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cssはどう使えば良いのか|タグ自体とidとclassの指定先とstyleタグとインラインstyleの記述法

サイト作成でコンテンツのマークアップを行ったhtmlにデザインを付けるのがcss(cascading style sheets/カスケーディングスタイルシーツ)だ。記述がhtmlのようにタグで囲むだけではないからちょっと難しい。
僕は基礎を覚えるのに十年くらいかかった。デザインはテンプレートに任せておいて構わないと見向きもしなかったせいだけど、しかしcssはレベル3から色んな表現が可能だと気付いてから新しく学び出した。サイト作成が創作活動としてさらに面白くなる。
今再び初心へ帰りながらcssは実際にどう使えば良いのかを入門として簡単に纏めておきたい。

目次
デザインの設置についてCSSの三つの指定先CSSの二つの記述法cssの内容の記述についてstyleタグでデザインする例インラインstyleでデザインする例styleタグならではのデザインstyleタグのcssの複数の指定先複数の指定先を細かく絞り込む複数の指定先を広く組み合わせる

デザインの設置について
cssはhtmlのマークアップにデザインを付けるからどこで何を変えるかを指定しなくてはならない。
cssの三つの指定先
タグ自体:<div>などidのタグ:<div id="post">などclassのタグ:<div class="check">など
タグ自体にcssをかけるとページで使われる該当の要素のデザインが全て変わる。
idのタグとclassのタグはhtmlの規定ではなくて作成者が任意で割り当てる。何れもcssの効果は同じだけれどもページで使える回数が違う。すなわち割り当ての種類についてidは一つのページで一回しか使えなくてclassは一つのページで何回でも使えるんだ。htmlのマークアップからいうとidのタグは種類毎に一回ずつ、classのタグはどんな種類でも幾らでも割り当てるように働くので、前者は他とは混ざらずに、後者は広範囲に使えるのが特徴になっている。
idとclassの任意の割り当ての文字はそれぞれとそしてhtmlのバージョンでも個々に異なっている(id名/class名に使用できる文字の種類)けれども共通点から何れの場合でも半角の英字で始めて英数字や半角のハイフンや(-)や半角のアンダーバー(_)を使うかぎりは問題はないと思う。
ただしidだ…

自分らしい生き方だから一日十万人以上のブログのアクセスを目指して諦めない

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ブログの平均ページの滞在時間人気の投稿の表示を増やしたのと記事名の下に著者名を付けたのとで、一分前後まで上がって来ている。以前よりも三十秒くらい良いから考え通りに進んでいてブロガーとして本当に嬉しい。
難しいのは訪問者がブログ内のページを、二つ以上、開かないと計測されず、零になるのが平均ページの滞在時間なので、動き回り易いデザインが何よりも求められる。
人気サイトはメインのコンテンツの回りにパンくずリストなどの小さな内部リンクが、一杯、付いているし、確かに有利だと本当に良く分かるよね、検索エンジンからのアクセスアップに。
しかし実際に使われるのはブログならば記事の中に貼られた関連記事へのリンクが殆どだろう。一段落を取って大きく目立たせるデザインも見かけるし、文脈に合わせて上手くやっていると押さずにはいられないような感じがする。するとアクセスは一日一万人を越えてそうだと想像しながらもはや羨ましいかぎりだったりもしてしまう。
僕は手がけない、常套的に。記事の一つ一つを丹念に仕上げてこそ一日十万人を越えるのではないかとWikipediaのデザインを最も参考にする。テーマによるけど、飛んでもない仕上がり、過度なまでの情報量で圧倒される内容も昨今では珍しくなくなっている。見習って訪問者に物凄くしっかりやっているブログ、そしてブロガーだと思わせるほどの創作活動を何よりも重視するべきだと感じている。
些細な日常で信頼性を勝ち取るのは大変な時間がかかるとしても命懸けで頑張ればきっと実現できるはずだ
Lust for life by geralt [CC0], via Pixabay
アクセスの最終目標は常識的にあり得なくても一日十万人を目指すからデザインもなるべく質実剛健というか、相反する場合、例えば平均ページの滞在時間のために訪問者が動き回り易くするかどうかには率先して拘泥らないようにしたい。
訪問者を引き付けるために個性存在感が大事だと考えて来た。ブログのスタイルについても華やかに賑やかに気持ちを盛り上げるよりも文章を極めるみたいな印象を与える向きが自分には合っているんだ。僕が作家・詩人を天職としてやりたいし、できるのは他にはないのではないかと気付いた。結局、皆に本当に知って欲しいのは日本語の新たな可能性とか思考のかつてなかった到達点なんて喜びそのものだろう。未知へ向けて文章に取り組まな…

ブログの人気を増すためには率先してブロガーの存在感こそ強く示すしかない

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ブログのアクセスが伸びなくて本当に困る。開設して一年を過ぎたにも拘わらず、朝から三十人を下回っている。夜まで二百人は本当に無理だろう。遅いとしかいいようがないままだ、ブログの成長は相変わらず。
どうして人気がないのか。訪問者は一日百五十人を越えているから閑古鳥が鳴いているだけだった最初の頃よりは確かに知名度そのものは上がっている。しかしまだまだ厳しい状況を強いられている。一日二百人が昨年の八月から気に留まって、半年、到達できないというか、安定して越えられないから気持ちは本当に辛い。何とか人気を増して行きたい。
何にせよ、皆が満遍なく気に入る、万人向けの仕上がりが記事に求められると思う。
ならばブロガーとして個性を出すのも大事だけれども理解されないと人気は付いて来ないのではないだろうか。
分かり易く表現するとやって来て新しく気付くのは記事だけではなくて僕自身も同じくらい理解されるべきだ
The back of a woman who faced the sea by melancholiaphotography [CC0], via Pixabay
個性を出すのとはちょっと違う。どんなテーマを扱っても作り手は僕以外の何者でもないと認められるかどうかが問われている。創作活動としては作風が大事なんだ。
従来、大して自覚せずにいた。好きな気持ちでやれば人々からは自然に受け取られるはずだし、作風はそれこそ一つの空気として味わわれるので、率先して表現しない作家でも別に構わないと考えた。
ところが人気が及ばない。訪問者があの人は何なのかと一瞬でも遠ざけてしまうのが不味いのではないか。インターネットはやはり実生活よりも情報量が少ないといわざるを得ない。たとえ出会ってもブログでは身振りまでは分からないとか無意識で伝わらない部分が大きそうだ。見ず知らずの相手だし、作者への避けられない疑わしさを晴らさないと近寄り難いままで終わり兼ねない。または嫌われ易いと懸念される。
些細な日常に僕がいるみたいに存在感を明らかに与えるほどの自己表現が重要に違いないだろうと改めて感じている。
方法は簡単だ。文章ならば言葉遣いを自分らしく持って行く。すると作詩と全く同じだったり、好きな気持ちを噛み締めながらやるというか、書きたい世界だけを書けば良いわけだ。自覚しないと言葉遣いの強度が下がるので、詩以外では当たり前に見かけない…

マイケル・ジャクソンのThrillerに察するブルック・シールズの王子様で女性に良く持てる面白くて優しい男性のイメージ

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マイケル・ジャクソンが主治医の医療ミスという不慮の死を遂げた際の別れのセレモニーで身近な知り合いの一人のブルック・シールズがいつも王子様だったみたいに親身に回想していた。
彼は王様のように良くいわれますが、私がいつも知るマイケルという人は殆どが星の王子さまでした。今、思うとその本の一節、「この眠っている王子に私がとても心を動かされるのは花への忠誠です。眠っているときでさえもランプの火のような彼の目映い薔薇のイメージ。そうして私は思った以上にさらに彼はか弱いと認めました。ランプは守られなければなりません。一陣の風に吹き消されるのです」を共有したいです。
Brooke Shields: Michael Jackson Memorial via CNN.com(訳出)
聞いてイメージが一変したというか、童話の星の王子さまサン=テグジュペリ)はおよそ詩的な存在/詩人の魂にせよ、世間的にいって本当は女性に良く持てる男性だったのではないかと新しく閃いた。
諸々の作品を振り返って恋愛とは必ずしも結び付かない場合は少なくないけれどもマイケル・ジャクソンの本心は王子様と呼ばれるほどの面白くて優しい個性的な真実に含まれているに違いないと感じた。
Michael Jackson - Thriller via michaeljacksonVEVO
マイケル・ジャクソンのThriller(スリラー/怪奇物)のPVを観ると女性に良く持てる面白くて優しい男性のイメージが歌と踊りに加えて物語仕立ての表現から最も良く分かると気付いた。
一見すると恋人を怖がらせているだけの酷い奴でしかない。何が王子様なのか。全く気付かないくらいかけ離れている。
歌と踊りが格好良いし、ThrillerのPVでメインなので、マイケル・ジャクソンを気味悪い物語から真っ先に考えるわけではないから実際に苦しくはない。普通に格好良い歌と踊りから考えると王子様というか、むしろ人々から「king of pop」(ポップの王様)と称えられるさらに格上の存在として受け取られるのが間違いないと思う。
不思議なのは世間一般よりももうちょっと可愛く捉えていたんだ、ブルック・シールズはマイケル・ジャクソンが王子様だとすると。
実生活で知り合いだから歌と踊りの格好良い印象だけでは捉えられない様子を改めて伝えていたはずだった。
ThrillerのPVの物語とは何か。…

ジェス・フォアミの写真は透き通った世界の清らかさが理想的な創作活動で感動する

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タイの写真家でジェス・フォアミの写真がとても良いと引き付けられた。写真を載せているPixabayのアカウントがcunconというので、辞書で調べてみると「cun con」はタイ語で赤ちゃんを意味するらしい。写真の趣きからすると天真爛漫なイメージを表現したいのではないか。
A girl in white clothes by cuncon [CC0], via Pixabay
または天使の情感ともいえる。心の味わいが詩的なのが素晴らしくて目が離せない。透き通った世界の清らかさが被写体の全てに広がっているような写真だと思う。
目に移る自然の光景があるがままで素敵だと良く分かるという撮り方で、些細な日常の良さを的確に示しているのは個人的にも愛さずにいられないわけだ。
Summer beach by cuncon [CC0], via Pixabay
臨場感が心地良いから写真を見ながらそうしたイメージの中へ行ってみたいと感じるのは自分も表現者としてジェス・フォアミと同じように皆を引き付けられると有り難いととても参考になる。
写真家のPixabayのアカウントの付け方で考えると赤ちゃんならば赤ちゃんという必要性をしっかり引き受けて創作するのが大事なんだ。
若いうちは簡単だけれども年を取ると難しい。自分にできないことが分かり過ぎる状態ではないか。だからできることにも迷ってしまい易い。悲しまなくて本当は良いんだろう、老いの情けなさを。思い切って自分にできることに挑みかかれば若々しい気持ちがして来るのも明らかだし、人生に頑張り甲斐を新しく掴み取る。
A man watching a smartphone by cuncon [CC0], via Pixabay
ジェス・フォアミの写真にはいつかどこかで見たような既視感が不思議な懐かしさを湛えながら漂っている。きっと人々が無意識に求めている喜びを写真家として捉え切っているせいだろう。タイの国柄もあるにせよ、天真爛漫なイメージ、または天使の情感が真実だから胸に共鳴するに違いない。
誰が受け取っても疑い得ない表現力を発揮できるのは理想的な創作活動だと憧れてしまう。
上手く行っていると天国に、一番、近い島と歌って良いはずだし、清らかな思いから他でもなく、感動する写真家のジェス・フォアミの写真は美しくて麗しい光の恵みを封じ込めている。

肘から手の小指側が痺れる肘部管症候群では腕を曲げて肘に強い圧迫を加えてはならない

去年の夏頃、風呂に入っていて左手の小指側が痺れるのが嫌だと感じた。神経が不味いとしたら脳が病んでいる可能性がありそうだ。作家・詩人として終わりだし、天職として思考を本格的に続けるのは無理ではないかと大いに懸念されてしまった。
将来への不安から恐ろしくて調べるのも億劫で、放っておくしかなかったけれども痺れの症状は日増しに悪化する一方だったから耐え切れずに調べ出したら肘部管症候群らしいと分かった。
取り敢えず、ほっとした。脳が病んでいるせいではないのではないか。とはいえ、放っておくにも全くかぎらない病気だったんだ。
肘部管症候群は肘を打つけて手が一時的に痺れるのと原理は同じだけれども肘の尺骨神経が腫れ上がっているために痺れがいつまでも収まらない。酷いと指は変形するし、治すには手術が必要で、後遺症を免れない場合もあるみたいだから本当に侮れない。痺れの症状が軽いうちに見付けて直ぐに治してしまうにかぎる。
日常生活で僕はスマホ/タブレットで創作活動に勤しんでいるけれども左肘を下に付くのが不味かったようだ。いつも疲れてぐだぐだなので、頭を支えられなくてどうしても左肘を立てて左手に乗せてしまいたがる。毎日、長時間、左肘に強い圧迫が加わって肘部管症候群を発症したのではないか。止めなくては仕様がないと悟った。
左肘を下に付かないようにしていると数ヵ月で治った。気付いたのは去年の夏頃だったけど、とにかく左肘を真っ直ぐに保つかぎりは左手の小指側の痺れが少しずつでも収まって来たから助かったよ。
日頃から姿勢も矯正すれば健康的だから頬杖を突き捲るような作家活動は控えるべきだし、酷い疲れのせいならば元気を維持するのが他の病気も予防できるから特効薬そのものだろう。
世の中には職業病で避けられない人もいるらしい。肘を強く圧迫しないようにしなくてはならないけれども建築や工場やスポーツで肘を酷使するような仕事だとかかり易い。変形肘関節症から来るといわれる。手の痺れが増すほどに握力が下がって日常生活にも支障が現れるので、肘部管症候群は見付けたらやはり直ぐに治すしかないだろう。
僕もペットボトルの蓋を開けられないかも知れないと焦ったし、延いてはスマホ/タブレットの文字入力が無理なくらい悪化し兼ねないと肝を冷やしたけど、治ったので、再発させないために疲れがどんなに酷くても腕を曲げて肘に強い圧迫を加えないように注意するばか…

国分佐智子は写真集もドラマも映画もビデオもとても詩的で素晴らしい芸能人だ

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国分佐智子 US プレミア スペシャル メッセージ via samuraihollywood
何で知ったのか、始まりを、全然、覚えてない。元々は覚えていたような気がするので、とても歯痒い。たぶん浮かれている間に忘れてしまったんだろう。一つも思い出せないんだ。
かつて国分佐智子は天使が好きで、天使のグッズを集めているという情報を掴んだ。
普段、周りでも聞かれないし、芸能人でも珍しいと甚く驚いたもののもしかしたら国分佐智子は詩的なキャラクターなのではないかとさらに詳しく調べては完全に嵌まってしまった。
記憶ではそこから全てが始まっていて何の気なしにGoogle検索にかけた理由もテレビのナースのお仕事3でちょっと見かけたくらいしか思い当たらない。眼鏡をかけていて顔は良く分からなかったけれども肌がすっきりした印象を与えていたために――その後のビオレ(花王)の洗顔CMはなるほど頷かれた――心も同じかも知れないと想像されたのは確かだった。詩的なキャラクターに結び付くとは本当にまさかの衝撃だった。
天使の羽の芸能人
写真集の最初のNOBLEを見て天使の羽のデザインが付いていたりもするけど、とにかく本当に良いし、僕にとっては得ていて気付かれ難かった世界というか、天使を夢見て生きる新しいコンセプトに巡り会えて芸術/創作活動にすこぶる役立てられる結果にも繋がって来たんだ。
三十代後半で作詩ばかりしていてホームページも更新しないほどに集中的に取り組んでいた。テーマそのものは青春期の取り分け天使的な人との出会いを素性として考え直しながら一つの自分らしさに身に付けて詩人の生き方を完璧に打ち固める必要があった。かつての記憶を掘り起こすためには今現在に切欠があると助かるので、他の作品に探しながら種々と作詩への気分も盛り上げるべく、見付けては喜びながら舞い上がっている日々だったけれども最も大きいのは国分佐智子の天使だったとも過言ではなかった。
実際に全面的に押し出されているイメージではないので、天使の羽のデザインもNOBLEだけだったし、国分佐智子のトレードマークでもなかったわけだけど、ナースのお仕事3で見付けたようなすっきりした心から手放せない天使を介して詩的に捉えて行くと何でも構わないくらい素晴らしく受け留められた。
すっきりした心のドラマ
写真集やビデオを買い漁るし、テレビでも注目され出した。当時、嬉しかった…

SoundCloudに参加して一曲目を載せた

SoundCloudでアカウントを取った。サイトのアクセスアップのためには必要だし、Bloggerには音声投稿がない代わりに持っていて良いと思う。
メインのホームページと同じようにブログも詩を踏まえながら芸術/創作活動を総合的に展開して行かなくては自分らしくない。

何もないのは寂しいので、自作曲のお元気ですかを真っ先に載せてみた。詩と表現をコンセプトにしたメインのホームページでテーマ曲として採用している。いうと《神様との出会い》の音楽なので、自分らしさの中心部に位置している感じがする。第一に聴いて貰わなくてはどうしようもない、音楽家としては皆へも。
SoundCloudは無料アカウントだと三時間分しか楽曲をアップロードできない現状だから本当に何でもかんでも載せるわけには行かないと思う。
調べると音質も128kbpsのビットレートの標準並みらしくてちょっと曇りがちかも知れない。
有料アカウントならば高音質の256kbpsを越えるような音楽が載せられてアップロードの容量も安くて六時間分で高いと無制限まで用意されているらしい。
しかし音楽の収益化のシステムが無料アカウントでも導入される予定のSoundCloudだから上手く行けばそこから有料アカウントに移行するのは容易い。
音楽家としてプロになるという道が本格的に整備されつつあるので、SoundCloudは本当に面白いし、素晴らしい才能が数多く見出だされるようなソーシャルメディアの力をどんどん増しているんだ。
参加しただけでも夢が広がる。ホームページやブログのサイト広告で生活費を稼げるかどうかに四苦八苦の毎日を送っている最中、少しでもチャンスを取り逃がしたくないわけだ。アクセスアップに正しく繋がるのではないか。
SoundCloudが活気溢れるかぎり、自作曲のアップロードで実力も真に試せるはずだし、様々な音楽と出会って芸術/創作活動の栄養に取り入れるべきだと考える。

パブリックドメインの作品は勝手に使って良い

芸術/創作活動のどんな作品にも作者の著作権が付帯している。サイトで引用などの正当な理由もなく、勝手に使えば裁判所に訴えられて投獄される可能性があるから厳しく注意しなければならない。
ところが著作権のない作品も世の中にはあってパブリックドメインと呼ばれている。非常に有り難い。パブリックドメインの作品には著作権がないから誰のものでもないというか、名前通りに「公共の範囲」(public domain)に著作権が移行していて作者はそれに紐付けられないので、サイトで他人の作品を勝手に使っても法的に侵害する恐れは全くないわけなんだ。
パブリックドメインの二つのタイプ
作者の死から長期間が経過している作者が自作の著作権を放棄している
パブリックドメインの作品は勝手に使って良いけれども実際には難しくて手が出なかったりもしてしまう。
作者の死に基づく場合は国の法律によって定められていてどのくらい経てばパブリックドメインへ著作権が移行しているかが問われなければならない。
国際的に五十~七十年が多いようだ。日本では五十年と定められている。作者からすれば没後五十年までが自作の著作権の保護期間に相当しているわけだ。
第五十一条  著作権の存続期間は、著作物の創作の時に始まる。
2  著作権は、この節に別段の定めがある場合を除き、著作者の死後(共同著作物にあつては、最終に死亡した著作者の死後。次条第一項において同じ。)五十年を経過するまでの間、存続する。
著作権法 via 法令データ提供システム
なぜかは芸術/創作活動の作品の作者は国民だから彼、または彼女にとっての著作権も最終的には国に帰属させられるという認識から来ているらしい。
パブリックドメインで厄介なのは作品の所有者が作者以外にいるかぎりは勝手に使うの不味い。
例えば美術館のパブリックドメインの作品には作者の著作権とは別に美術館の所有権も付随しているので、誰も盗んではならないように認められなければならない。
写真が出回っていてサイトに載せるのも所有者が承諾してなければ気持ち悪いから良く分からないと僕は引用の範囲でしか勝手には使わないようにしている。所有者以外から出回っている写真だと本当に良く分からなくて怪しむほどに手も伸び難くなる、しかも。さもなければ問い合わせて所有者に承諾されるべく頼むしかないだろう。所有者が不明ならば突き止めてからになる。
作品によって「…

ロドリーゴのピアノのアランフェス協奏曲に信じられないほどの感動を覚えては興奮にも包まれながら

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Joaquín Rodrigo. Concierto de Aranjuez via Joaquín Rodrigo ED.
素晴らしくも気に入りのアランフェス協奏曲の作曲した本人のロドリーゴの演奏が聴けるという動画をYouTubeの公式チャンネルで見付けて飛び上がるくらい嬉しかったけれどもどんな演奏なのかと最も知りたかったのはテンポだった。
かねて想像したよりも少しだけ速かったようだ。薄い薄い紙一枚分くらい気持ちが置いて行かれるような風合いの漂うロドリーゴのピアノだったという。
そして深く味わいながら考えてみるとピアノの楽器の響きに頼らずに楽譜の音符を正確に捉えている、または丹念に世界を紡ぎ出すような指捌きが個性的で、著しく伝わった気持ちの良さがやはり素晴らしいと納得させられてしまったんだ。
テンポが少しだけ速くて感じるとはいえ、厳密にはピアノの響きが弱いから音場が耳に余り残らないために曲が先に進んで思われるだけなので、正しく作曲通りに演奏されたアランフェス協奏曲の第二楽章ではないか。
表現力として驚くべきは音楽のピアノの不要な味付けを完全に取り除いた聴かせ方だろう。第二楽章にかぎらず、アランフェス協奏曲が極めて美しい作品だけれどもロドリーゴの自作自演が端正そのものだし、そうした人柄が出ているとすれば本当に素敵な貴方としか呼びようがなくて出会えて心から幸せだといみじくも絶賛せざるを得ない。
全ては神様の思し召しで世界平和に匹敵する生活こそ手に入ったわけならば感謝感激雨霰の境地とも過言ではなくて本当に信じられないほどの感動と興奮に包まれながら命懸けで祈りを捧げるだけだ。
ロドリーゴの自作自演を知ってしまうと思いが天空へ旅立って行くようだ。
自然のままに夢見心地だし、音楽という一つの芸術/創作活動の喜びに打ちのめされるばかりだから入り浸ってとにかくも立ち上がるよりはゆっくり有り難く休ませて貰うしかない。

詩と人生のためにダ・ヴィンチのモナリザに隠された芸術上のヒントを追え

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ホームページに「詩集はさらに七つくらいまで追加できると思う」といった予定は無事に遂行された。
風のシエスタへぞなこそもにを心当てちじくがわあらまし柄の遥かに救いの手夕凪へ
公開した詩集も全部で二十二に増えた。気持ちは、大分、落ち着いて来たし、ホームページにいつか載せなくてはならないとした焦りは解消されたに等しい。
昔の詩集だけれども詩の題名や本文や詩集での並び方も変えながらやっていると今だからこそ出せたのかと思ったりもする。
一度は完成品として公開しておきながら後から修正せざるを得なかったものもあるし、どこで区切りを付けるかとなると芸術家にとって芸術作品において俄かに問題視されてしまう。
Mona Lisa by Leonardo da Vinci [Public domain], via Wikimedia Commons
芸術作品の区切りというと真っ先に思い浮かぶのがダ・ヴィンチモナリザだろう。完成してないんだ、本当はというか、作者にとって。どこからどう見ても完璧に感じられる絵ではないかしら。
ダ・ヴィンチは死ぬまでモナリザに筆を入れ続けていたらしい。尤も見せてもいなかったみたいだ、人々には。一人で後生大事に抱えながらアトリエで何年もかけて描き続けながら亡くなってしまった。
こういうと他にも例はある。絶筆とされる自己表現だし、個人的にはカフカ審判、日本ならば夏目漱石明暗といった小説が作者の死によって妨げられずに書き続けられたらどうなったかと未完成の残りを想像させられて止まないんだ。
ダ・ヴィンチはちょっと違う。もう十分に完成している、モナリザなんか見れば。未完成の残りは全く気付かれないし、後生大事にの言い伝えからすれば何だろうと首を傾げざるを得なくなる。
只の煽りかとありもしない謎を匂わせるためにわざわざ筆を入れ続ける振りをしていたに過ぎないとダ・ヴィンチの脇腹を人差し指で突いてみても気持ちそのものは分かるわけでもなさそうだ、夢の中でただし。
生産的には参加することに意義があると知られるオリンピックと変わらない。描き続けることに意義のある絵、やり続けることに意義のある芸術、創作活動をダ・ヴィンチは身を以て教えてくれていたのではないか。もはや人生と切り放せないくらい作家自身が作品になってしまっている。
僕は「パフォーマンス=アート」というけど、とにかく死ぬまでモナリザを描き続…

本当の自分もなぜ生きているのかも悲しみも

ホームページに自作詩詩集のちじくがわを掲載するのに表紙に銘としてクレーの言葉を引きたいと思って探していたら見付け出された。
芸術は私たちの見る何かを写し取らない、というか、私たちが見えるようにしてくれるんだ。
Paul Klee via BrainyQuote(訳出)
大分、前だけど、ちじくがわはクレーの絵をヒントに歌おうとそれこそ銘を打って出来上がった詩集だったし、一つの創作意欲を示すためにもぴったりだった。
クレーのシンプルで力強い言葉だ。絵も観念どころか生き方そのものとさえも受け留められるかぎり、クレーはきっと正しい。
僕の考え通りだし、すなわち「パフォーマンス=アート」のスタンスで自己表現、または自分らしさを作品に打つけるように生きられた人ではないかと感心させられるよ。
気持ちならば芸術/創作活動の真実を、そっくりそのまま、当て嵌めることができて極めて素晴らしい。
もしかすると僕も注意しなければならない、言葉遣いに。自己表現、または自分らしさのために求められる世界は決して内面だけではなかった。それ自体こそも大事なので、やることがとにかく必要という。実際にやらなくては芸術/創作活動は始まらないし、動き出さなければ生活は進まないはずなんだ。
人前に内面を晒け出せば喜びを掲げれば全て終わりだと思われては困る、僕について。それがたとえ本当の自分だとしてもまたとない自己満足が齎されるとしても如何に晒け出すか、如何に掲げるかの頑張りは知って欲しかった。
ライフスタイルを踏まえれば自分で何とかなるような代物でもないけど、ただし「パフォーマンス=アート」のスタンスは捨て去るべきではない。
人生は《筋書きのないドラマ》だと分かる。僕がゲソを齧るように夢ばかり見ながら笑っているのもどうにもならないせいで、なぜ生きているのかを手に入れた結果だった。もはや死に切れないかぎりだ。
夢に向かって直走る。勇気と情熱と努力があれば悲しみにも負けないと思うよ。栗毛の駿馬に跨がるつもりで、ずっこけた詩人だろうが抱かれた希望に変わりなく、生きる力こそ養われてしまう。どんな幸せを掴むためにも欠かせはしないさ。
クレーは狙っているようだ。芸術を通して見えて来る世界の有り難さを教えてくれる。訪れるほどに美しいくらい目映い。

ドライアイのために目薬を買うことにした

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ソフトサンティア参天製薬)は添加物が少ないから良いと思う。
ただし薬効もさほど期待できない。パッケージに「人工涙液型点眼剤」とあるように涙を補充するだけのような感じなので、ドライアイが酷いとモイストタイプのものにして潤いを長引かせたかった気もするけど、いつものソフトサンティアに手が伸びてしまった。
ドライアイを自分で直すための補助と考えて目を休ませながら使わないとどちらにしても駄目だから悔やんではいない。
今日は予定通り、瞬きを深く多く繰り返してドライアイの症状は減って来た。
タブレットが創作活動に非常に適していて文章もどんどん書けるから勢い付いて直ぐに目が開き放しになるはずだ。嬉しいけれども危ない。
以前、職場で倒れた人がいたのと同じだ。物凄いスピードで軽作業をやっていて比較的にスムーズに動けるようなものだから余り飛ばし過ぎるのもどうかと怪しんでいたらやっぱり目が回ったみたいだった。
まさか自分もドライアイで創作活動に力を出し切れなくては仕様がない。

ドライアイが酷いから目の負担を減らそう

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一ヵ月くらい目脂が止まらなくて目の痒みも増しているなんてドライアイが相当に深刻化しているかも知れない。コンタクトレンズを付けずに過ごしていても殆ど変わらないんだ。
朝、起きると目がガビガビで少し開け難い。スマホ/タブレットの創作活動で一日に何時間も目を労らずに使い続けてしまっているのも事実なので、十五分程度に刻んで休ませるのこそが効果的だろう、ドライアイを退けるためには。
若いうちならば、多分、耐えられたとすると現状は目の新陳代謝が衰えていてもはや目の中の水の流れも悪いと考えられる。このままだと眼圧が上がって緑内障を引き起こし兼ねないから要注意だけど、しかし飛蚊症や光視症や目の回りの痛みなどは以前よりも少ないのは大丈夫かも知れない。
黒酢だよ、何といっても助けてくれたのは。視界にうようよ覆い尽くさんばかりのあの酷い飛蚊症を抑えられる方法は黒酢にしか見出だされなかった。残される違和感は目の疲れくらいか、およそ。
念のために断っておけば緑内障は自覚症状を伴うとはかぎらないので、目に違和感があってもなくても自分はかからないと安心することはできない。原因も良く分かってない病気みたいだけど、眼圧が高いと危ないらしくて本当に心配ならば病院で検査する以外には細かくは知り得ない。
僕は実感として大丈夫かも知れないと病気へは行かずに過ごしている。ドライアイが緑内障の引き金になる可能性は十分にあり得るから目の疲れも含めて気にかけて気にかけて生きて行かなくては仕様がないだろう。
緑内障は若ければ少ないようだから老化との関係が大きいはずだし、アンチエイジングの取り組みも怠ってはならない。すると他の様々な病気も免れ易くなるから良い。人生を有意義に送るためにも止められるわけがない。
創作活動でスマホ/タブレットと必死ににらめっこせざるを得ないかぎり、途中で目を長めに閉じたり、深い瞬きを多く繰り返して行くことが求められるんだ。
やる気が削がれるというか、乗りに乗って勢いがまるで蒸気機関車のように如何にも大きく奮発しているところで、少しでも妨げられたくないと思う。ただし目を閉じれば瞑想できて精神統一に役立ちそうだから自然は良くできているとも思うし、神様は面白い。
就中、精神統一で引っ張ってこそスムーズな創作活動が得られるのではないか。するとスマホ/タブレットでの目の負担も減るし、生活において全てが上手く回って行く…

クレーの絵が詩そのものなのは死と隣り合わせで意欲的な画家だったせいだ

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Paul Klee by Alexander Eliasberg [Public domain], via Wikimedia Commons
画家のクレーが四十歳過ぎの大回顧展のパンフレットに記した言葉が非常に興味深かった。現在は墓碑に刻まれているらしくて墓はスイスの彼の故郷ベルンのパウル・クレー・センターに置かれている。
私は現時点で受け入れられない、
未だ生まれもしないような、
死者に囲まれて暮らしているためだ、
いつになく創造の心へは幽かに近付く、
しかし十分に近付きはしてない。
Paul Klee via PAUL KLEE’S EPITAPH, THE MEANING(訳出)
まるで詩人の認識のような味わいがする。目に見えるものを描こうとしているような風情では全くなくて「芸術は見えないものを見えるようにする」という言葉も残していたと聞かれる。
この世で見えないものは心の目に全て映っているわけならばクレーはきっと心の目で世界を見詰めることのできる数少ない絵描きだったのではないか。
ならば言葉遣いも同じだろう。死は説き伏せられない。手に入れられないまま、少しも触れないで、世界に定着される死者の傍らで創作意欲が増すといっているわけだ。心の目で見ている、死を。恐ろしくも安らかでもない。人生を締め括るものとしての終止符と呼ぶとスタイリッシュながら意味合いが又随分と違って来てしまう。
詩そのものなんだ、感性が持ち前の。だから面白いよ。色彩で描かれた詩はこういうものかと味わわされる。
よもや魔術のような筆捌きの片鱗が漂っていて碑文には正しく相応しいと認める他はない。
クレーにとって創作活動が死と隣り合わせで意欲的だったとすると命の輝きは確かな認識に取って換わる美しさを如実に醸し出しているはずだろう。

言葉から実際に作曲していた自信作と呼んで良い音楽

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結城永人 - お元気ですか via 結城永人
YouTubeで一七番目の自作曲にお元気ですかと題名を付けてミキシングも幾らか変えながら載せ直した。
いつにないことだけど、言葉から実際に作曲していたので、だから作品に題名を付けるのはいとも容易かった。
お元気ですか
貴方がいなくなって
もう大分経ちましたね
もう大分経ちましたね
出だしのところは歌詞もできていた。そこからは言葉ははっきりしてなくて鼻歌混じりでやっていてしかしラストの一小節の四分音符の四つは「ありがとう」に定まった。ありがとうの「う」は縮めて「と」に纏めて入った。およそ俳句や短歌の字数換算だと「ありがとう」は五文字だけど、音楽の音符と歌詞の合わせ方は必ずしも同じではないと気付いたりもした。
出だしの歌詞の直後の暫くは非常に面白かった。予定通りだともっと低い音になっていた。メロディーからコードを付けるようにやっていたので、これは知識がないと本当に難しいし、経験も大きいと思う。音階を周りに合わせて本来の味わいが薄くなったのは悔しいけれども元々は《神様との出会い》を表現していたし、そのような雰囲気は少なくとも残っているわけなので、人生で崇高としか呼べない音楽には仕上げられたんだ。僕としては愛する人への手紙のような形で、構想しながら詩的にも良いと考えながらモチーフとして優先することにした。
ホームページのテーマ曲にも採用してProfileに載せたり、自分らしさという点でももはやこれしかない感じで、音楽では自信作と呼んで良いと思っているわけなんだ。
創作活動をやっていて生活の励みになるような作品が手に入ることは素晴らしいし、飛行機のエンジンならば推進力を付けて自由に空を飛び回れるような形で奮って役立てて行きたい。

若冲の尽きない魅力ならばフェルメールとの親近性から迫ろうか

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日本の絵画史でも特異な存在と見做されて際立って異彩を放つとも感じるような作品を数多く残した画家が若冲(じゃくちゅう)なんだけれどもWikimedia Commonsで探してみたらかつてなかったほどに興味深い作品と出会えた。
Ishizuri by Itō Jakuchū (Internet) [Public domain], via Wikimedia Commons
何ともいえないような魅力が漂っていて背景が真っ黒の若冲は初めて見たかも知れない。
Wikimedia Commonsでは作品名が載ってないので、ファイル名の「Ishizuri」を頼りに版画の石摺りで調べてみたら若冲はやっていたけれども興味深い作品は多色の木版画だったらしい。石摺りの版画は黒地に白い図柄だけど、若冲は白黒だけではなくて多色でやるのに独自の技法を編み出していたようで、合羽摺りといわれる、黒地に色付けした図柄になっているんだ。石摺り風の多色の木版画と考えるしかない。作品名も著色花鳥版画櫟に鸚哥図(くぬぎにいんこず)と分かった。因みに著色花鳥版画は他に五種類の計六点が残されているということだ。
好奇心を絶やさずに歴史上の一点へ
モチーフの鸚哥は金剛鸚哥(こんごういんこ)だろう。若冲は決して生きていた江戸時代の中期頃に目にしたとは考え難いような動植物を取り上げることも少なくなくて金剛鸚哥にしてからが日本にいて良く描けたと仰天させられる。鳥のフォームがずんぐりしてなくて僕がペットショップや図鑑で見ているのとは微妙に異なる。取り分け頭が細いし、嘴が小さいから金剛鸚哥よりかむしろ背黄青鸚哥(せきせいいんこ)に感じてしまう。ただし色使いが明らかに金剛鸚哥でしかないんだ。
絵で対象物/オブジェのフォームの捉え方は例えば子供ならば気になったところを大きく描くことが多い。絵描きに慣れてないとデッサンで実物よりも太く緩くなったりするので、見たままに捉えながら描くのには練習が欠かせない。練習で見たままに描けるようになると写真との差もなくなって来る。
若冲はどうか。日本画は二次元というか、平面的に表現されることが昔から多かったとするとそこを突いてやっているように考えられる。だから練習が足りなくて金剛鸚哥のフォームが背黄青鸚哥に味わわれたとは必ずしも認めてはならないのではないか。平面的に眺めてみると奥行きの差が一つに合わせられ…

ヴァン・ゴッホの烏のいる麦畑/見たい絵を好きなだけ見られた嬉しさ

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僕にとってヴァン・ゴッホ烏のいる麦畑は最も引き付けられる絵の一つなんだ。端的にいうと絵の本質に触れられる。絵の本質は色と線で世界を物語ることで、これが烏のいる麦畑は完璧ではないかと思う。見たものが詩として味わわれるところが何よりも素敵で、心の目で描かれているとしか正しくいいようがない。飛んでもなく美しくて個人的には部屋に飾っておきたいくらい気に入っている。
Wheat Field with Crows by Vincent van Gogh [Public domain], via Wikimedia Commons
見方が普通では分からない。普通では本当にタイトルのままでしかない。麦畑に烏が飛んでいる。タイトルのままの見方だと言葉に絵が負けてしまう。ヴァン・ゴッホはきっと分からなくてもというか、普通でも良いと思いながらタイトルを付けたのかも知れない。只単に風景が伝わる。素晴らしい。いみじくも見られることは生きられることだし、有り難いわけだから神に感謝せずにはいられない。ヴァン・ゴッホの烏のいる麦畑というタイトルの付け方には人生の敬いが感じられる。なので普通に味わってもインパクトは大きい。
ところが特別な見方をすると熊や兎など普通ではあり得ないものが数多く表現されていた。タイトルの言葉からは予想だにしなかった世界がまるで詩のように色と線で歌われているんだ。
咄嗟に見付けたかぎりでイメージを挙げてみよう。左側の雲の広がりのところが熊の顔になっていて麦畑に斜めに寝そべった格好になっている。雲の中の一羽の烏が熊の口なんだ。仰向けで右手を腹に当てて静かに休んでいる感じがする。麦畑の左側と真ん中の道が右腕で、右側の道が右脚という。すると左側の地平線は肩に当たるわけだ。中央付近の右寄りの雲の広がりが兎になっている。白いけれども二本の長い耳や顔は薄くて右向きで体付きは濃い。ふっくらしている。しかし二本の長い耳は天使の羽根のようにも受け取られる。体付きも蟷螂と似ているみたい。蟷螂の左横の暗いところにライオンの右向きの横顔があってライオンの体付きは黒い羊が重なっている。黒い羊の体付きは右向きだけれども反対にすると左向きの人の大きな手のようなんだ。それが熊の額にかかっている。ところで画面の真ん中の道を川と見立てると下の方に笹舟が見えて来る。周りの緑とは一筆だけ離れて風変わりなんだ。そして川…

庭石菖のsimple is bestに咲いた花

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庭石菖(にわぜきしょう)はデザイン性に富んでいる。花が小気味良く並んでいて風通しを感じるんだ。空間の抜けが好ましい。芸術的に綺麗な雰囲気が漂っていてsimple is best(簡潔なのが一番だ)といいたくなる。庭石菖には自然の美しさを味わうと共に創作活動を学ぶ。見逃せないはずだ、控えめながらも咲いていれば道端で。嬉しくて時が経つのも忘れるよ。

Wikimedia Commonsの埋め込みコードはブログでの様々な作品の引用や紹介に助かるよ

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ブログで他のサイトの作品を引用したり、紹介したりするのに埋め込みコードがあると載せ易い。
幾つかのサイトで取れてYouTubeTumblrFlickrなどが出しているけど、ところでWikimedia Commonsが取れると分かって非常に大きいと感心した。様々な絵や何かの画像が数多くあるんだ。埋め込みコードで簡単にブログに載せられる。パソコン版のサイトでしか出してないようで、スマホ/タブレットが主体の僕には気付くのが遅れてしまった。
Man Ray and Salvador Dali by Carl Van Vechten [Public domain], via Wikimedia Commons
Wikimedia Commonsでサンバドール・ダリとマン・レイの肖像(カール・ヴァン・ベクテン)にインパクトを感じたので、埋め込みコードで咄嗟に載せてみたくなった。

以前からサルバドール・ダリ(左/芸術家)の目を見開いた表情は良く知っていたけど、しかし隣でマン・レイ(右/写真家)まで一緒になってやっているのが面白いというか、見ていて僕もやってしまうわけなんだ。すると気持ちが熱くなる。創作活動の励みに持って来いではないか。頑張ろうという決意を新たにせざるを得ない。そして人生も鼓舞されるばかりだ。
ブログでの表現力がWikimedia Commonsの埋め込みコードで高まったのは確かなので、嬉しいかぎりだ。

追記:作品によって著者やクリエイティブ・コモンズの明記とリンクが必要だったり、画像などに人物が入っていると作品の著作権とは別に肖像権などが加わったりするようだから注意して使わなくてならない。
追記:サイト作成では埋め込みコードの画像はダウンロードして自分のサイトにアップロードして載せる方が良いと思い直した。埋め込みコードだとリンク先のサイトが閉鎖したり、サービスを止めたりする恐れがあるし、画像の表示も自分のサイトにアップロードした方が比較的に速くて安定している。