中上健次のクサレオマンコを巡って 結城永人 -2025年1月20日 僕の気に入りの小説家に中上健次がいる。代表作の長編の枯木灘と短編集の十九歳の地図しか読んでないけれども何れも飛んでもなく鮮烈な印象を残す場面があって内容は全くといって良いくらい覚えてないにも拘わらず、凄い小説家だと認める。挙げると枯木灘はシャベルで土を掘ること、十九歳の地図は誰かに電話をかけること、ありふれた人間の営みであって些細な日常としか呼べないことが世界のどんな優れたことよりもインパクトを持っている。 偶々、僕が注目するよりも本人が狙ってやっている感じがするから気に入るんだ。生きることそのものに焦点を当てて書いているのではないか。そうした真実が素晴らしいと教えてくれるのは万葉集以来の日本文学の歴史的な特徴だろうし、それを結実したのは松尾芭蕉のわびさびの極意に匹敵する俳句と感じるけど、しかし中上健次が面白いのは意味付けを越えてしまっているところなんだ。素晴らしぃも何もない。些細な日常があること、ありふれた人間の営みに触れることがそれ自体で光り輝くばかりの魅力的な世界みちいに受け取れる。 *日本文学における生の特徴 閉じる 日本文学における生の特徴 日本文学における生は、単なる生物としての存在を超え、深遠で多層的な意味を含んでいます。それは、自然との共生、生死観、人間関係、そして歴史や社会との関わりの中で、実に様々な形で表現されてきました。 自然との共生と生 万物に宿る生命観:日本文学では、人間だけでなく、動植物、自然現象に至るまで、全てに生命が宿ると考えられてきました。この万物一体の思想は、自然との共生を促し、生をより広範な概念として捉えることを可能にしました。 四季折々の描写:自然の移ろいを繊細に描写することで、人間の生を自然の一部として捉える視点を提示しています。春の芽生え、夏の生命力、秋の成熟、冬の静寂など、四季折々の描写は、人間の心の動きと深く結びついています。 生死観と生 輪廻転生:死は終わりではなく、新たな生の始まりであるとする輪廻転生の思想は、日本人の生死観に深く根ざしています。この思想は、生を有限なものと捉えつつも、その超越性を提示しています。 死生観の多様性:仏教、神道、そして民俗信仰など、様々な宗教や思想が混在する日本においては、生死観も多様性に富んでいます。この多様性は、日本文学に豊かな表現を生み出しています。 人間関係と生 絆:家族、友人、恋人など、人間関係は生を豊かにする重要な要素です。日本文学では、これらの絆が深く描かれ、人間の心の奥底にある温かさを表現しています。 集団意識:日本人は、個人よりも集団を重視する傾向があり、この集団意識は生のあり方にも大きな影響を与えてきました。 敬老の精神:長寿を祝い、老いを尊ぶ文化は、日本人の生に対する肯定的な姿勢を示しています。 歴史と社会との関わりと生 歴史意識:日本文学は、歴史を題材とした作品が多く、歴史と個人の生との関わりを深く探求しています。 社会変動:社会の変化は、人々の生のあり方にも大きな影響を与えます。日本文学では、様々な時代の社会変動が描かれ、人々の生き様を多角的に考察しています。 日本文学における生の特徴を捉える上でのポイント 自然との共生:日本文学における生は、自然との共生の中で捉えられることが多い。 多様性:日本人の生死観や人間関係は多様であり、その多様性が文学に豊かな表現を生み出す。 歴史との関わり:歴史意識は、日本文学における生の表現に深く関わっている。 変化と連続性:日本文学における生は、変化と連続性の両側面を持ち合わせている。 まとめ 日本文学における生は、単なる生物学的な概念にとどまらず、自然、歴史、社会、そして人間関係など、多岐にわたる要素と深く結びついています。これらの要素を総合的に捉えることで、日本文学における生の豊かさをより深く理解することができます。 僕が忘れられないシャベルで土を掘る場面でも誰かに電話をかける場面でももはや感動して言葉を失うような表現になっているからこそ正しく忘れられないものになるに違いないと考える。 中上健次の小説で、もう一つ心に引っかかるものがあって場面ではなくて言葉なんだけれどもクサレオマンコが聞いたときからこれは、一旦、何なんだと驚かされ続けている。女性器の蔑称だということは分かる。しかしながらフランツ・カフカの「オドラデク」に匹敵するような表現になっていて無意味さによる言語批判に通じるような趣きも受け取る。 僕は中上健次のクサレオマンコ小説の黄金比の朝(岬所収)を読んでなくて批評家の柄谷行人の今ここへ――中上健次というエッセイ(批評とポストモダン所収)に引用されていて知ったので、それを手かがりとしてクサレオマンコとは何かを考えてみたい。 中上健次のクサレオマンコの自己肯定感 柄谷行人が今ここへ――中上健次で引用した中上健次のクサレオマンコの場面は次のようなものだ。 兄はいっぱしの革命家きどりで便せんを何枚も何枚も使って、延々と暴力のこと、国家のこと、大衆のことを図入りで書いてきたのだった。革命だって? そんなものはおもちゃの船だ。わかりきったことじゃないか。何度も革命するって? 要するにそんなしんどいことやらなくっちゃいかんのなら、そのままほったらかしにしておけば良いじゃないか。大衆はうつくしい、すばらしいと兄が名指しで言ったおれおれのヨイヨイのクサレオマンコが、「なんや大きな顔しくさって」と街の最近大手にのしあがった建築業者をけなし、「福ちゃん、お母ちゃんを助けて、はよエラなって、みかえしたって」というその心情が権力を支え、生みだしていることをおまえは知らないだろう。その心情を根底的に革命できるというのか。そんなことわからないおまえなんかに革命ができるはずがない。よしんば成功したとしても、このクサレオマンコの子供のおれが打ち倒してやる。 中上健次の黄金比の朝 主人公の福善は大学受験の浪人生で、兄は右翼の活動家で、二人は異母兄弟だった。福善の母は売春婦で、不快に感じていた。なので彼女を「クサレオマンコ」と呼んで馬鹿にしていた兄に対抗することによって自分も実母なのにそう思わざるを得なかった弱みを免れることができたというのが黄金比の朝の主題なんだろう。革命とは何か。兄との意見の相違を通じて福善の「クサレオマンコ」の印象が良いものに変わったか少なくとも悪いだけの言葉ではなくなったと思う。 一つの言葉が良いか悪いかというと人それぞれの意味があるし、「このクサレオマンコの子供のおれ」という気持ち――他人から馬鹿といわれて自分は馬鹿で結構といい返すみたいな感じ――が福善にとって良い(必要な世界)といい切れるところまで書かれないにせよ、丸ごと、引き受けるところに自己肯定感が芽生えるのは確かだから今を生きるという点では良いと呼べる。 自分がクサレオマンコの母から生まれた卑屈さを精神的に取り去った瞬間の神々しさが味わえる。だからこそクサレオマンコが唯一無二の言葉として心に深く刻まれる結果になると考えられる。 柄谷行人はクサレオマンコよりもむしろ革命の捉え方に注目している 彼が反撥しているのは、理念的に想定された将来の無階級社会から現在をみることで、《今ここ》を奪ってしまう左翼の兄だけではない。「はよエラなって、みかえしたって」という、先送りの時間性によって「おれ」を〈今ここ〉にしばりつけてしまう母に対してもだ。だが、彼は苛立ちつづけるほかない。そのような《物語》から脱出する道はないから、というだけではない。それらはたんなる思考のパターンではなく、〈今ここ〉(同一性)における矛盾や差別といった過酷な現実が要求するものだからである。この現実を無視した〈今ここ〉の肯定は、ただの保守的イデオロギーにすぎない。《今ここ》(差異)の肯定――それは、『十九歳の地図』や『蛇淫』のように犯罪や殺人としてあらわれるほかないような性質の問題だ。 柄谷行人の今ここへ――中上健次 主人公の「このクサレオマンコの子供のおれ」は表面的に見れば居直り――他人から馬鹿といわれてあぁそうですかといい放つ不貞腐れ――でしかないかも知れない。または熱り立って兄に歯向かうことしか頭になければクサレオマンコは悪いという意見(売春婦の母親は駄目なのにそこから生まれたことによる自己否定感)については共謀をさらに強めているに過ぎない。 柄谷行人は「物語」や「たんなる思考パターン」では捉えられない「今ここ」を重視するけれども黄金比の朝では福善と兄の革命の捉え方の「差異」で上手く示されているといえる。 さもなけれは「このクサレオマンコの子供のおれ」の驚きはないし、物語ではない小説ならではの凄みも凡庸な思考法ではない真率な自己肯定感もないまま、生きることそのものの神々しさも得られなかったはずだ。 中上健次のクサレオマンコの社会批判力 柄谷行人の「矛盾や差別」はクサレオマンコに集約されるし、そうした悲劇を御座形にしては「ただの保守的イデオロギーにすぎない」わけなので、クサレオマンコを理解できるかどうかは自己批判力が試されることだと思う。 普通の意味で、女性器の蔑称として女性への差別用語だから公に使われる現状ではない。しかしそれだけで問題は解決するわけではない。むしろ資本主義が進むほどに欲望が開放されるから減らない。原理的に無理と考えられる。表向きは平等の法整備が図られるし、人々は理知的に向上したらしく、如何にも大丈夫そうだとしてもそうではないイカレチンポの実態とかいつまで経っても変わらず、見付かるんだ。 全員ではないにせよ、クサレオマンコとして生きざるを得ない女性がいたり、そのように扱う男性がいる。しかし彼らと生きる人を含めれば差別に関与する人が全員であることは間違いない。 本当に大切なのは中上健次のクサレオマンコの社会批判力を知ることだ。 さもないと差別を逃れることはできないだろう。資本主義が終われば状況は変わるかも知れないけれども欲望を解放しながら差別を止めようとすることは矛盾していて極めて難しいことだ。だから気に入らないものを正しく受け取ることが欠かせない。 中上健次のクサレオマンコは本当に素晴らしくないから素晴らしいのではない本当に素晴らしい女性を教えてくれている。 回りくどいいい方になるけれども差別を越える見方は常にそのようなものでしかあり得ないんだ。つまり「よしんば成功したとしても、このクサレオマンコの子供のおれが打ち倒してやる」が真実の人類の声であるかぎり、差別を止めたがる言動の中にもう一つの差別が同じ(偽善的な差別)か別の方向(逆差別/反差別/無差別)に含まれていることを考えなければ人や世の中の内実はさらに悪化し兼ねない。 女性ならばクサレオマンコでもメスブタでもクソブスでも何でも同じで、当事者でも第三者でもそれ自体を生きる喜びとしてどれだけ深く知るか、心から見事に経験できるかで変わる。 念のために繰り返すけれども「よしんば成功したとしても、このクサレオマンコの子供のおれが打ち倒してやる」が真実の人類の声であるかぎり、要するに欲望を開放する資本主義にいる間は誰でも自分の言動が独り善がりの差別意識を持たないかどうかを注意しないわけには行かなくるんだ。 あらゆる差別は差別として共通するから同じ見方を取ることが肝要だ 巷の討論で人間は好き嫌いがあるから差別は決してなくならないという意見を良く聞くけど、しかしそれは思考の問題なんだ。嫌いな人を攻撃するのはなぜか。実際に誰も何も攻撃しなければ自分一人の空想であって本物の差別ではない。本物の差別は目の前の邪魔者(満たされない欲望の苦しみ)を押し退けるように為される。好き嫌いではなく、思考でもなく、まるで中毒者の禁断症状のように衝迫的な言動に他ならない。 好きだからやる差別(首刈りなどの変態)もあるし、嫌いだからやらない差別(山籠りなどの仙人)もある。 差別が決してなくならないのは資本主義が欲望を開放して成り立っているせいだ。好き嫌いも欲望の一種だからそこから来るといっても間違いではないとしても認識としては不十分だろう、だから止めるために必要なのは社会批判力が一番なんだ。自分だけの問題にしてしまうと、折角、考えても空想でしかないから根底的ではない。どこかで他人に強いられると無闇にやってしまうかも知れない。 考えるべきなのは社会であって黄金比の朝の兄という差別的な相手との人間関係を批判できるかどうかにかかっている。 中上健次のクサレオマンコは生きること自体の神々しさに満ち溢れている。差別されるならば可笑しいかぎりだけど、ただし可笑しいから引き付けられて良いはずではない。主人公はクサレオマンコを守るために誰かを攻撃しなかっただろうか。振り翳した正義があったら本当に素晴らしい気持ちは貶められてしまう。クサレオマンコが心に深く刻まれるのも酷いはずが偉いからではあり得ない。 関連ページ若林志穂が明かした薬物による監禁・暴力・強姦・脅迫のNが長渕剛ならば謝罪しないのは詰まらない柄谷行人の交換様式の理論と人類の凄まじく輝かしい未来トワークダンスと女性の物凄く可愛い尻武田邦彦の暴利を貪らない経営という道徳心の経済学が格好良い紫陽花と大伴家持が詠んだ恋人を思う無邪気な心 コメント 新しい投稿 前の投稿
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