知り合いで、この人が作家になればとかサイトを運営すればなんて思わされることがある。人柄に優れているので、さぞかし良い感じでやれるのではないだろうか。有望株に見えるだけにやらないでいるのは非常に勿体ない。
僕が声をかければ振り向いてくれるのかしら。貴方へそうせずに一人で重々しく溜め息を吐くような場面などではなかったとしたら笑うしかなさそうだ。
才能は出会いに左右される
世の中に何等かの才能が埋もれていて、そのまま、終わる。とするや凄く考えてしまう。埋もれるために才能があるなんて死ぬために生まれて来たみたいで、とても悲しい。
能力や才能はそれを認め活用してくれる能力や才能がなければ成り立たない。
人は様々な可能性を持って生まれて来た。しかし生い立ちによって才能も変わるんだ。一言では出会いだ。出会いこそ才能を印付ける。
ところが誰かによって才能は必ずしも芽生えない。本人が嫌がってやらない。別の誰かによれば同じことでも嫌がらずにやるかも知れないし、正しく一筋縄では括れないと思う。
本人の自覚が最も重要だろう
だから気付く才能が第一条件だ。本人が気付かないと周りが何を薦めようと寄せ付けない。しかし本人の自覚が最も重要なのはそれだけではないと感じる。意欲によってこそ才能は花開く。自分にはこれが向いているんだという面とこれをやり続けるんだという面の二つの気付きがなくては将来性までは見えて来ない。
社会の編み目に組み込まれながら人は存在している。僕には何でも才能だと考えられてならない。日常の些細な出来事の一つ一つが個人的な気付き、または趣味嗜好や好き嫌いといっても良い、そうした能力から選り選られて実行されているわけなんだ。
生活上、歯磨きや読書など訓練というか、取り立てて奮起しなくても直ぐにできてしまう物事にも本当は能力や才能が深く関わっている。重態、忙殺、監禁、死滅、このような不幸を避けられるかどうかも一定の自然的な要因(どうにもならなさ)を除外すれば大いにあり得るだろう。
健康一つ取っても気付いてやるか、やらないかで結果は同じとはかぎらない。只、訝しいのは才能があって間違える場合なんだ。散々、健康を考えておいて病気に倒れしまうとしたら能力や才能もなかったことになるのかどうか。頑張っても無駄では最初から求めても仕様がない。しかし間違えて結果的に失敗したところから再起したい、もう一度、頑張り直してみたいと気付くのも能力や才能といわざるを得ない。
または反骨精神ともいわれる
この種の気付きは実際には人には、中々、ちょっと得難いかも知れない。落ち込みながら何もかも嫌になってしまって紐で首を括って人生を投げ出しても不思議ではない。ガッツが必要だ、なるべく早く復帰するためにも。どうすればというとやはり失敗しても取り返せば良いみたいに自分に自信を持たせる。自分に自信がないとどうせ駄目だとなる。ガッツの源は自信だから自信の喪失こそ諦めへの通用門だろう。
才能は花開く。出会いから芽生えて人生的には自分らしさへ直結するはずだ。幸せを感じる。花開くまでに至れば充実した時間を過ごせるに違いない。空間も満足する。生活の全てが才能と考えるといつでもどこでも楽しさを味わえる。ルンルン気分という。イメージとしては花畑に暮らしているわけで、尊ばしいし、自分らしい生き方を大切にして行かなくてはならないと明らかに分かる。神にも祈る想いで、僕なんかずっとずっと終わらないで欲しいと願ってしまう。
能力と才能の違いについて
能力はできるできないで、文字通りの意味だ。才能はやるかやらないかで、判断力を含意している。人はできるからやるとはかぎらないし、できなくてもやるかも知れない。だから才能があるといったらやらなくては嘘なんだ。やらないと才能はない。人生で難しいのもできないのにやっている。上手く行けば良いけど、うだつが上がらないまま、あの人は失敗する才能しかないみたく見えて来ると可哀想になる。とはいえ、本人としては一生懸命なので、端からとやかく注文を付けるべきかどうかは人それぞれの気持ちに委ねられるだろう。反対に考えれば瞬く間に成功する人もいるし、世の中には色んな才能の花が咲いている。どれも綺麗だと認められる。
ところで羽搏くという局面も才能にはある。才能を羽搏かせる。花が急に鳥になる。それは感謝だ。感謝の翼によって才能は羽搏くんだ。青空にありがとうと記すように境地としては味わい深い。自分の足跡を振り返ると一人ではなかったので、甘くは蜂蜜で、種々と気付かせてくれた人たちを含めて自然界に目覚ましく気付くという才能だろう。とても励みになるからまさか伸びる。
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