武田邦彦の鋭敏な世直しを本気で行う日本の道徳心の和を以て貴しとなすの教え 結城永人 - 2019年2月14日 (木) 一昨年辺りからテレビのゴゴスマで見かけて非常に注目したコメンテーターに武田邦彦がいる。大学教授で工学博士をやっているけれども必ずしも専門のそうした科学の分野に止まらない発言が多い。 特徴的なのが世の中の不正や矛盾は超大嫌いみたいな真摯なキャラクターで、僕が驚くほどに気に入った切欠になったのが日馬富士の貴ノ岩への暴行問題の対応について当時の貴乃花親方を積極的に擁護した姿勢だった。貴乃花親方は弟子の貴ノ岩のために所属する日本相撲協会へは何も報告せず、警察にだけ通報して日馬富士の暴行事件として公にのみ処理しようとした。これが巷では大勢に当て嵌まるような組織と個人の嫌らしい対立として社会的に大きなスキャンダルを巻き起こしてゴゴスマでも、連日、取り上げるばかりの話題だった。僕は時津風部屋で稽古中に惨殺された時太山を知って以来、日本相撲協会という組織には不信感を抱いていたし、恐らく暴行問題を二度と断じて許さない真実に称賛される大相撲のために敵視されても逆らった貴乃花親方という個人こそ納得して応援せずにいられなかった。すると武田邦彦も気持ちは遜色なくて日馬富士の貴ノ岩への暴行問題は事件のかぎり、組織が双方で話し合えば済むだけのちょっとしたイザコザでしかないように一方的に隠蔽して済ませるならば個人に対して無責任だから良くないという道徳心を示したのが嬉しかった。 僕と同じく日本相撲協会よりも貴乃花親方へ加担する気持ちが伝わって来た瞬間は見る目もまさか新しく好意的に明らかに変わらずにいなかった。 武田邦彦は飽くまでも工学博士という要するに科学者だからテレビのコメンテーターをやっても人々の色んな出来事については一般人とさほど変わらない意見を持つ場合が多いかも知れないけど、ところが認識の仕方が必ずしも同じではなくてちょっと違う。科学者の推理の切れ味をいつも感じさせる。鋭敏なのが面白いし、だから人気を得て番組にも良く呼ばれるんだと頷くくらい素晴らしい。扱う対象が科学の分野に属さなくても本人が得意の科学と変わらず、頭がしっかり回るというか、諸々の発言から思考が冴えた印象を与える。どんな場合でも認識力が完全無欠に働いて火花を散らすような閃きを覚えるから凄いと驚く。 日本には共通した道徳は必要ないのか?|武田邦彦 科学者として物事を理路整然と捉える方法をしっかり持っていて他の様々な話題へは人間にとって欠かせない道徳心を的確に表現するところが固有の魅力になっている。いい換えると世の中の矛盾や不正を許さない世直しの性格が本当に堂々と伝わって来るのが気持ち良いんだ。知るとテレビだけではなくてブログの武田邦彦やソーシャルメディアのYouTubeの武田邦彦でも武田邦彦は独自の切り口で意見を述べて世直しを行っているのが格好良くて個人的に共感も得る。止められないというか、マスコミへのコメンテーターとしての出演が小金稼ぎではないにせよ、それ以外のインターネットでも忙しくて大変なのにわざわざ情報を発信しながら人々へ知識を吹聴するのは何もかも本気でやりたいせいだと認めてしまう。僕だったらマスコミには求められず、作家として小金稼ぎですらもあり得ない貧困生活そのものだからいつもインターネットを使うしかないはずの日々、皆へ真実を少しでも多く届けて世直しを図ろうとするけれども武田邦彦も決して変わらないと受け留められるのは愉快だ。 やれば誰でも認めるわけではないと断っておく、念のために。道徳心があって世の中に役立つと推測される知識としての情報を持つ人がいるとすると皆に教えない生き方を選ぶのは信憑性が薄い。場合によっては邪道ではないか、大した理由もなく、自分一人で知っていて偉いと喜ぶのは卑しい感じが社会的に付き纏うわけで、道徳心については本物かどうかまで新たに疑われないとはかぎらない。要するに行動が伴わない人間における言葉の危うさみたいに口だけの状態で果たして本当に世の中に役立つ意義を持つかどうかは断定されない。普段は良い人だから嘘は吐かないと性格から判断して責めはしないけれども道徳心は実際に広めてくれるほどに信憑性が濃くなるし、分かり易くなるわけなんだ。本当に知識としての情報を皆へ渡す人は生きるかぎり、いうだけではないみたいに積極的にやらないと独り善がりのインチキ臭さがきっちり否定できないと僕は考える。 すると武田邦彦は合格点としか称えようがない。時間を削ってもブログやソーシャルメディアを更新しながら道徳心を人々へ広めている。人間的に偉いからやはり彼自身の道徳心は疑う必要はないというところまで来ている自己表現を取るので、非常に分かり易い。これもただし裏返すと注意を要するし、徹して力を尽くするから何でも素晴らしいとは感じるべきではないんだ。間違っていたら人生の無駄だし、皆へも酷いだけだ。漫画ならば人殺しに頑張って偉いみたいな馬鹿げた道徳心もある――口だけで何とでもいう――かぎりは最初からとにかく正面に相手にする必要はない。最低限、社会的に通用する内容のある認識についてのみ言行一致が果たされると果たされないよりも信憑性を濃くすると理解しなくてならない。 武田邦彦が神道と仏教と儒教などから歴史的に繙いて教える和を以て貴しとなす日本の道徳心 僕が武田邦彦に最も惹かれるのは道徳心で、取り分け鋭敏な世直しを本気で行うまで真摯なところが格好良いとも感じる。実際にどんな認識を持っているか、武田邦彦の道徳心とは何なのかを理解しておきたい。 ブログの心の時間 「道徳」の誕生では日本の道徳観が纏められている。日本人としての善の観念といって良いかも知れない。人間の正しい生き方を表現する認識が道徳心だけれども武田邦彦は自分の生まれ育った国とその歴史と結び付けて捉えているわけだ。方法は経験論的で、想像ではなく、実際に見聞される世界こそ中心的に思考するのは如何にも科学者らしい。 日本の道徳観は主に神道と仏教と儒教の三つの大きな思想に長らく由来しているとされる 神道の思想:自然と自分が生きていることへ感謝する仏教の思想:現代ならば法律に触れるような悪事を働かない儒教の思想:義理礼儀や親類縁者などを大切にする信じる神を特定したりせずに姿形も想像しない 武田邦彦は「日本の『道徳』というのは簡単なように思う」と日本の道徳観を四つに纏めて思考している。 驚くのは日本人の心を良く示していて道徳観といいながら只単に人間における善悪の基準を全般的に諭しているわけではないから感動させる。今こそ目覚めのときというか、時代を越えて確かに通用する真実に他ならないだろう。仏教と儒教の内容は社会と個人の規範として世界共通の部分(精神の理性的な在り方)が大きくて神道と不定形の神(八百万神ならば土着の思想と呼ぼう)の内容は日本特有の文化の趣きが強いと受け留める。何れも生活に必要なのは飽くまでも心のある道徳でなくてはならないし、国と歴史を踏まえた善の観念が人々に最も役立つ可能性が高いと考えられた結果だ。 昨今の多様化した世の中から捉えると当て嵌まらない日本人も正しく多いはずだとするとそれを認め直したり、受け入れられない場合には新たに変えて行ったりするための方法が主張されていて寛容ではないか。 Nishikigoi of a pond by Kumiko SHIMIZU / Unsplash 人権を尊重した民主主義そのものにも相応しいけど、取り分け儒教の思想で明らかな人付き合いの良さが日本の道徳心にとって一つの自己批判の精神として活用されるようになっている。または実践的に生きられる知性とも称えられる輝きを放つんだ。独り善がりではどんなに素晴らしい認識でも机上の空論みたいな人生に無用の後ろめたさを免れないわけで、武田邦彦は彼自身でも他者感覚を捨て去らないから偉いと本当に感心する。 時に、私は「二重人格者」と呼ばれます。それは「自分と違う意見の人の考えを理解する」という行動を取るからです。理解するというのは自分が同じ意見だということではなく、相手の言っていることを理解するということだけなのですが。「人の話を聞かない日本」なのですが、それにも方向性があります。 丸山真男はいなかったのか? それとも東大は力がないのか?|武田邦彦 自己批判の精神と相俟って世の中で自己主張を控える奥床しさや自重して他人へ謙遜する態度が日本人の美徳や品性として一般的に受け留められる文化との密接な結び付きにも気付かされるかぎり、武田邦彦が主に神道と仏教と儒教の三つの大きな思想から歴史的に繙いて捉える日本の道徳心はそれこそ迫真というか、もはや容易に疑えないほどの説得力によって確かにも伝わって来ずにいなくなる。 道徳は他人に「勧める」のは良いが,「強制」すると問題が起きる.道徳で強制できるのは,ほとんどの人が合意し,しかも「自分の実施している」場合に限定される. 「道徳」を押しつけるな! 001 (続けるつもり)|武田邦彦 科学者にとって物事への客観的な立場は自己批判の精神と良く当て嵌まるし、冷静な判断力を失いながら独り善がりの不自然な意見ばかり述べていてはオカルト――または科学者として狂気じみた状態――でしかないわけで、武田邦彦の日本の道徳心という全ては本人に特有の資質から得られる信条として諸々の発言によって能力的に鋭敏なのを凄く驚かされるのも実際は当然の帰結かも知れない。 端的に捉えてまるで標語のように覚え易く手短かに纏めたのが和を以て貴しとなすという 武田邦彦の他者感覚が本格的で正しく特筆に値する。資質から得られる信条として冷静な判断力を絶えず、失わない人柄ならばきっと主張する日本の道徳心も普通に世直しに役立つどころか自己批判の精神と結び付いて奥床しく謙遜する日本人の美徳や品性の文化を育みさえもしてくれるのが本当ではないか。大きく期待できるように甚だしく引き付けられてしまうわけだ、やはり。 新しい道徳律はこれまでの道徳律とは違うもの。 その本質は「正しいことは一つ」という概念から、「正しいことはいろいろある」への転換。今が、そのスタートライン (理由)世界はすでに複数の正しさがあり、それが統一されるのに時間がかかる。 そうすると、まず、相手の正しさを互いに認めてから何事も始める. アーリア民族は「他人の土地やものを暴力で奪って何が悪い」というのが正しく、もともと正しくないことを正しいとするのだから「屁理屈」がいるし、それが「学問」だと考えている.アーリア人にとってはこれが正しい. 中国人は「自分が得をすれば、民族とか国家など意味が無い」というのが正しいという考えだ.でもそれはあまり露骨に言うことは憚られる.だから、事実でなくても紙に書いたり口から言えば事実になると考えていて、それが正しい。 日本人は他の民族が、その民族としての正しさを持っていることを認める事だ. 次に、日本人が日本という国家の中で幸福に生きることができるのに、ほぼ全員が合意できる「正しさ」を決める。その正しさは日本人本来の性善、礼儀、誠実などを「神道、仏教、儒教」が補強した道徳律に、「集団が繁栄する方向」、つまり和を以て貴しとなすに向かうことを一つの制限とするのだろう。 心の時間 これからの道徳律その1 相手の正しさを互いに認める|武田邦彦 ブログで「新しい道徳律はこれまでの道徳とは違うもの」として「まず、相手の正しさを互いに認めてから何事も始める」ように望まれていて日本人にとって最終的に「和を以て貴しとなす」が本来のあるべき姿として誰もが幸福の生きるために提唱されている。 昔から良く聞かれる言葉で調べると飛鳥時代の七世紀頃の十七条憲法に由来している。第一条の出だしの「以和爲貴、無忤爲宗」(和/やわらぎを以て貴しと為し、忤ふる/さかふること無きを宗とせよ)の前半だ。紀元前五世紀頃の中国の孔子の論語の学而第一の一之十二の「禮之用、和爲貴」(礼の用は和を貴しと為す)に典拠があるらしい。 意味としては世の中は和するのが貴い/逆らうべきではないと教えていて元来は礼として人付き合いの善行の一つに数えられる概念だった。 現代でも通用するのは間違いないというか、人権を尊重する民主主義ならば中国や日本で初めて気付かれた頃よりももっと重要度は高まっているし、社会において決して見過ごせない道徳に他ならないと感じる。 武田邦彦の日本の道徳心は歴史的に神道と仏教と儒教などから培われて来た日本の社会性を捉えている。取り分け飛鳥時代の十七条憲法以来の和を貴しとなすの教えに象徴される認識だけれどもさらに現代的に洗練されもしているのが素敵だし、新しく実効性に優れる利点を持つと思う。すなわち他者感覚に基づく自己批判の精神の在り方こそおよそ二十一世紀以前の人々の通念を超越しているようだ。道徳の概念は只単に善意を表現すれば生き方として有り難いわけではなくて善意とは何かを方法論的に掘り下げて独り善がりを根本的に排除している。 加えて客観性も高い認識が得られるから多くの人たちに知られれば受け入れられ易くて一つの常識として世直しに大きく役立つ可能性も高いのではないか。 参考サイト「道徳」を押しつけるな! 002マスコミと学校の苦悩 02 道徳教育論「道徳教育」は「愛国」か「私たち相互の約束」か?「道徳的」と感じられる運動は「他人を道連れ」にしようとする・・・その理由は?論語和を以て貴しとなす コメント 新しい投稿 前の投稿
コメント