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小島一朗の新幹線殺傷事件の精神構造は表面的に受け取られた深沢七郎の楢山節考/姥捨て山の伝説だ

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新幹線3人死傷 容疑者の母「思いも及ばず」 via ANNnewsCH
新幹線内で刃物を振り回して三人を死傷させた事件/東海道新幹線殺傷事件の犯人の小島一朗の部屋がテレビで放送されたのを目にして驚いた。動画で見付からなくて引用できないけど、読書家というか、幾つも本が置かれている中に新潮文庫の朱と黒と薄橙の表紙の深沢七郎楢山節考が含まれていたんだ。本格的な小説を好んでいたと不意に知らされてしまった。
僕も持っている、実は。かつて日本で流行ったらしくて前世紀の中頃の1956年に初めて発表されて人々に広まった。翌年の単行本が国内のベストセラーになったといわれる。独特の物語が人気を博して映画やテレビドラマや演劇などでも取り上げられたりしていた。昔の姥捨て山の伝説――作者は現在の山梨県笛吹市境川町大黒坂の年寄りから聞いたみたいだ――をモチーフにしていて貧しい家族の子供が生き延びるために食い扶持を減らす老いた母親を山へ捨てに行くという小説なんだ。
内容だけ聞くと如何にも野蛮らしい。子供の老いた母親に対する身勝手で恩知らずな行動が人道的に批判されて然るべきだと先ずは参らざるを得ない。
ところが現実は決してそうではなかった。なぜなら老いた母親が子供のために無償の愛から山で密かにも絶命するのを望んで止まなかったからだ。深沢七郎が小説家として凄いのは前者の思いを後者がしっかり噛み締めるように描き出したところだった。本当に言葉にならない世界を見詰めながら頑張って表現していたと感心する。
子供は自分の代わりに死ぬしかないのに何一つ厭わない老いた母親の無償の愛へ感謝に堪えないとしてもかりに貧しい家族でなければ山へ捨てに行く必要はなかったわけで、矛盾せずに認識されるかぎり、心から口に出してはならない親子の情そのもの、延いては人間の倫理とは何かを教えてくれる筆致が意義深くも個性的なんだ。
素晴らしい真実に触れると詩人の空みたいな経験が生じるし――自作で挙げるとThe blueに匹敵するかも知れない――社会的に非常に優れた可能性まで持ち合わせている。
深沢七郎の楢山節考を理解できれば無益な殺生は現世から除外されてしまうはずだ
Shichiro Fukazawa by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
人々は我と我が身に誓って対他的な全てへの善意に則った…

ミスターラグビー/平尾誠二の日本のスポーツの未来へのメッセージ

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平尾誠二は日本のラグビー界を第一線で牽引して来た。高校時代に伏見工業高校から全国大会で優勝を果たすと大学時代には同志社大学から大学選手権の三連覇を果たす。そして社会人の神戸製鉄に入ると日本選手権の七連覇を果たしたり、二十代の全盛期は優勝三昧の現役生活を送っていたに等しい。日本代表にも十九歳から選出されて新しく開催された四年に一度のラグビーワールドカップの第一回から第三回まで予選を勝ち残って本大会へ進出している。第二回ではジンバブエ戦で日本の初勝利に貢献したらしい。1998年に三十四歳で選手を引退してからは神戸製鉄や日本代表の監督として2000年まで活躍して日本選手権で優勝したり、ワールドカップの本大会へ四回目の進出を遂げたりしていた。
Rugby World Cup 2019 Promo via 2019 All For Japan Team
一昨年、胆管癌によって五十三歳の若さで、急逝したけど、来年、日本で開催される第九回のラグビーワールドカップのアジアで初めての招致にも意欲的に携わった(ラグビーワールドカップ2019組織委員会の理事・事務総長特別補佐)らしくて観るのを心待ちにしていたのではないかと非常に悔やまれる感じがしてならない。
平尾誠二はラグビーだけではなくて人間性も凄いと友人の山中伸弥との関係から分かって来た。するとスポーツの捉え方がとても魅力的だったので、ブログで改めて取り上げてみたくなった。英語でSportsの本来の意味は気晴らしだけど、ちゃんと分かっていて自分自身に盛り込んでいる人だったように感じる。生涯、選手としても監督としても気晴らしというスポーツの本来の意味を少しも取り溢さず、誠心誠意、楽しくやっていたのではないか。人柄は弾ける笑顔が非常に印象的なんだけれども根っからの明るい性格だとすればラグビーに自分らしさを爆発させて生きていたと驚かされる。
端的にいって美しい存在を体現しているイメージが相当に気に入ってしまう
知ると未来が輝かしい。生きるとは何かの指南役みたいで、どんな人にも幸せな世界を想像させるのではないか。取り分けスポーツ好きの子供たちへの影響力が大きそうで、それこそ今此処が楽しいという正しい日本語を通じて真実を新しく掴むべき切欠を与えると考える。漠然とやって気付かないよりは間違いなく益しだろう。
「スポーツの原点というのは、たとえば子どものこ…

MISIAが徹子の部屋で大ファンの黒柳徹子と歓談しながら人生の夢を又一つ叶えて

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テレビには殆ど出ないはずのMISIAがまさか本業の歌手を差し置いてまでトーク番組の徹子の部屋を選んだ気持ちに驚いてしまった。
「徹子の部屋」への初出演が決定!
ついに今年デビュー20周年を迎えるMISIAが、テレビ朝日「徹子の部屋」へ初出演することが決定しました!!
放送は、2018年1月19日(金)ひる12:00~を予定。
ぜひお見逃しなく!https://t.co/34x2KWcjFSpic.twitter.com/Iqx3NSKo5e— Misia.jp (@MISIA) January 5, 2018
普段、観ないし、チャンネルを合わせたのも偶々だったので、これはもはや奇跡と呼んで良い。MISIAがテレビに出るのも偶々というか、殆どないわけならば滅多にないチャンスを予想外に掴んだ好運そのものだった。有り難い気持ちから真っ先に神を崇めるだけだ。
なぜMISIAは徹子の部屋に出たのか
知って驚くのはMISIAは黒柳徹子の大ファンだった。だから司会を務める冠番組の徹子の部屋に出るというのは偶々でもかねて待ち望んだ結果だった。
黒柳徹子は歌手ではないし、MISIAとは必ずしも結び付かないのが意外な衝撃で、一瞬、戸惑いながら左右の目が小刻みに揺れる感じもしてしまった。
実は子どもの頃から黒柳徹子の大ファンだというMISIA。デビューの頃からの夢は『徹子の部屋』に出ることだったそうで、以前コンサートに清水ミチコを招き『徹子の部屋』出たことを想定した予行演習までしていたという。
MISIAは黒柳の大ファン!清水ミチコを招き『徹子の部屋』を想定したことも via テレ朝POST
歌一筋の人生ではなかった。本業と無関係な方面でも同じような夢を思い描いていた。普通はそうだし、誰にとっても同じかも知れなければ凄いのは表現できた。面白いと思うし、異色の繋がりに触れるかぎり、良くやってくれたとまさか愉快に和まされもする心だ。
MISIAは黒柳徹子から種々と学んでいた
歌は複数の先生から教わる貧しい子供たちを助ける馬に耳元で声をかけて乗る
歓談しながら三つ挙げられた。他にもあったかも知れない。言葉に詰まりながら話していて抱え続けた長年の思いが溢れ出すような印象を与えた。歌手から人生の夢を又一つ叶えたと本当に良く分かった。
貰い泣きするのも吝かではないくらい素晴らしい世界が繰り広げられていたし、僕がMISIA…

エド・シーラン:ホームレスから飛び出した世界トップのブリティッシュロックの新星

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イギリスで大人気のロック歌手でエド・シーランがアメリカでも同じように売れ捲って2016年の第58回グラミー賞で初めてThinking Out Loud(考えを声に出して)が最優秀楽曲賞と最優秀ポップ・ソロ・パフォーマンス賞の二つを受賞していた。音楽への影響力の大きさから名実共に世界トップのアーティストといって良いのではないか。日本でも一ヶ月ちょっと前にコンサートを華々しくやっていたらしくて知っている人は決して少ない存在だろう。
Ed Sheeran - Castle On The Hill via Ed Sheeran
YouTubeの公式チャンネルで何曲か聴いてみた。Castle On The Hill(丘の上の城)が細やかに軽やかで心地良い。エレクトロ全盛というか、DTM(デスクトップミュージック)の高性能なコンピューターを使った彩り豊かな音作りが流行っている中で、そうした新しい良さを的確に取り入れながらしかも昔ながらの歌心を人間的に打ち出しているところが凄いと驚く。グラミー賞のThinking Out Loudなどはアコースティックな生楽器のセンスが却って出色に受け留められる仕上がりの音楽にせよ、端的にいって懐かしい。バンドを組んで楽器を演奏するだけが全てだった時代、ブリティッシュロックでは個人的にビートルズが最も印象深くて同時代では聴いてなかったけれどもおよそ五十年振りに人々に帰って来たかのようだ。
青春期、ロックバンドでもテクノ寄りの曲作りのライト・セッド・フレッドが格好良くて大好きだったし、一発屋みたいな感じで、世の中で直ぐにさほど目立たなくなったものの代表曲のDon't Talk Just Kiss(何もいわずに口付けを)は未だに素晴らしいと思っている。
ブリティッシュロックは十代後半のビートルズと二十代前半のライト・セッド・フレッドを聴いて殆ど止まっていたので――音楽としてはジャミロクワイを長らく気に入っていてイギリス生まれのアシッドジャズバンドだった――エド・シーランで四十代後半と本当に久々に又触れて気持ちが動き出したと人生の巡り合わせに不思議な喜びを受け取ってもいる。
聴いて新星だと感じる。歌心の懐かしさが温故知新なんだ。ブリティッシュロックとは何か、ロック自体がイギリスのお家芸みたいな固有の音楽ジャンルだすると改めて本格的に理解される部分を持っ…

アインシュタインはスピノザ主義者だから反核の物理学者として誠実そのものだ

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人類が核兵器を作り出すのに成功したのは物理学の特殊相対性理論に基づくらしい。すなわち「E=mc2」(エネルギー=質量×光速×光速)の公式に沿ってしか誰も考え付かなかった可能性が高い。
Albert Einstein by Oren Jack Turner, Princeton, N.J. [Public domain], via Wikimedia Commons
物理学の特殊相対性理論は一般相対性理論と共にアインシュタインの偉大な業績の一つに数えられる。現代人の生活を支える様々な機械の多くはアインシュタインの発見した自然界の認識に由来するようにも聞かれるし、高度な数式などは僕にはちんぷんかんぷんにせよ、とても凄い人だと賛嘆せざるを得ない。
しかしアインシュタインは核兵器について心を痛めていた。自分が物理学が好きで一生懸命に勉強してついに掴み取って皆に教えた特殊相対性理論が夥しい人殺しに使われるとは寝耳に水の悲しみというか、当初から全く望んではいなかったためなんだ。
第二次世界大戦でアメリカがルーズベルト大統領マンハッタン計画で世界中の有力な科学者に声をかけて何人も集めながら原子爆弾の開発を果敢に始めたけれどもアインシュタインは最初の切欠に不本意ながら関与していたとされる。
ドイツのヒトラー総統がヨーロッパでユダヤ人を迫害して実際に殺し捲っていたので、ユダヤ人の科学者たちが何とかしようと敵対するアメリカに原子爆弾を早く実現して叩き潰すように薦めたんだ。事前に物質の核連鎖反応が強大な爆発力を持つから大変な武器になると教えるためにアインシュタインにそうした手紙への署名を頼んでいたとされる。アイデアが特殊相対性理論から引き出されるとかノーベル賞を取っていて地位や名声が高かったなんて事情からルーズベルト大統領を十分に説得できるとユダヤ人の科学者たちが考えたせいかも知れない。
アインシュタインにとっては詳しく知られないままにアメリカのマンハッタン計画の立ち上げに加担する格好になってしまっていた。
改めて原子爆弾の開発を一緒に進めて欲しいと声をかけられたものの参加しなかったといわれているので、本当にやらかしたと不本意な人生に悔やんでいたのではないかと想像される。
アインシュタインもユダヤ人だからドイツのユダヤ人の大量殺戮に対抗しなくてはならないと感じたかも知れないし、止めたい気持ちは流石に…

森蘭丸の青が似合う美男子らしい忠誠の織田信長へ命を捧げた潔さ

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本能寺の変を調べていたら、一際、目を引く武将がいて森蘭丸という名前から戦国時代に華々しく引き付けられる感じが凄かった。
Ranmaru Mori by Tsukioka Yoshitoshi [Public domain], via Wikimedia Commons
織田信長の家臣で、多勢に無勢と明智光秀の大きく攻め込んで来た武士たちの勢いに押され捲りつつも正しく死をも恐れずに先頭を切って奮戦した武将の一人が森蘭丸だった。
明智軍の安田国継に槍で刺されて殺されたらしい。安田国継は非常に有力な武将で、古川九兵衛と箕浦大蔵丞と共に明智三羽烏と呼ばれるくらい明智軍の主力だった。
本能寺の変で最大の狙い目だった織田信長も槍で突かれてもう駄目だと傷付きながら部屋の奥へ引き下がったのは安田国継の一撃だったといわれる。
森蘭丸の死と織田信長の痛手は何れも安田国継が自分でやったと自分でいっていたらしくてもしも見栄を張っているだけならば史実が歪められて困ってしまうけれども嘘吐きが有力な武将のはずはなくて精神こそ自分に厳しいくらい鍛え上げてなければ命懸けの真剣勝負の世界で生き残るわけもないから信用するのは他の人たちよりも比較的に易しいと考える。
物語として捉えると主君の織田信長を庇って先に命を落とした森蘭丸の忠誠に満ちた決死の姿が魂を揺さぶる
巷で事実は小説よりも奇なりと聞く。本当に興味深いのは森蘭丸には二人の弟も一緒に参戦していた。森坊丸森力丸と合わせて森三兄弟みたいな感じで、本能寺の変で織田軍として安田国継を含めた明智三羽烏と力強く対峙していたような印象を与える。
計らずも三対三の抽象的な知覚から宿命とか神なんて形而上学(観念界)に思い馳せる瞬間が訪れるのが類例がない。
哲学的な気分にさせるけど、しかし詩学的な気分にもさせる。というのは森三兄弟は何れも十八歳以下の少年だったせいなんだ。武将として戦闘能力は必ずしも低くなかったにせよ、本能寺の変で突然ながら歴戦の猛者に他ならない明智三羽烏に対峙しては端から勝ち目はなかったのではないか。想像すると本当に気持ちだけで打つかって行ったに違いない。織田信長のために死力を尽くして悔いはなかったとしても早過ぎる亡骸がとても可哀想で、短い生涯へは悲運を告げるように切ない風が流れるばかりだと涙に咽ぶ。
森蘭丸は先頭を切って大暴れした本能寺の変で安田国継に打ち倒され…

キュボロは人間性から脳を鍛え上げる幼児教育に最適の玩具だ

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Cuboro cubes by H005 (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
スイスのキュボロという玩具を知った。積み木と玉転がしが融合したような動的な立体パズルで、やれば創造力をあらゆる面で刺激されて人間の脳を鍛え上げるのに子供から大人まで非常に役立つのではないかと好感を抱いた。
何をどうするかとちょっと案じただけでも面白そうなのは取り分け幼児教育に最適だろう。
論理性が十分に身に付いてない精神にとっては知覚の直観的な対象こそ認識力に大きく作用するはずだし、そうして物事を速やかに考え出そうとするほどに脳も働き易くて栄養不足でないかぎりはどんどん発育して行くに違いない。
cuboro - verblüffende Bahn aus nur 6 würfeln via cuboroAG
キュボロが玩具として特徴的なのは木の温もりだと思う。積み木の中に玉転がしでビー玉が入って来ると世界として明らかに分かる。命が吹き込まれるといっても強ち大袈裟ではないだろう。世界と共に捉えると玩具の質感が際立って受け留められる。ビー玉の冷ややかさに対して木の温もりが強く印象付けられるのではないか。扱う手を通して自分に似ていると気付けば愛着が湧くはずだし、延いては人間性が味わわれるのが良い。
同類の木のイメージから自然への理解が増す。心に芽生える生きる喜びこそ人間性なんだ。まるで優しさに包まれたような存在を受け取っている。創造力が刺激されるのもだから当然だと頷くし、キュボロは本当に素晴らしい玩具に他ならないといいたい。自然への理解が知覚する対象を新たに求める知性と意志を精神に生み出すんだ。一つの理性が認識力を著しく加速するわけで、考えればアイデアも自分なりに出て来る。
幼児教育で最も重要な要素を持っている。人間性を育まないと脳にも好影響を大して与えない。知的な好奇心が湧かないままでは勉強として長続きせずに終わってしまう。教育論ならば一般的に先生が詰まらないから生徒も駄目みたいな状態だけど、小さな子供にとってはとにかく目の前の全てが問題なんだ。自分一人で解答できるかどうかが勉強なので、恐れずに物事を考えるためには生きる喜びと結び付いた自然への理解が何よりも必要だと感じる。
1979年スイスのベルンで誕生したキュボロは最初、Mattias Ett…

やまゆり園で障害者ばかり襲った植松聖の反社会的で独善的な差別意識の存在は悪魔の操り人形だった

植松聖が相模原障害者施設殺傷事件というやまゆり園で二十六人の死傷者を出した事件はなぜ起きたか。犯行の原因を認識しようとすると非常に錯綜していて難しいと感じざるを得ない。
本人は障害者ばかり襲うという差別意識を著しく示していたけれども犯行前には知人や友人どころか、日本の一般人として当時の総理大臣の安倍晋三にまで伝えようとしていたらしい。
世の中で障害者が取り立てて問題を起こしているわけではないし、突如、いきり立って大袈裟に訴える必要は全くないだろう。
植松聖は大麻を常用していたらしくて普段の障害者への差別意識が余りに嵩み過ぎた結果として総理大臣に伝えようという異常行動が出て来たと直ぐに分かる。
ところが厄介なのはやまゆり園で二十六人の死傷者を出したという相模原障害者施設殺傷事件に繋がった言動の流れなんだ
本当にやりたければ誰に何もいわずに一人でやるのが最も成功率が高いはずだったので、止められるかも知れないにも拘わらず、あちこちへいいふらしながら敢えてやってみせるという仕方が大麻に起因する異常行動に数えられるかどうかが疑問として挙げられる。
逮捕されても植松聖の障害者への差別意識はなくならないし、もしも釈放されたら他の被害者が増えてしまうのは明らかなくらい根深く染み付いているようなんだ。
まさか留置場で大麻をやってないらしい。警察に社会的に拘束されながら平静の状態でも相当に間違った方面(歴史上は古臭いばかりの民主化以前の見方)へ精神が偏ってしまっているわけなので、相模原障害者施設殺傷事件というやまゆり園で二十六人の死傷者を出した犯行の原因は植松聖の人生の価値観から根本的には理解するべきだと考える。
日本で学校でも会社でも忌まわしい出来事が、沢山、ある。障害者へ向けなくともちょっとした差別意識ならばどこにでも転がっているかも知れない。思想的に捉えれば「猿」(柄谷行人)とか「インディーセント」(浅田彰)なんて指摘されるポストモダンの時代にせよ、どうしても他者を欠いた自己中心的な流れに存在ごと巻き込まれる人たちが後を絶たないみたいなんだ。現今の格差社会からすると経済上の貧富が前景化してもはや可哀想なまでに差別意識へと駆り立てられると推測される。
植松聖は生活保護を受け取っていたので、その気持ちを隠蔽するために障害者はいなければ良いと狙って犯行に及んだ可能性が高い。
赤ん坊も老人も含め全ての日本…

アスペルガー症候群に希望を与えるスーザン・ボイルの奇跡の歌声をもう一度

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スーザン・ボイルが天使の美声とも称される奇跡の歌声で全世界を席巻してから八年が過ぎ去った。もう一度、聴いてみたいと久し振りに感じるのなぜだろう。人生が重なって来ているせいかも知れない、自分自身と。追い風を背中から新しく認め出しているんだ。かつて誰よりも上昇気流に乗って空を自由に羽搏くように素晴らしい生活を掴んでいたはずの前例ならばスーザン・ボイルに注目しないわけには行かなくなる気持ちも本当に確かだろう。
スーザン・ボイルの感動した歌手の才能と人間性
Susan Boyle's First Audition - I Dreamed a dream via Britain's Got Talent
2009年にBritain's Got Talent(ブリテンズ・ゴット・タレント/英国は才能を手に入れた)というイギリスのテレビ番組に出演したのが全ての発端だった。見るからにただのおばさんでしかなかったスーザン・ボイルが余りに余りの飛び抜けたパフォーマンスを示した。聴くや否や感動せざるを得ないほどの奇跡の歌声であれよあれよという間に人々から名前を知られる歌手に変貌を遂げた。
爆発的な仕方だったし、最初の圧巻の映像が天使の歌声ならば純心の誕生もさながらにYouTubeで全世界に広まったところが昔では考えられなかったはずだけど、とにかく凄まじい勢いで人気を得てしまうという現実は情報化社会とソーシャルメディアの時代を象徴しているようだった。
二十一世紀のシンデレラ・ストーリーという趣きもスーザン・ボイルとは切り放し得ないと思うし、そうした他の誰にも及び付かない成功を極端なまでに成し遂げた後では本当に非常に強かったと記憶している。
歌手としてプロデビューするための勝ち抜きのオーディションがBritain's Got Talentで、調べるとFinal Audition/決勝戦では落選して準優勝に終わっていたんだ。実際に聴いてみるとFirst Audition/一回戦が素晴らしく良くて優勝を取り逃がした最後の場面では声の張りや伸びやかさが大きく減っている印象が否めなかった。
本人の談話によると途轍もない緊張感に襲われて普段通りにもはや歌えなくなった気持ちの結果らしい。
驚くのは選曲がどちらも同じで、ミュージカル版のレ・ミゼラブルヴィクトル・ユーゴー)の挿入歌のI …

人間と人工知能が並立する社会とは何か

NHKスペシャルの人工知能 天使か悪魔か 2017を観て人工知能への理解が深まった。一言では世界の未来を予測するために人工知能は多く使われ出している。
番組内では将棋でponanza(ポナンザ)という人工知能のコンピューターと人間の現役の佐藤天彦名人が対局しても勝てない事実を基軸として世の中の他の様々な方面でも人工知能が物凄い力を発揮しているように紹介されていた。
タクシーで乗客を探す、金融の取り引きで利鞘を伸ばす、裁判所で再犯の可能性を示す、派遣で退職者を見抜く。
本当に役立っているというか、NHKスペシャルとしては本当に良いのかと人々の問題意識を高めたいみたいな感じでやっているし、確かに人工知能で生活が変わる状況で考え直すべき点は多いだろう、およそ人間性の判断材料に使われるのが怪しい。
社会で学校や会社の人事(面接、配置など)に人工知能が入り込めばそれこそ皆は僕と全く同じ苦しみを味わうことになりそうだ。
ホームページやブログはどうして検索エンジンで上位表示されないのか。アクセスアップが捗らないからサイト広告で生活費を稼げないままに死にかけている。Google検索が中心だけれどもサイト評価のサイト解析に人工知能が搭載されているために人間だけではなくてコンピューターにも理解できるサイト作成が欠かせない。考えても考えても、中々、上手く行かないから首吊り用のロープのばかりが目の前にちら付く。
いつか皆も学校や会社で上手く行かない悲しみを人工知能のせいと当たり前に呼んでしまう日がやって来ないとはかぎらない。
人工知能から人間性が勘案されると受験に失敗したとか昇給に落胆したなんて関連する様々な悲しみを引き起こす原因になるのは間違いない。
コンピューターに合わせないと人々は裕福な生活を得られ難くなるのではないか。
僕にとってはもう既に当たり前だし、Google検索に好かれないと生き延びられないわけで、検索エンジンの人工知能を精確に理解するために、日夜、努力を重ねて続けている。
現行の人工知能の特徴が人工知能 天使か悪魔か 2017で分かって来て入力された教師データを膨大に解析して物事に一定の結論を出すように設計されている。未来を予測するのに役立つと世の中に少しずつ広まっているけど、とにかく膨大な教師データから過去に何が起きたかを計算していて同じように当て嵌まる世界を取り出して未来を予測する。
原…

モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークを聴いて出会える神様への無邪気な心へ

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いつ頃からかは良く覚えていない。たぶんしかし高校時代だったのかも知れないというのがモーツァルトの音楽を聴きながら神様と出会った。
当時、ベートーヴェンが大好きだったので、何といっても交響曲第五番《運命》のジャジャジャジャーンが印象強いばかりだった、モーツァルトへの記憶は殆どない。クラシック音楽というとベートーヴェンが代名詞みたいな状態で、他にはチャイコスキーマーラーくらいしか聴いた感じがしなかったはずだ。
興味や関心からいうと十代の少年期にクラシック音楽を欲したのは僕の場合はオーディオが大きかったと振り返られる。とにかく良い音とは何かを知りたかったのではないか、世の中で。愛読書も月刊HiViだったり、どんなシムテムで良い音が聞けるのかを知りたくて探し回っていた。
なのでクラシック音楽は色んな音が細かく入っていて自前のオーディオが良い音を出しているかどうかを確かめる意味合いが非常に強かったし、真っ先に捉えるべき第一条件とするとやはりベートーヴェンは音の強弱が激しくてダイナミックレンジが超人的な音楽を作り出していから引き付けられない理由もなかったと認める他はなくなる。
モーツァルトへは逆に対照的な印象を微かに持たされながら不思議がっていたようだ。今にして思い返してもベートーヴェンとは似ても似付かないところの静けさがユニークな作曲家だろう。どんなに大人数の楽団を擁する交響曲やオペラを作曲しても心の空白地点というか、何となく時間が止まったような思いを抱かされるんだ。
気に留めると音も聞こえない感じがするから正しく不思議がりもするわけだけれどもイメージが音楽を越えて生み出されているとしかいいようがない。または楽想が素晴らしくてクラシック音楽はメロディーが分かり難くて何をやっているのかと考えても詰まらなくていつも聴かない人にとってはベートーヴェンの運命のジャジャジャジャーンみたいな明白なフレーズこそ好ましいかぎりにせよ、もうちょっとだけ重なり合う同じような部分もモーツァルトの作曲には含まれていたせいだろう。
Mozart: Eine Kleine Nachtmusik: McGill Symphony Orchestra Montreal conducted by Alexis Hauser via MGSOconcerts
人々に最も有名なモーツァルトの音楽はアイネ・クライネ・ナハトム…

東京都江戸川区女子高生殺人事件の青木正裕は生活設計の成り立たない借金に苦しみながら気持ちが死んでいた

テレビで東京都江戸川区女子高生殺人事件の裁判のニュースを観た。女子高生が興味本意で首を絞められて殺害されたという内容だった。知って相当に気がかりな感じがした。
犯人の青木正裕は極貧状態のどうしようもない生活だった。もはや死ななければならないから自殺するよりも他殺して裁判で死刑になる方を選んだらしい。特徴的なのは誰かの首を絞めてみたいと女子高生を狙って興味本意から犯行を企てていた。猟奇殺人の一種だけれども必ずしも主要な動機ではなくて極貧状態から来ているというところが何なのかと訝らせる。
常日頃から胸にもやもやを相当に抱え込んでいた性格だったせいだと推測される。
借金が百万円以上もあったみたいだ。自分で返せなければ投獄されてでも人生をやり直すしかなかったのではないか。どうしようもないと何もかも諦めて死ななければならないと考えてしまったんだ。
僕もかつて同じように借金を抱えていて少しずつ返すのと借りるのを繰り返しながら十五年程で完済した。リボルビング返済だからちまちまやっていると利子が大変で、いつ終わるとも知れなかった。最終的には新しく借りないで、ドカドカ返し続けてこそ倹約だと気付いたわけで、そのためにはどこかで働くしかなかった。どこかで集中的に稼いで元本をしっかり減らす。さもないとリボルビング返済は利子ばかり返して憂鬱な心境に追い遣られる。百万円以上も借金があれば、大体、一ヶ月に二万円くらい利子が付いているかも知れないし――安物のスマホを、毎月、買い換えているに等しい――極貧状態において本当に大きい。十五年程、貯金していたらおよそ三百万円も残っていたわけで、どうにも借りずにはいられなかったにせよ、僕は物凄く損したと振り返るだけだ。
もしも借りるならば直ぐに返すのが良策だろう。リボルビング返済の借金は便利だけれども返しながら借り出すと毎日がもはや利子の支払いに終始し兼ねない。生活上、未来が狭められながらどうしようもないと気が滅入る。
青木正裕はコンビニでアルバイトをやっていたけれども犯行時点で無職だったから借金を返すというあてがなかったのは確かだろう。
極貧状態で借金百万円以上は間違いなく辛いけど、ただし自分が苦しいから誰かの首を絞めたくなったとしたら考え方は稚拙としか呼べない。
皆と自分は同じだと思い込み過ぎている。だから人生が望ましく送れないままに皆もそうではなくてはならないと青木…

附属池田小事件の宅間守の悲しみの権化という凶悪犯罪の人間性

凄惨な人殺し、附属池田小事件が起きたのは二千一年の六月八日だった、犯人は宅間守という。大阪教育大学附属池田小学校へ包丁を持って侵入し、八人の児童を殺害した。負傷者も他の児童と教員で十五名に上った。校長と他の教員に取り押さえられると駆け付けた警察官によって現行犯で逮捕された。裁判では死刑を速やかに宣告されたけれども自分でも欲していたらしい。そして判決を受けてから一年ほどで執行されてしまった。大阪拘置所で迎えた最期は四十歳だった。
どうしてなのか。自分よりも力弱い相手を手当たり次第に攻撃するという仕方が凶悪犯罪を象徴しているようだ。しかも人間の犯罪の全てに当て嵌まるかも知れない。攻撃すると悪いのは世界のどんな方面でも同じだろう。
なぜ可能なのか。附属池田小事件は犯人の宅間守に皆と仲良く過ごす気持ちが全く感じられないゆえに犯罪の反社会性という前提条件を示しているようだ。他人への憎しみがあからさまに出ていて実際にやるか、やらないかという以前の内面の罪そのものを人間性からはっきり味わわされてしまう。
イメージは衝動の塊だろう。世界が悪いと思うと同時に攻め立てるような状態だ。附属池田小事件は無慈悲なまでの出来事として包丁を持った存在が子供たちへ雄叫びを上げながら偶さか通り過ぎて行っただけだと捉えられる。人間ならば言動が単刀直入で最も恐ろしいはずだ。宅間守は彼自身が災いで、丸ごと酷くて凶悪犯罪といえども比類なく悲しみの権化だった。
ずる賢いのは場所を選んでいる。本当に嫌らしいし、世界の犯罪でしかない内面の取り組みの卑劣さを物語っている。附属池田小事件の宅間守には皆と仲良く過ごす気持ちが全く感じられないけど、衝動の塊だからもはや思考は停止しているにも拘わらず、自分よりも力弱い相手を狙いながら予め目論んだ凶悪犯罪だけは確実にやり果そうとしたわけだ。
人間にとって存在は精神なしに不吉だと思い知らされずにいない。
死ぬ気になったら何でもできる
これは正しくないでー、ウソや
みんなもようわかっとるやろ
死ぬ気になったら何をやってもええ
これや。これが真理や
死刑にしてくれや!
そう思えるようになった時、
君の立場は逆転するでー
宅間守/宅間イズム via 宅間守まとめwiki
日常生活が不自由な余りに気持ちを失ったといって良い。裏返して気持ちを失わなければならないほどに不自由な日々を強いられていたのは本…

秋葉原通り魔事件の加藤智大の性格は短気そのものだった

かつて秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んで刃物を振り回しながら何人もの死傷者を出したという秋葉原通り魔事件があった。
犯人の加藤智大は現行犯で直ぐに捕まったけれどもテレビのニュースで観ながら本当に可哀想だし、被害者も本当に不幸だと感じた。
振り返ると何だったのか。普通の人が只単に暴れ捲っているという印象が強くて日常生活で異様なまでにストレスを溜め込んだ結果だと理解した。考えてみるとしかし驚くべき状態だったわけで、ストレスの恐ろしさを知るためには詳しく明かしておくのも損はない。
秋葉原通り魔事件の切欠は加藤智大のインターネットの掲示板に成り済ましが現れたらしい。気に入っていた掲示板が廃墟になって誰にも相手にされないみたいな窮地に追い込まれながら一つの凶行に及んだんだ。
本人は成り済ましへ心理的に復讐するつもりだった。不可解な発想というか、言葉遣いだけれども生活そのものを引っ括めて掲示板を捉えていたんだろう。掲示板なしに生きられないみたいな気持ちがあったとすると分かり易い。成り済ましによって何で自分だけが邪魔されなければならないのか。生活そのものが成り立たないとすればそうした全体を条件付ける社会へ怒りの矛先が向けられる推論は不合理ではないし、成り済ましへ心理的に復讐するというイメージは湧いて来る。
殺人ほどの重大な事件の動機としては短絡的で、取るに足らない感じがするし、どうしても耐えられないかぎりは自殺しても気持ちは同じだったかも知れない。
加藤智大の人間性についてはなぜ他殺を敢えて選んだかに尽きる。調べると以前からちょっとしたことで会社を直ぐに辞めるというふうに短気だった。何回も繰り返しているから正しく短気そのものだったと断定せざるを得ない。
だから気に入りの掲示板を成り済ましに邪魔されてどうにも耐えられないままに社会へ自殺よりも他殺を選んだようだ。
短気はなぜ起きるか。簡単なことが上手く行かないのが腹立たしいせいだ。本当は上手く行かないかぎり、簡単なことではないし、自分にとって困難だから気長に努力するしかないけど、しかし短気だと通り越してしまう。腹立たしいばかりの状態から言動が上手く行かないことを破壊するという向きへ移行する。
加藤智大は短気そのもので、人々の殺戮を招いたとすると実生活では自力を過信しないように適切に思い止まらなくては行けないだろう。何にせよ、できけなければなら…

新井将敬の存在理由を喪失した正義感のための自殺

さっぱり分からないというか、かつて知って不可解だったのが国会議員で、テレビの討論番組で良く見かけていた新井将敬が、突然、他界された事実だった。
証券会社の借名口座から多額の金銭を代議士として不正に受け取っていたのではないかと警察から捜査されていてもはや逮捕される寸前まで来ていたので、闇の黒幕に口封じされたみたいに他殺という雰囲気が濃厚だったものの実際にはホテルの一室で首吊りの自殺を図ったと報道されていたし、取り立てて事件性はないとさらに追求されもしなかったらしい。
普通、汚職で自らの命を絶つ公務員は珍しい。日本の武士道からすれば国民への責任を痛感する余り、生き恥を晒すわけには行かなかったかも知れないし、自殺するのが当たり前の考え方を受け取るけれども民主主義においては必ずしも公務員に全ての責任を負わせるのは躊躇われざるを得ない。社会が病んでいるかぎりは事実を解明しながら同じ過ちを繰り返さないように努めるのが本筋ではないか。張本人が直ぐ様と自殺して人々の知りたい気持ちを現世に置き去りにするままではむしろ無責任として咎められ兼ねないだろう。
新井将敬が民主主義の政治家にとって必要な考え方を全く理解できなかったとは感じないし、特に相応しい人柄は思い付かないにせよ、僕も忙しくて個人的に細かく追いかけている暇はない、所謂、説明責任を果たさない気持ちで公職に就けるような世の中では古くて古くて現実にはあり得ないのではないか。
だからきっと汚職というか、そうした疑惑から逮捕されると目に見えている状況の中で自殺するならば苦汁の決断が受け取られてしまった。
死の前日、新井将敬は「最後の言葉だけは聞いて下さい。私は潔白です」といっていたらしい。
気持ちは証券会社での取り引きについて自分が持ちかけたわけではなかったけど、それが事件を捜査する警察においては反対の展開になっていた。新井将敬が意図的に汚職を目論んでいるという嫌疑が強まっていて逮捕されれば代議士として酷いだけではなくて地位も名誉も失ってしまうはずだった。どっちもどっちではないか。誰かに唆されるのがまだ益しと納得するのも訝しいけど、新井将敬の口振りでは自分から汚職に手を伸ばしたと人々に受け取られるのが物凄く耐え難かったんだ。
警察は取り調べで証券会社と新井将敬に尋問しながら事件性が前者よりも後者に大きいと判断したわけだけど、すると全ては騙されたと…

ヴァン・ゴッホの美しい日本のために生きたというベーコンの習作から最大限に受け取っても素晴らしく感動的な人間性

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The Painter on the Road to Tarascon by Vincent van Gogh [Public domain], via Wikimedia Commons
ヴァン・ゴッホタラスコンへの道を行く画家(仕事へ向かう途中の画家)は見付けるや否や物凄く良い絵だと思った。本当に可愛くて素晴らしい作品ではないか。雰囲気が自然なのに加えて画家の大きさが絶妙なんだ。小さめで動きが軽快に出ている。漫画風だけれども構想としてはきっと日本画の影響だろう。十九世紀後半にフランスで大流行していて出会って江戸時代の葛飾北斎歌川広重という浮世絵に芸術上の規範を仰いでいたらしい。全てが明るめの色彩と共に平面的に溶け合わさっている。ゴッホの手紙を読んでいるとヴァン・ゴッホは日本画を通じて日本への憧れを猛烈に抱いていたと分かるけれどもタラスコンへの道を行く画家はヴァン・ゴッホが日本に来たのと同じだと澄み切った景色の広がりに大喜びながら絵に新しく精力的に取り組み出したアルル(フランス)での創作だったんだ。日々の浮き立った気分がはっきり示されていて微笑ましい。感じ入るほどに綺麗な心を養い育てられるし、知って瞬く間に生まれ変わるような魂の一枚だ。
日本人にとっては逆に国内の芸術について考えさせられる。浮世絵は何が良かったのか。徳川幕府による天下泰平の世相を反映していた。戦乱の日々に歯止めがかけられたならば日本人は相当に寛ぎを得られたはずだ。生活そのものは身分差別が横行しているように決して楽ではなかったにせよ――精神的な打つかり合いから国民同士の紛争もまさか夥しく引き起こされるならば坂本龍馬で率先される明治維新まで何百年と変わらないほどの重苦しい悲しみを強いられてたに違いないのではないか――酷薄なばかりの殺し合いの苦というどうにも不穏な毎日だけは避けられたから理知的な生き方こそ浮世絵に示されていたんだろう。だから温故知新として評価するべきだし、現代でも決して捨て去る必要はない。美しさが人間性に迫っているかぎり、画家一筋のヴァン・ゴッホが称賛したのも当然だったにせよ、年代を越えているわけだ。
僕の仕事はみんな、多少とも日本画が基礎になっている。
テオ宛のゴッホの手紙(硲伊之助訳)
タラスコンへの道を行く画家が漫画風なのはヴァン・ゴッホの芸術が方法論的にも時代を先取りしていた証拠だ。…

悲しくても必死に生き抜くつもりならば画家一筋へ情熱を燃え上がらせたヴァン・ゴッホのように

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ゴッホの手紙を読んでいると元気が湧いて来る。絵だけではないと本当に感じる。ヴァン・ゴッホは画家だけれども同時に作家だったのではないか。興味深いのは文学は手紙でしかないから特にやってないという雰囲気が文体から伝わって来る。ヴァン・ゴッホならではの画家としてのイメージを手紙の文面に重ね合わせているに過ぎないにせよ、個人的に納得してしまわざるを得ない。
ヴァン・ゴッホならば画家一筋に情熱を燃え上がらせていたから他の創作活動には本気を出して取り組んで欲しくないけれども人間的に手抜きを受け取るのでは物足りないせいだろう。
手紙は文学なんだけれども作品として十分に仕上げられてない、本業の絵と比べると芸術性が低いに過ぎないだけで、必死に生き抜くほどの掴み取られた真実においては実質的に変わらないと感じる。
Self-portrait by Vincent van Gogh [Public domain], via Wikimedia Commons
ヴァン・ゴッホは貧しくてモデルに料金を払えなかったから代わりに自画像を多く描いたといわれるんだ。
ゴッホの手紙を読んでいると画家として自作絵が売れない悲しみが目立って出て来る。自画像はもちろんのこと、風景画でも他の肖像画でも同じで、何を描いても駄目だった、生涯で売れたのはたった一枚の赤い葡萄畑しかなかったらしい。振り返ると死ぬ間際に少しずつ世の中に受け入れられて来たようだし、彼自身が努力を惜しまずに絵描きに励み続けながら後一歩のところで心から待ち望んだ幸せを取り逃がしてしまったと感じるんだ。
悲劇的だから謎めきそのものではないか。人生に唸らされながら運命を見届けると夢は星に匹敵する。夜空に瞬く光の中には命を生まれてから死ぬまで素晴らしく勇気付けた希望しか知らなくて良いはずだ。
The Red Vineyard by Vincent van Gogh [Public domain], via Wikimedia Commons
生前、ヴァン・ゴッホにとっては有り難いばかりの赤い葡萄畑を購入した人物は画家のアンナ・ボックという知り合いの一人だった。弟のウジェーヌ・ボックが詩人の知り合いで、数年前にヴァン・ゴッホはウジェーヌ・ボックの肖像を描き上げてもいた、彼の姉がやって来て赤い葡萄畑を気に入って四百フラン(十一万円程)を払ったらしい。
一見して赤紫が支配的…

平和の原理/抽象力を有する人間性/論法そのもの

思い付いただけで大革命が起きている。人間性の中心に火山が著しく噴火しているせいだ。しかしマグマ大使の出番はなかった。驚きがキラウエア火山へ向けられていたためか、日本人には富士山よりも身近ではなかったし、または大革命が学校の授業ならば先生も話題を逸らしているに過ぎない。笑った生徒は疎らだったけど、とにかく良く聞いて欲しい。全員、もしも出て行かせるつもりならば多めに触れていたはずの金色の巨人に悔やんでは僕はいない。分析できたと今現在はイメージに満足している、却って。抽象性が手に入った気持ちは確かだ。まるで白玉団子が薄く平らに伸ばされるように世界へ染み透る知識ではないか。平和を呼んでいる感じがする。まだ起きているならば大革命も本当に静かなかぎり、原理的な仕方だったに違いない。かりにも驚きへは慣れて来たという一言で通り過ぎるわけには行かなさそうだから探し求めずにはいられない、明日、死に絶えるとしても。
ディーンの名言からそれは夢だった。まだ午前六時過ぎだ。十五時間以上も皆には残されている。煽っているのではない。秋刀魚の塩焼きならば天界まで取っておきの御馳走ではないか。今更、いきり立っても人生が勿体ないだろう。ゆっくり堪能するためにこそ夢を抱き締めたかった。ビビっているのも世紀末のせいではないし、あるいはバンドの聖飢魔IIならばリーダーのデーモン小暮を筆頭に案外と良い人たちだから恐いのは顔だけにしておくべきだと思う。どうだろう、僕に賛成する君の手は上がるはずにせよ、心のままにもどかしい今時分。認めたから何も要らない。ただ知りたいのはなぜ反対の方角から大砲が打ち鳴らされたのかの一点に尽きる。見詰めるな、見詰めるな。南南西で踊る鳥の名前ならば直ぐにいい当てられるし、カタカケフウチョウだ、ただし調べたかぎり。すると納得できないのは自分の立ち位置でしかなかった。砲弾は手品の一種だったし、飛び出した道化師が騙し打ちを目論むテロリストでもなかったのだから大丈夫だ。どうしても不安ならば太鼓判を押しても良い。大好きなスタイルならば対象は何だって構わないし、さもないと地獄が寄って来て鬱陶しい。無言を決め込むにかぎろう。只、無言が八つ裂きにされるのを考えると僕としては嘘にしておけば益しだったと嘆くだけだ。八つ裂きの嘘からは真実こそ認識されるはずではないか。苦しいのは知識が地獄のお陰になって生涯を…

教育論を本気で真剣に子供たちの未来のために打つにはどうすれば良いのだろう

二十世紀末、浅田彰は日本の教育について学生の学力崩壊を指摘していた。
振り返ってみると十数年後には職場で「ゆとり世代」が上手く働けないみたいな社会問題として文部科学省への教育批判が出てしまったから物凄く的を得ていたし、先んじて観察眼が鋭かったと感心する。
学校などというところは、語学なら語彙(ごい)と文法をきっちり暗記させればいい。臨機応変に会話する力とか、創造的に考える力とか、それは個々人が社会生活の中で身につければいい。果ては学校で「生きる力」を育てるなど、傲慢(ごうまん)だと思います。学校ではむしろ基礎知識の詰め込みを効率的にやって、後は個々人の自由な活動の機会を増やしていくべきでしょう。
浅田彰/学問と知 浅田彰・京都大学経済研究所助教授に聞く via 日本財団図書館
僕が注意すると遊ぶのも大事だと少年に訴える気持ちと殆ど重なっていて「個々人の自由な活動の機会を増やして行くべきでしょう」の認識力は流石だと唸らされる。
学生へ向けて「基礎知識の詰め込み」が由々しく減っている現状を踏まえながら所轄する文部省(文部科学省の前身の教育面)への教育批判が「傲慢」と根底的に導き出される。
国の方針とすれば政治と切り放せないし、民主主義ではその後の「ゆとり世代」も含めて当時の政策に賛同した国民(有権者)に原因があるわけだ。
ただし浅田彰はそこまで含みすらもしない言葉遣いが特徴的だと思う。
一部の国民が悪い、または多数派の有権者に全ての責任があるのは間違いないにせよ、難しいのは選挙に参加しない人をどう捉えるのか。
投票しなくても賛成するつもりならば同列だけれども国への意思表示がなければ批判の文部省の法案を国会で通させた原因にはならないから考えても反対派が弱かったと嘆くに等しいし、理知的には賛成派、または支持する意見を問わなければならないというのが浅田彰のスタンス(詳しくはドゥルーズ主義者の生き方)なんだろう。
人々の痛いところは突いてなくて世の中が悲しくてもそれを生み出したはずの皆は否定しない、民主主義において。人間ではなくて題目の意見こそ浅田彰は取り上げているわけなので、何かが問題視されるならば起因としての本当に末端の何人かが苦渋を飲まされる程度の口振りでしかない。
しかし多少とも訝しいのは国の行政の是非という政治的な文脈を踏まえて考えると認識力が客観的過ぎる。学校にとって「基礎知識の詰め込…

ヴェラスケスのラス・メニーナスの受け留め切れなかった芸術的な衝撃へ

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謎多い絵として真っ先に思い浮かぶヴェラスケスラス・メニーナス(女官たち)は画面全体が不思議な構成に覆われている。描かれた主要な人物たちが部屋の天井から押し潰されたように感じさせるとしたらゴッホの烏のいる麦畑の大変な空の様子と同じくらい悩ましくも美しいかぎりだから作風は天才的だとも過言ではないだろう。
ただし比べてみればヴェラスケスのラス・メニーナスが翻って愛するほどに優しく味わわれてしまうのも構図というスタイルだけに止まりそうなので、絵よりは芸術として概略的に捉えるべき認識が正しいのではないか、考え出すと印象はちょっと薄いようだし、デザインこそ特徴的に個性的に認められる。
分かり易いはずだし、ゴッホ烏のいる麦畑のように全ての対象が《圧縮された詩情》と共に展開された正に自然な構図ではないから理解するために例えばランボーイルミナシオンを参照しながら超言語的に解読するような手間は省かれてしまうらしい、なるほど普遍的には謎多いわけでもなかったといい直しては可笑しいにせよ、ヴェラスケスのラス・メニーナスは人間そのものにとって。
Las Meninas by Diego Velázquez [Public domain], via Wikimedia Commons
ヴェラスケスは十七世紀のスペインの画家で、バロック様式を代表するような絵を描いていた。ヨーロッパに近代科学が芽吹き始めたのと呼応してか――ガリレオが「真理はすべてひとたび発見されれば容易く理解される。問題はそれを発見するという事にある」と諸々の自然現象を実験的な手法で観測した頃だった――人々は理論から事実を初めて捉え直したともいってみたくなる知覚の新しさならば精緻なイメージが溢れているのは確かだろう。反対に精神の外側へも同時に恐ろしく気付いたかも知れないし――レンブラント夜警こそ何もかもぴったりに味わわれるようだ――精緻なイメージだけではなくて厳重なイメージも切り放しては理解できなさそうに思われる、バロック様式については。王室に仕えていたヴェラスケスは宮廷芸術を体現する存在だったけれども当時のスペイン国王のフェリペ四世に厚遇されてよもや他の誰にも自分の肖像は描かせないと心底に惚れ込まれながら悠々自適に暮らしていたらしい。
どこか楽観的で、息苦しさを持たない様子に見受けられる絵なのが自己表現としてはユニークな所以では…