どうもブログが非常に面白い。根本的にはTumblrが好きなだけかも知れないし、記事を望ましく公開するために選んでいたはずが逆に執筆の調子を予想以上に上げられてないとも否定できない。
考えると広告なしのリキッドデザイン(一列表示)で、さらに記事以外も非常に簡略化されているブログサービスは少ないと思う。ミニマルデザイン(最小限表示)と呼ばれるように余計なものが全て削ぎ落とされているわけだ。当初、何て良いんだと好ましく見惚れていた。Google+(サービス終了)がTumblrとそっくりになってからだ、正しく落ち着かなくなって来たのは。
一応、ヘッダーとアバターの画像を消してみたり、どうだろうと考えている。文字だけだと今度は自分の他のホームページとそっくりになってしまう(素材サイトの背景には画像があるけど)。Tumblrをホームページとして扱うか、SNSとして扱うかを決め兼ねているのか。どっちでも構わないし、どっちでも構わないところにTumblrの面白さがあるとは思う。ロゴを見てもブログだから別に決めなくても良いんだみたく表現されてそうで、興味深くも受け取る。
かつて寿司の穴子を食べないでいると「鰻と穴子は兄弟なんだ」と父にいわれたものだった。僕は鰻は食べるけど、穴子は食べない。父はそれを知っていて寿司の穴子も鰻の蒲焼きと同じように食べることを促していた。加えて分け隔てされるのが可笑しかった、両方とも似た者同士なのに。詳しく知らなくて改めて調べてみたらどちらも生物学的にウナギ目なんだけれども穴子はアナゴ科に、鰻はウナギ科に含まれているんだ(「うなぎ」と「あなご」の違い)。
TumblrもサイトとしてはホームページかSNSかは鰻か穴子かに近い
四つの対応関係は曖昧に感じるにせよ、いうと平等だから、僕としてはホームページを鰻と気分的に捉えてTumblrはホームページとそっくりにヘッダーの画像を消したままにしておくのが良いかも知れないというふうに導かれても来るんだ。
ヘッダーが文字だけだと直ぐに記事が並んでいるので、自分の他のホームページとは味わいが異なるし、もっとずっと想像性を刺激するような形になっている。煩いかどうかも気がかりなので、敢えてサイト広告を間に挟むのも手だと考えられた。それが如何にも煩くてブログそのものこそ静まり返ったような印象を与えられれば嬉しいだろう。金銭的にも目立てばだろうけど、まだ誰も来ない日がそこそこあったり、全然、少しも軌道に乗るどころか掴んでさえもいなかったりするような運営に終始しているという感じなんだけど、とにかくアクセスアップには時間がかかるわけだし、開設して一年も経ってなくては仕様がない部分も大きそうではないか。
只、ズタボロの気持ちで死ぬとしても後悔しないためには全力を尽くしてというか、ブログでも何でも自己表現をしっかりやって行くことがやはり重要だ。
哲学的に認めれば命は命で、たとえ適当でも半端でも生涯は全うされずにいないんだ
この世の風来坊として遊び呆ける心の余裕は色々な苦しみを病気に例えれば効き目を伴った治療薬かも知れないので、必ずしも遠ざけるべきではないだろう。
ともあれ、はぐれメタル(ドラゴンクエスト/ゲーム)が僕なのか。僕は作家・詩人を天職として生きて行かなくてはならないと厳しく断らざるを得ない、自分らしさを踏まえると。親しく接して貰える皆がいることはとても有り難いにせよ、線引きしなければ「味噌も糞も一緒だ」と父も良く示していたように幾つかの真実が手に付かなくなってしまう。皆の中の僕と僕の中の自分には違う面もあるんだ。どっちが正しいと一概には判断されないだろう、人としてはかりに同じでも。無理に合わせるのが悲しいから線引きしながら常日頃とチェックを怠りたくはない、これしか確かにはいえない。
吸う空気が共有されないように人それぞれの温度差もまたそうされないゆえに魂で結ばれた恋人たちでもないかぎりか、親近感の段階に応じてズレも増えるし、延いては仲睦まじいからこそ仮面舞踏会に誘われながら部屋に一人きりでたこ焼きなど突っついていたとしても奇妙には思われない。
自分の道は自分の力によって切り開け。されど人々の抱える風見鶏を払い除けてはならない。厚意を踏み蹂られて嫌な気分に晒されるのは皆一緒だ。喜ばしく手を繋ぎながら地球へ戻る――いつの間に飛び出された宇宙、象徴化するに神の懐なのだろうか――ために必要なのは倫理観で、互いに互いを尊重し合うこと、いい換えれば個々の存在に問われるべき尊厳性が守られるか否かに重点が置かれて結構なはずだろう。
かねて代議士へ立候補するつもりはないけれども素晴らしい国作りを目指す政治家としてならば腹の底から湧き出して止まないような蛆虫の一匹たりとも不幸にしてはならないわけで、独り善がりは何としても狩り出しておきたくなるんだ。
という勢いもありつつブログにDisqusのコメント欄を新たに設置し得たのかも知れない
十数日前、トップページには表示されないけど、独り善がりの何ちゃらは別にしても取り敢えずは管理人と訪問者との公開交流によってコンテンツが一層と豊かに備給されることとなればそれに越したことはないだろうと思っている。生産的にせよ、中々、難しいだろう。
これは何ですか。これはこうですよ。分かりました。僕も嬉しいです。これはこういうふうにも捉えられますね。そうでしょうか。こういうわけでこれはああなるはずなんです。なるほど、ああとはな。楽しいです。僕もですよ。
経験上、あり得ないけど、雑談すらが皆無なかぎり、しかしブログにとって理想的な形だからコメント欄は必ずしも外さなくて良いのではないかしら。尤も記事が作品と考えれば全く要りもしないんだ。訪問者の邪魔になり兼ねないし、昔から最近まで一人でやって来ていた。悩みどころながら改めてちょっと追い求めてみたくなった。
個性が出てしまう。完璧主義者というか、どうしても僕は自分よりも物事の完成度を高めようとする気持ちが強いんだ。逆にいえば自分を出し切らないわけで、訪問者への人間的な衝撃(アピール)が少ないとしたら考え直さなくてはなるまい。すると自分に近いようなテーマを取り上げながらブログや創作活動を行うにかぎる。出し易い、自分を。分かって貰える。期待値が上がるという。
終局、期待値が下がるから人生も不憫に味わわれてしまうのか
世の中に自分は受け入れられないんだ。いつも心を閉ざすほどに妖怪というけど、妖怪しか見えなくて生活していて何があるのかと僕には胸に果物ナイフを突き付けるような歌しか思い付かない。比喩系の「ような」なので、実際には花林糖だけど、花林糖を齧るくらい命が軽く失われる瞬間があって甚だ困る。作詩できなくなる。
ただし少年ならば永遠の詩人よりも切迫感に苛まれながら果物ナイフで血を流す場合もあり得るし、加えて成人式はたとえ無事に過ごされても妖怪に囲まれれば二十八時間後にはきっかり頭が耐え難いほどに厳しくなる場合もあり得ると考えられてならない。
だから本当に期待値は上げるべきだ、人生を有意義に送るためには。精確には自分を受け入れてくれる世の中を大事にするしかない。先祖だろう、象徴的にいえば。僕にかぎらず、花林糖へとやって来るには周りの助けがなくては無理ではなかったのかしら。
やおら周りの助けを自力で掻き集めるようにしてメンタルメンテナンス(内面整備)を怠らないでいればきっと大丈夫と訴えたい、天使に。永遠の詩人が陰惨な日記の数々を打ち破りながら妖怪に食われもしないで、事実、今此処に立ち尽くしているのは神に祈りを捧げるために他ならない。
もしも天使に訴えられれば神との橋渡し役の責務を美しくも華麗に遂げてくれることだろう。
有意義な人生を送るというのはそれ自体では中身がなくて空っぽに感じられる。なぜなら期待値が高くても相応しい結果が得られるとは保証されないからだ。
考えると憔悴する。何が楽しくて空に雲は浮かんでいるのか。雨を降らして僕を濡れ鼠に変えるためと突拍子もないような被害妄想に襲われる。そして外には出られず、人と会うことも億劫になり、ついには自分で自分が居たたまれないみたいな神経衰弱に世界が引き裂かれて行く。弱って声も衰えながら食も細く、目の前の極めて貧しい仲間たちからすれば《有り難い水》にすらも手が届かない始末ではこの先はどうなって行くのだろう。
真夜中は降る雪の怪しまれては健気なまでに溶けても溶けても心を癒そうとする優しい計らいが忍ばれてならない。こうした努力こそ無駄にするべきではなかったのではないか。皆が僕のために頑張っている以上、以下は僕も皆のために頑張るのだった。
思い起こせば結果が全てでないはずだから自分への期待値を上げながら他には何一つ求めないくらいで、些細な日常にぴったりの発想とも速やかに受け留められる気持ちがする。
ブログが非常に面白いなんてやはり些細な日常が詰まらなくてはどうにも不可能なので、人生が有意義に送られるという存在の肝としてギュッと掴んでやって行けたら良いわけなんだろう。
些細な日常へのブログは今を生きるのと等しく運営されなければならない。ならば居場所と呼ぶにもおよそ事欠かないだろう。僕にとっては如何にも快い。
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