした。僕は背を丸めて海へ顔を向けていた。こんなとき、どうするべきだろう? と僕は呟いた。捨てるに捨てられないな、と知人はいい、相変わらず、止まらない血を舐めて唾液を垂らした。地面が薄赤い唾液に浸された。浜辺の端に林があり、それらの境界付近に流れ着いたゴミが溜まっていたことを僕は思い出した。しかしそんな場所に絵の残骸を捨てることを僕はできなかった。君なら適切な仕方を知っているんじゃないか? と知人はいい、暖色の絵を描くほどなんだから、といった。うーん、と僕は唸っていた。随分と長い時間が経過した。夕暮れが接近していた。適切な仕方が思い当たることはなく、僕は絵の残骸を持って知人と分かれ、ログハウスに帰った。

部屋に入ると僕はカーテンを引っ張った。カーテンは閉じた。僕は絵の残骸を床に放った。僕は部屋を出て友人と彼女と一緒にテーブルを囲んだ。三人は食事を行っていた。僕だけ料理が、一品、少なかった。彼女は僕がパン一個を持ち出したことを指摘し、そのパンの代わりに僕の料理を、一品、減らしたことを説明した。まあ、いいさと僕は思った。僕は満腹にならなかった。食事を終えた友人が満足そうに椅子に凭れてテレビを見ていた。僕は空腹のまま、部屋に戻った。僕は床に跪いて倒れた。絵がパンに見えた。僕はパンを齧った。僕は呻いてからパンを吐き出した。パンは絵だった。僕が腕を伸ばし、絵の残骸を触れると埃や石粒が位置を変え、移動した。僕が指を動かすと粘着力を感じた。乾燥した絵具が溶けていた。僕は粘着する人差指と親指を擦り合わせた。僕は絵の残骸をどうしようかと迷った。壁に掛けたり(天井に近い位置へ)、励ましの文句(前進あるのみ)が極太で書かれた紙を貼り付けて傾けて置いたり、庭に持って行って焼いたり、忘れるために物々が充満した場所の下の方に挿入したり、誰かに贈与したり、諦めて部屋の隅に放ったり、いろいろな利用法が思い当たったが、どれも僕は納得できなかった。ずっとその絵の残骸を所持したまま、暮らさなければならないんじゃないかと思うと僕は憂鬱になった。しかし友人に銅像で殴られることを僕は心配していなかった。以前のスランプ状態であれば僕はそうしたことを第一に心酔していたはずだった。僕は床にうつ伏せていた。僕は眠気を感じた。両瞼が二つ並んでいて同時に閉じられた。夜は更けていた。

昼にまるまで僕は熟睡していた。微かに期待して僕は顔を上げた。期待は外れた。絵の残骸は床に置かれたままだった。僕は起き上がり、椅子に座った。足元に絵の残骸があった。僕は窮屈な服を着込んでいた。僕が身体を動かす毎に服で身体が締められた。首や手首や足首など幾つかの部分だけは締められることなく、楽に感じられた。僕は絵の残骸を拾うと机に乗せた。僕はその裏側に錐で穴を開けた。僕は絵の残骸を持って顔の前に立てて穴を覗いた。ドアがノックされ、彼女が部屋に入った。穴から僕は彼女を見ていた。何、してんの? と彼女はいい、サンドイッチ数個を机に置いた。僕は持っていた絵の残骸を机に下ろし、答えることに困った。彼女はコーヒーを置く場所を探しているようだった(様々な物が机に置かれていた)が、困り果てて絵の残骸の裏側に乗せた。それ、と彼女はいい、盆として使うために、丁度、いいんじゃない? といった。僕はサンドイッチを食べたり、コーヒーを飲んだりしながら頷いていた。絵の残骸の裏側は濃い茶色い固い板になっていて黒い木目か筋のような変形した線が交錯していた。

早朝、僕は絵の残骸を携えて森の小道を歩いていた。普段、使用していた道と方向が異なっていた小道を僕は進んだ。知人が木に寄り掛かっていた。知人は煙草を咥えて(煙草の先から煙が立ち昇っていた)小型ゲーム機で遊んでいた。ピンボールゲームだった。フリッパーが二つあり、離れて向かい合っていた。それぞれのフリッパーは小型ゲーム機に二つあるボタンと対応していた。知人は小型ゲーム機のボタンを親指で押してフリッパーを動かし、ボールを弾ませていた。ポールの間をボールが動き回り、ベルに当たったボールが画面から消えた。悲鳴を出した知人は下半身を踏ん張ったまま、上半身を仰け反らせた。どこからでも始められるんだぜ、と知人はいい、小型ゲーム機を振った。僕は感心して知人から煙草一本を貰った。どうするつもりだ? と知人は煙草を口から離していった。知人は絵の残骸を一瞬だけ見た。僕は知人からライターを借り、使ってから返した。僕は煙を吸った。僕は煙を吐くといった。どうするつもりもないんだけど、と。僕はまた煙を吸い、吐き出してからいった。どうにかしなければならないんだろうか? と。どうにもしたくなければどうにもしなくたって構わないよ、と知人はいい、煙草を叩いて灰を落とした。どうにかしなければならないらしいんだ、と僕はいった。昨日の夜に僕も考えていたんだが、と知人はいい、もう七転八倒して方法を考えていたんだが、といい、例えば鋏で切るとか叫び続けるとか意味不明な詩を書くとかだったんだが、やはりどれも駄目だと思ったよ、といい、そんなことじゃどうにもならない、といった。僕は森を見た。深緑の木々が斜面に乱立していた。縦横に繋がった木々の葉が風に揺られていた。斜面の向こう側に海があるはずだった。僕は海を想像した。見慣れた海を想像していた。濃く青い海が緩やかな波になって遠くから浜辺にまで達していた。浜辺は薄い波に浸されて波が引くと海水が一斉に染み込んでいた。僕は煙草のフィルターを唇で挟んでいた。煙が右目に接触した僕は煙草のフィルターを噛んだまま、強く両瞼を閉じた。僕は両瞼を右手で擦って煙の粒子を取り除こうとした。涙が流れ、右手が濡れ、煙の粒子はどこかへ消え失せた。知人は小型ゲーム機に内蔵された時計を確認した。もうすぐ朝のニュースが放送される時間だな、と知人はいった。そうか、と僕はいい、帰ろうと思った。僕はログハウスの方に向かって歩き出した。知人も歩き出した。知人は歩きながら小型ゲーム機に熱中しているようだった。可愛いんだよな、と知人はいい、朝のニュースに出ているキャスターといい、赤いスーツを着ていてさ、といった。そうでもないよ、と僕はいい、重くて仕方がない絵の残骸を左手に持ち換えた。大丈夫か? と知人はいい、僕から絵の残骸を受け取った。僕は小型ゲーム機を持っていた。軽かった。知人は絵の残骸を両手で前方に持ち上げて見ながら歩いていた。僕は溜息が出た。それにしてもさ、と知人はいい、これって絵なのか? といった。僕は道端に倒れ込んだ。

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