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些細な日常

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初夏の七つの花々の写真と俳句

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久し振りにカメラを持って地元の大きな公園に写真の撮り歩きに出かけた。 前回の 初夏の晴れた公園の花々 から六年振りになる。カメラとレンズは同じで、Sonyの α5100 とZeissの Touit 2.8/50M をまだ使っていて何よりも手振れへの注意が怠れない。しかしそれだけに光の多い今の時期の屋外での写真撮影はシャッタースピードを十分に稼げるから気楽にやれるし、非常に嬉しいと思う。 七つの花々の写真と俳句の記事のリンクと抜粋 山躑躅の写真と俳句:最後の力を振り絞って生きよ 出かけた公園は東京ドーム数個分の広さで、中心の芝生の広場を階段付きの小さな山が半分くらい囲んでいる。小さな山に最も多く生えているのが山躑躅で、今の時期は真っ赤に燃えるような状態で、山火事ではないけど、とにかく衝撃的な印象を与える。 鈴蘭の写真と俳句:死んでから有名になっても 公園の小さな山の頂上に展…

白琉球の写真と俳句:二度と戻らないいつかの出会い

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 白琉球 の写真を俳句付きで掲載する。 琉球躑躅とも呼ばれる白琉球は江戸時代から栽培された花で、沖縄(元は中国の呼び名で琉球)から全国に広まって琉球の名前が付けられた。自生種か渡来種かは良く分からず、性質から 岸躑躅 と 黐躑躅 の交雑種と考えられている。 雨上がり白琉球が風の中 白琉球は輝くように真っ白で大きな花柄が特徴的で、さらに蝶の羽根のようにひらひらと風に揺れるのが優雅な印象を与える。 写真を撮った前日に雨が降っていたせいで、花弁が少し変色して茶色の染みを付けていた。真っ白なだけに少しの染みでも目立ち易くて一回でも雨に濡れてしまうとはっきり変色するのは避けられない。 純粋さを壊れたら取り返しが付かないまでに象徴的に受け取らせる。考えると切なくて本当に存在自体が詩とも過言ではないくらい今此処の一瞬に迫っ…

五葉躑躅の写真と俳句:不思議なことが起こり得る世の中

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 五葉躑躅 の写真を俳句付きで掲載する。 枝先に五枚の葉が付くことから五葉躑躅と呼ばれる。その他に白八汐とも呼ばれて白い花が美しくも葉の下に隠れるように咲くのが如何にも奥床しい感じがする。花は特徴的なのが五角形に開いて鈴のように見える。沢山、咲いて全体が白っぽくなると 雪が積もったか鈴の装飾が付けられたクリスマスツリー を彷彿とさせる。 閉じる目に五葉躑躅の涼やかさ 葉も特徴的なのは早くから赤く色付くことがあるんだ。一枚ずつの縁や全体が花の時期かその前でも緑一色とはかぎらないので、 見付けると意外な驚きを受ける。取り分け赤い葉が多い中に白い花が良く咲いていると秋なのか夏なのか季節感が飛んでしまう。 未だ嘗てこんな経験があったかというくらい珍しい。花咲く同じ木の緑と赤の葉のものが同時に見られるなんて。さな…

久留米躑躅の写真と俳句:好きな気持ちに理由なんかない

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 久留米躑躅 の写真を俳句付きで掲載する。 紅蓮の炎という感じで、赤い久留米躑躅が真っ盛りだった。以前も驚いたけれども咲き捲ると毛並みの良い絨毯のような質感があって独特な印象を与える。公園には白やピンクの久留米躑躅もあるけど、やはり 赤い花の真っ盛りのインパクト は非常に大きい。 浸るべき久留米躑躅が艶やかさ 久留米躑躅の久留米は江戸時代から福岡県の久留米市で品種改良された躑躅ということに因んで名付けられた。鹿児島県の霧島山の躑躅などから品種改良された 霧島躑躅 の一種、または別名ともなっているようで、現在は三百以上という非常に多くの品種が栽培されている。 個人的に久留米と聞くと中学時代に物凄く惹かれたバンドの チェッカーズ の出身地として思い浮かべる。 当時、バンドで日本一の人気だったのではないか。歌だけではな…

平戸躑躅の写真と俳句:救い主を待つのは大変だ

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 平戸躑躅 の写真を俳句付きで掲載する。 平戸躑躅は大きなピンクの花がまるで海中の珊瑚のようにゆらゆらと咲くのが印象的だ。写真に撮ろうとしたら他の人が寄って来て飼い犬を連れていて花の前に座らせて写真を撮り始めた。無理だと思って少し他の花を見て回りながら暫くして誰もいなくなってから写真を撮った。 貧しさや平戸躑躅へ遠回り 公園や何かで犬の散歩をする人を見かけるといつも 貧しさ が身に染みる。本当に無理というか、ある種、裕福さの象徴のような感じさえもするのがペットを持つということで、取り分け犬だと手も多くかかって大変さも増す。一人寂しく嘆かずにはいられない、いつになれば人並みの生活へ 死と隣合わせの毎日 を免れられるだろうかと。 世の中もさっさと ベーシックインカム をやるべきだと思うし、そうなれば最低限の生活費が…

春紫苑の写真と俳句: 負けたら終わりの場所がある

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 春紫苑 の写真を俳句付きで掲載する。 公園に人の手で植えられた花咲く草木の隙間を埋めるように様々な雑草も生えている。日本の春から夏にかけて最も良く知られた雑草の一つが春紫苑だと思う。余程、都会の真ん中にでも住まないかぎり、簡単に見られる花だろう。はっきり目を向けるのは児童期の通学路だけかも知れないけれども思い出すと僕にはとても馴染み深い。 雑草も一番人気か春紫苑 教育の言葉で「何でも良いから一番を目指せ」と聞くことがある。言葉遣いとして犯罪や迷惑行為でも構わないと取られ兼ねないし、昨今のお騒がせYouTuberやバイトテロなどの仕方で、知名度を上げるのは本末転倒だし、注意が必要だけれども一理はあるのかと思う。どんな分野でも二番以下では分からない世界があって一番になることで自信を以前よりももっと強…

鈴蘭の写真と俳句:死んでから有名になっても

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 鈴蘭 の写真を俳句付きで掲載する。 公園の小さな山の頂上に展望台があってその近くの脇道のそばに 鈴蘭の集落 がある。 初めて見付けたとき は本当にびっくりして大好きな花だから幸運を感じた。他の場所に全くないから雑草みたいな感じで、偶々、生えているのかも知れない。 鈴蘭の消されもしない奇跡かな 公園の鈴蘭は雑草だとすれば管理者の整備で取り除かれる恐れを免れないので、見られるのは愛するほどに奇跡だといつも感じる。 青春期を過ぎてから作家を志したのは良いけれども全く売れない。自分に近い思考を持つ作家だと特別な親近感を覚える アルチュール・ランボー (詩人)と フランツ・カフカ (小説家)が世界的に有名になって大きく売れたのは死んでからなので、そうした生き方まで近いとしたら困り果てるしかない。 今此処で断言しておきたい。本…

山躑躅の写真と俳句:最後の力を振り絞って生きよ

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 山躑躅 の写真を俳句付きで掲載する。 出かけた公園は東京ドーム数個分の広さで、中心の芝生の広場を階段付きの小さな山が半分くらい囲んでいる。小さな山に最も多く生えているのが山躑躅で、今の時期は真っ赤に燃えるような状態で、山火事ではないけど、とにかく衝撃的な印象を与える。 又しても今年最後か山躑躅 何回か見ている山躑躅だけれども花咲く最後の今の燃え上がるような赤に自分の命を重ねる。僕は何といっても 貧困で自殺する可能性が避けられない毎日を強いられている ので、真っ赤に花咲く山躑躅を見るのも今年最後かと思う。 詩人としては 夢と希望を携えて と歌うし、命の本質から永遠に正しいにせよ、実生活は夢も希望もない生きる屍でしかない。良い加減にして欲しいというか、本当にもう一秒でも速く、安やかな死よりも遥かに素晴らしい生…

α5100とTouit 2.8/50Mの初夏の晴れた公園の花々の撮り歩きの五つの作例

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ゴールデンウィークの前半、四月三十日に良く晴れて暖かったので、地元の公園に愛用の カメラのSonyのα5100 と レンズのZeissのTouit 2.8/50M を携えて花々の写真の撮り歩きに出かけた。 目当ては何といっても山の裏道でひっそり咲いているのを見付けて 大喜びした鈴蘭 だ。 好きな花だけど、しかし白一色で小さいからピントが合わなくて動かなくても写真撮影には手強いとも知った。最初は失敗ばかりだったし、スマホやコンパクトのカメラでは被写体の輪郭を十分に取れなくて――光の少ない木陰の鈴蘭にかぎればもはややるだけ無駄の散々な境地を強いられるばかりだ――たとえ一眼レフのカメラでも露出やシャッタースピードや絞り値などをしっかり覚えて細かく調整しないと厳しかった。鈴蘭との出会いは写真家として相当に練習になった。 二年目の去年は山の裏道の鈴蘭の集落へ何度も足を運んで試…

公園での晩春の花々の写真撮影

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久し振りに写真の撮り歩きに公園へ出かけた。カメラとレンズは α5100 と Touit 2.8/50M だ。レンズは手振れ補正が付いてなくて辛いし、大分、写真を撮ったからもうそろそろというか、偶には交換しても良さそうだけれども止められない。何しろ、仕上がりの透明感が清々しくて気に入っている。 昨年、 鈴蘭を見付けた穴場 を目指した。ピントが合わなくて非常に苦しんだし、枯れかけてもいたので、もう一度、早めに行ってそして頑張ってみたかった。大好きな花なので、悔いは少しも残したくない。 しかし鈴蘭は一つも咲いてなかった。周りに生えていたはずの雑草もなくなっていて市役所で刈り取られたかも知れないので、本当にショックを受けずにはいなかった。地面を詳しく調べてみると細長い茎が幾つも伸びていたから五月に入れば大丈夫かも知れないとも感じた。 今春は寒い日が続いていたし、咲くのが遅れ…

子猫との元気な触れ合い

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僕が走るや子猫も走った。そばにいるとゆっくりしていたので、まだ走れないのではないかと思っていたら大間違いだった。 物凄い勢いで追いかけられた。動画からGIFアニメを作っているけれども画面が揺れてしまったのは勢いの良さに周章てたせいだ。 子猫との触れ合いから素晴らしい思い出が生まれたよ 少しでも離れると直ぐに付いて来て走るだけではなくて僕が歩くと子猫は歩きもするし、まるで一心同体のようだった。嬉しくて堪らなかった。 公園で捨て猫か、親猫とはぐれたのかと悩んだり、目の周りも爛れてそうなのが辛かったりしたとはいえ、子猫は本当に元気だった。僕も元気を貰った。 関連: とても可愛い子猫との貴重な出会い

とても可愛い子猫との貴重な出会い

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どんな花が好きかと訊かれたら鈴蘭と僕は応えよう

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公園の小山の天辺に向かう道が幾つもあって日陰の多い脇の方へ進んで行ったら鈴蘭の集落に出会した。とても嬉しかった。小さな花が鈴生りに咲いていて大きな葉を立てている様子が素晴らしく気に入っているんだ。 しかし難しい、写真に収めるのは鈴蘭を。如何せん、花が小さくて白一色なので、コントラストが非常に少ないせいか、描き込むのは大変だった。 α5100 と Touit 2.8/50M で作例の距離感だと精一杯の表現という他はない。鈴蘭の花と葉のバランスが分かり易くなるように少し引いた構図にしたかった。 五月の中旬だから枯れかけていてもっと早く見付けておきたかったと感じた。穴場だ、地元の。まさか鈴蘭の自生している場所が身近にあるなんて夢にも思わなかった。歩き回ってみるものだ。笑みも溢れる。

白詰草に蜜蜂が飛んで来た

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公園に写真撮影に出かけた。 α5100 と Touit 2.8/50M で作例はベストショットではないか。見事なリアリティーだ。蜜蜂が白詰草の花を動き回るからシャッタースピードが要求される。結果は1/250sだった。ちょっとした水の流れが1/400sといわれるので、半分程度で大丈夫みたい。快晴の自然光ならばプログラムオートで十分だ。シャッタースピードは上がる、周りが明るいほどに。輪郭が微かに甘いのはカメラのセンサーのせいにするしかないと思う。α5100では超細密にまでは描き切れないだろう。しかし全力の画質を得られた。蜜蜂が白詰草の花の蜜を集めているけれども一つの懸命さを物語るような仕上がりになった。表現に躍動感が漲った。 僕にとって写真でやりたかったことは全てできた。この先は躍動感、あるいは生命感を踏まえながら取り組んで行くべきだ。写真におけるコンセプトを掴…

庭石菖の川の流れのような生きる喜び

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小山の裾にある大きめの公園で、春の桜も終わり、初夏の躑躅も過ぎて目ぼしいような花は咲いてなかった。しかし遊歩道沿いに小さな花が数多く咲いているのが心惹かれる。楽しげだ、何といっても。歩きながら目を向けずにはいられない。 調べてみると 庭石菖 だった α5100 と Touit 2.8/50M で撮影すると雑草に囲まれても見映えがする。そのままで本当に良いと思われる。撮りたいものこそしっかり撮れているせいだろう。どんな構図でも鑑賞に耐える写真になるようで、表現上の苦労がずっと減るんだ。 自然の美しさにおいては 背景とのバランスが大事 なはずだけど、イメージを構図で固めなくても被写体の明らかな描き込みでカバーしてくれる。小さな花が背景に埋もれて雑草でしかなくなるのは納得できないわけで、さらに考えを進めて写真を完成まで持って行くのも容易いのではないか。 生きる喜びの庭石菖の集…

鮮やかな白と赤の皐月の花という自然の芸術

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公園の入り口に白と赤の皐月が明るく咲き乱れていて写真に収めずにはいられなかった。通りかかるやとても気持ち良く見受けられた。 作例は α5100 と SELP1650 による撮影で、天気が良くて花盛りの皐月も輝かしいばかりの仕上がりになって喜ぶしかないと思う。 皐月は花が小さめだけれども植え込みを埋め尽くすように咲くとインパクトがある。白も赤も鮮やかな一色なので、単純で力強い美しさが胸に染みて来る。 自然の芸術としかいいようがない。光が弾けて高まり行く日差しを呼び起こす。日本の初夏を彩る代表的な花の一つだ。

霜柱の自然の美しさの俳句

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霜柱の土は凸凹に盛り上がりながら白っぽく凍っている。 見ていると自然の美しさを感じさせられる。何とも好ましいかぎりで、心の喜びを覚える。 しかしながら芸術家としては及びも付かない。神には敵わないと改めて畏敬の念を抱いた。 霜柱潜むうちから惹き付けて 自然の美しさこそどんな創作においても手本にしなくてはならないだろう。表現力へ向けて尚一層と精進したいと思った。

霜柱の飛んでもない寒さの俳句

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水も冷た過ぎるし、雪は降るし、飛んでもなく寒くなって来たと思っていたら公園の道に五センチもあろうかと思われるほどの霜柱ができてしまっていた。まるで北国みたいで、数年来、見たことはなかったはずだ。歩いてはザックザクだった。楽しい。 踏み下ろす道埋め尽くす霜柱 日も少しずつ延びているようで、午後六時頃でも夕焼けが残っていた。どんどん暖かくなって行くだろう。しかし冬の真っ只中だ。霜柱の大きさと広がりに気付かされずにいない。飛んでもなく寒いにせよ、当分、堪え忍ばなくてはならないんだ。

公園で黄金虫を見付けた

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夕方、ちょっと暗くなりかけたところで消え残るような煌めきが胸に染みる感じがしてしまった。 公園と黄金虫の取り合わせも嬉しい気持ちがする。何なんだろう、一体、可笑しみが溢れては。 好運を呼び寄せるみたいなイメージを黄金虫が持っていて公園の和らぎも膨らまされるせいかも知れない。 生きていて良かったと少しでも思えればまさか有り難い。心地好い暮らし向きに鋭気を養われる。