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明るい笑い声もオドラデクを思わせるうちはまだ安定しない精神だ

姪が入院中の精神科の病院から家に二回目の外泊に来た。前回よりも随分と元気で安心した。疲れが減った。病院から外へ出ることが殆どなくて家に来るのも十年振りで、前回は相当に疲れていたらしい。病院に戻ってから一週間くらい寝込んでいたと聞かされた。大変な疲れによってまるで倒れるように動けなくなったに違いない。


二回目の来訪では微妙な変化でしかないけれども明るい笑い声に真実味が増して生きる喜びの兆候が膨らんだのが非常に嬉しい。全体的な気分としてはどうもカフカの「オドラデク」を思わされて小説的には面白いけれども人生的には厳しいと悩まされざるを得ない。


それは、屋根裏部屋や建物の階段部や廊下や玄関などに転々としてとどまる。ときどき、何カ月ものあいだ姿が見られない。きっと別な家々へ移っていったためなのだ。けれども、やがてかならず私たちの家へもどってくる。ときどき、私たちがドアから出るとき、これが下の階段の手すりにもたれかかっていると、私たちはこれに言葉をかけたくなる。むろん、むずかしい問いなどするのではなくて、私たちはそれを――なにせそれがあんまり小さいのでそうする気になるのだが――子供のように扱うのだ。
「君の名前はなんていうの?」と、私たちはたずねる。
「オドラデクだよ」と、それはいう。
「どこに泊っているんだい?」
「泊まるところなんかきまっていないや」と、それはいって、笑う。
ところが、その笑いは、肺なしで出せるような笑いなのだ。たとえば、落葉のかさかさいう音のように響くのだ。これで対話はたいてい終ってしまう。それに、こうした返事でさえ、いつでももらえるときまってはいない。しばしばそれは長いこと黙りこくっている。木のようなだんまりだが、どうもそれ自体が木でできているらしい。



姪の笑い声に「肺なしで出せるような」感じが付き纏っていて生きる喜びが明るく伝わり切らない。


孤独を愛するカフカと似た思いを抱いているのではないか、逃れても逃れても逃れ得ない人生の寂寥か何かに心が大きく包み込まれているような印象を与える。


年齢のせいだとも思う。児童期のような無邪気さはもう失われて明るい笑い声が生きる喜びと完全に結び付くはずもないというのは人間にとって決して珍しくないし、むしろ一般的な傾向として認められる。二十歳を過ぎれば誰にでも「肺なしで出せるような」感じは現れて来るだろう。


ただしメインのイメージではない。明るい笑い声ならば生きる喜びの方面を強く指示するんだ。殆どの人たちに普通に受け取られるのは子供時代の無邪気さを仄めかす素晴らしい夢の気持ちで、今此処の有り難みそのものといって良い。


ところが姪は入れ替わっていて「肺なしで出せるような」感じがメインのイメージになっている、希望を指し示すはずの明るい笑い声においてさえも。


精神科で統合失調症からさらに治療抵抗性統合失調症と診断された生活が現在でも響いていると考えるしかない。


病歴の経験として身に付いているせいで、自分自身が又同じように引き返しながら精神を病むのではないかと一つの忌まわしさから希望が速やかに見い出せなさそうだ。


とはいえ、気付いてみれば、大分、変わったし、随分と元気になっているのが心から微笑ましい。


姪は生きる喜びに満ち溢れた世界とは何かを改めて知らなくてはならない。かつての忌まわしさを凌駕する精神を知らないかぎり、実生活でいつでも気が滅入ると共に精神も病み易くなる。天使として生きるためならば理想郷が確実に求められるだろう。


ちょっとした悲しみにも耐えられないのでは死ぬしかないわけなので、現世は天国ではないから無限知性の神でなければ何もかも上手く行くという世界ではない、人それぞれに様々な仕方で正気を保っているけれども姪にとっては生きる喜びに満ち溢れた世界とすると素晴らしい夢が何よりも必要だと感じる。


エスクラ湖(ラグーン)

僕にとっては命の尊さだし、自作詩ではラグーンに示している。永遠の詩だから本質的な認識として誰にでも当て嵌まるというか、被造物の全ての真実なんだ。思考するのは超難解だけれども命の尊さが正気を保つためには最も役立つんだ。


映画監督の北野武(お笑いのビートたけし)がかつてテレビで面白いことをいっていて動物は人間よりも本当は進化しているのではないかと聞いた。命の尊さに基づいて生きている印象を大きく与えるためだ。無益な殺し合いはしないし、不必要に相手を貶めない生活を営んでいるのは本能に過ぎない以上に精神的に成熟しているように見える。人々に危ぶまれる地球環境を踏まえれば正しく明らかだし、自分たちの生存権を脅かすような生き方の方向性は何一つ持ってないに等しい。賢いとしかもはや呼べないわけだ。


命の尊さが生きる喜びを支える概念に他ならないかぎり、素晴らしい夢は平和を含意しているに違いないだろう。


姪は平和を味わうほどに気持ちが落ち着くと想像される。最終的に可哀想な世の中に涙を落とす日が来れば正真正銘の天使だ。どんな存在も生死を免れない。被造物において可哀想な世の中こそ天地に渡る必定ではないか。僕のそばにいたせいで、永遠の楽しさから平和以外に生きたくないと悟ったのかも知れない。だから自分らしさとしてちゃんと覚えれば精神は著しく安定するし、後から病む恐れもなくなると期待して止まない。


もちろん、もしオドラデクという名前のものがほんとうにあるのでなければ、だれだってそんな語源の研究にたずさわりはしないだろう。まず見たところ、それは平たい星形の糸巻のように見えるし、また実際に糸で巻かれているようにも見える。糸といっても、ひどくばらばらな品質と色とをもった切れ切れの古いより糸を結びつけ、しかしやはりもつれ合わしてあるだけのものではあるのだろう。だが、それは単に糸巻であるだけではなく、星形のまんなかから小さな一本の棒が突き出していて、それからこの小さな棒と直角にもう一本の棒がついている。このあとのほうの棒を一方の足、星形のとがりの一つをもう一方の足にして、全体はまるで両足で立つように直立することができる。


フランツ・カフカの家長の心配(原田義人訳)

人生は平和とはかぎらない。だから重要なのは素晴らしい夢だ。カフカの「オドラデク」はどうにもならない気持ちの全てを解き明かしている。可哀想な世の中への透き通った涙の影に見出される天使を心に仕舞い込んでおこう、喜ばしく生き延びるために。


今はまだ「このあとのほうの棒を一方の足、星形のとがりの一つをもう一方の足にして」ギリギリ保っているのがやっとの正気、人間的にいうと存在感でしかないとしても素晴らしい夢と共に人生は花開く。


カフカも家長の心配からあっさり死にはしなかった。小説はフィクションだ。なぜ大丈夫なのか。口には出さないし、如何にも苦しい様子だけれども本音は素晴らしい夢を抱えていたに違いない。


逸話によればおよそカフカが自作小説を読んで聞かせると周りの皆は忽ち笑い転げていたらしい。


あり得ないせいだろう、作品と作家の食い違いが。極めて孤独な小説を極めて元気に受け取らされるとはなぜか。カフカの読み聞かせの逸話には人々が素晴らしい夢を手に入れるためのヒントが隠されているようだ。


本当にいいたいことは胸の中に大切に仕舞われているけれども一つの宝物と他に代え難く想像するほどに優しさが降って来て心を和まされずにいないところで鳴り響くように告げられた平和の訪れを涙ながらに信じるかぎりの現実性から未来も新しく明るく感じ取られるならば思いは望み通りの人生の力強いばかりの趣きだ。

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