附属池田小事件の宅間守の悲しみの権化という凶悪犯罪の人間性 結城永人 - 2017年5月10日 (水) 凄惨な人殺し、附属池田小事件が起きたのは二千一年の六月八日だった、犯人は宅間守という。大阪教育大学附属池田小学校へ包丁を持って侵入し、八人の児童を殺害した。負傷者も他の児童と教員で十五名に上った。校長と他の教員に取り押さえられると駆け付けた警察官によって現行犯で逮捕された。裁判では死刑を速やかに宣告されたけれども自分でも欲していたらしい。そして判決を受けてから一年ほどで執行されてしまった。大阪拘置所で迎えた最期は四十歳だった。 宅間守/大阪池田小 児童殺傷事件|NHKアーカイブス|NHK どうしてなのか。自分よりも力弱い相手を手当たり次第に攻撃するという仕方が凶悪犯罪を象徴しているようだ。しかも人間の犯罪の全てに当て嵌まるかも知れない。攻撃すると悪いのは世界のどんな方面でも同じだろう。 なぜ可能なのか。附属池田小事件は犯人の宅間守に皆と仲良く過ごす気持ちが全く感じられないゆえに犯罪の反社会性という前提条件を示しているようだ。他人への憎しみがあからさまに出ていて実際にやるか、やらないかという以前の内面の罪そのものを人間性からはっきり味わわされてしまう。 イメージは衝動の塊だろう。世界が悪いと思うと同時に攻め立てるような状態だ。附属池田小事件は無慈悲なまでの出来事として包丁を持った存在が子供たちへ雄叫びを上げながら偶さか通り過ぎて行っただけだと捉えられる。人間ならば言動が単刀直入で最も恐ろしいはずだ。宅間守は彼自身が災いで、丸ごと酷くて凶悪犯罪といえども比類なく悲しみの権化だった。 ずる賢いのは場所を選んでいる。本当に嫌らしいし、世界の犯罪でしかない内面の取り組みの卑劣さを物語っている。附属池田小事件の宅間守には皆と仲良く過ごす気持ちが全く感じられないけど、衝動の塊だからもはや思考は停止しているにも拘わらず、自分よりも力弱い相手を狙いながら予め目論んだ凶悪犯罪だけは確実にやり果そうとしたわけだ。 人間にとって存在は精神なしに不吉だと思い知らされずにいない 死ぬ気になったら何でもできる これは正しくないでー、ウソや みんなもようわかっとるやろ 死ぬ気になったら何をやってもええ これや。これが真理や 死刑にしてくれや! そう思えるようになった時、 君の立場は逆転するでー 宅間守/宅間イズム|宅間守まとめwiki 日常生活が不自由な余りに気持ちを失ったといって良い。裏返して気持ちを失わなければならないほどに不自由な日々を強いられていたのは本当に可哀想だけど、しかしながらダムが決壊して喉元に支えていた言葉が宙を舞うように精神は衝動に追い越されてしまったんだ。 内面は忌まわしい記憶の数々と対決するしかない復讐心で占められていたのではないか。 世界は自分自身だけが勝ち名乗りを上げるままの物事に埋め尽されていたのではないか。 宅間守は捨て去った人生の中で、将来は二度と要らないかぎり、人間としては憂さ晴らしを附属池田小事件に求め出したんだろう。 気持ちとは社会の礎だ。人間関係から主に感情が作り出されて日常生活が不愉快なほどに犯罪も起き易くなるだろう。ところが附属池田小事件の宅間守は普通ではなかった。失われた気持ちから感情も作り出されなかった。衝動の塊とはどんな人間なのか。すなわち復讐心の内面と勝ち名乗りの世界で生きていたようだ。 しょうもない貧乏たれの人生やったら今回のこのパターンの方がよかったんや。あるんは自分への後悔だけや!。なんで、幼稚園にせんかったんやろ?、幼稚園ならもっと殺せたと今でもこんなんことばかり考えてしまうんや、なんで、ダンプにせんかったんやろ、その方が数もいけた!。 宅間守/宅間守発言集|宅間守まとめwiki 悲しみの権化はもう誰にも止められないし、本人にも手が付けられなかったに違いない。誰かを攻撃するという悪い目的をあざとさから少しでも容易く遂げられる方向へ突き進んで行く。さしずめ凶悪犯罪に魂を奪われたような印象を与えるけれども言動を操っている全ては気持ちの失われた存在、感情の作り出されない状態の不自由という生い立ちの不幸からのみ条件付けられた人間性だったとしか受け取れない。 どうして変わったのか。宅間守は幾つもの罪を犯しながら積み重なる不幸に気持ちを押し潰されたと同時に付き纏っていた不自由も免れたのが反対に不味かった。人生を捨て去ったゆえに衝動の塊として恐ろしくも附属池田小事件を起こしたと考えられる。 不自由な気持ちのままでは本人は悩ましくて辛かったかも知れないけれども悲しみの権化よりは社会的にまだ益しだった 大変な惨劇を企ててしまったのはだから積み重なる不幸のせいで、つまり生まれてから凶悪犯罪の三十七歳まで人付き合いに恵まれなかった。誰にも愛されない絶望感によって自分自身こそ人々へ邪険に振る舞いながら幸せへ向けてはもはやどうにもならないという生活上の悪循環を招いてしまった結果ではないか。落ちるところまで落ちたわけでもなく、かねて心から飛び上がる経験のない後ろ向きなだけの毎日が真実では余りに虚し過ぎると同情を禁じ得ない。 出会いに悪い人か、または自分が良い人だと思っても後から違ったみたいな悲しみしか認められなくて荒むばかりの心だから人々への信頼感も分からなかったのではないか。 幼少期の親から壮年期の被害者までの道程が完全に腐り切っていて正面に歩けるという人生ではなかった。すると死を契機に凶悪犯罪を思い付いた時点では大喜びしていたはずだろう。危ないのにそれこそ抑え切れなかったんだと思う。前向きとか希望なんて味わう代わりに何もかも打ち壊しにする方向へ本当の自分を誤って見出ださざる得なかった。 凶悪犯罪でありがちな心理かも知れないけれども気持ちを失って存在が反社会性を志向するという境遇は珍しくも決定的な事例だろう。 宅間守の最後の言葉は妻への「ありがとう」だったと伝えられている 死刑が確定した後に大阪拘置所で獄中結婚したけれども感情が新しく芽生えているようなので、もう一度、気持ちも手に入ったのではないか、捨て去られた人生も勿体なかったと悔やまれるんだ。 人間性が明るさを取り戻している今此処は更正が期待される。生活の立て直しが可能だったのではないか。 終局、附属池田小事件に反省してないし、被害者へは謝罪しなかったといわれるにせよ、ひっとすると内心では自分自身を悔い改めてなかったとはかぎらない。人間は無言が誠実な場合もあり得るし、口先で償われる罪ばかりでは情けないわけなので、妻への感謝が本当の自分とは何かを正しく知っていて心から求める人々との喜びのためには恥ずかしくて敢えて口を閉ざした胸のうちならばきっと格好良かったと想像したくなるよ。 おまえらに言われたない、お前らの人生よりワシの方が勝ちや 宅間守/宅間守発言集|宅間守まとめwiki 附属池田小事件の宅間守は本当の自分に行き過ぎた結論を下していたし、現代の情報化社会に特有の呻きが人々を引き寄せるとすれば人それぞれの人生は遠くから見定めるべきだといっておきたい。好き嫌いによって性急に本当の自分を決め込む必要はないのではないか。身の丈に合わない観念から存在が希薄になるほどに人生への不満は増えて来てしまう。なぜ思うように生きられないか。いつかどこかで自分に相応しくない自分を容認していたせいだろう。 本当の自分は簡単には見付からないというか、見付かるのは素晴らしい出会いのためだから実際には奇跡だし、僕がいっている真実を誰も聞かないかぎり、サイトのアクセスが少ないせいだけど、世の中で分からずに生涯の幕を閉じて行く人は跡を絶たないはずだ。 皆には存在から人生を捉えて欲しい。他人と比べるな、情報も鵜呑みにするな、できないから人間は日常生活の悲しみを余計に酷く受け取る。とはいえ、存在から人生を捉えれば精神は身の丈に合った観念しか認め得ないから大丈夫だ。 些細な日常で死刑囚の宅間守と附属池田小事件の被害者と病んだ社会は憐れまざるを得ない。 参考サイト【現場から、】平成の記憶、池田小“子どもを守るため”校長は 181212 コメント 新しい投稿 前の投稿
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