駅のそばの駐輪場が普段よりも空いていた 結城永人 - 2015年12月27日 (日) 年末で会社や学校が冬休みに続々と入って来ているせいだ。寒いだけにしかし寂しさこそ身につまされるや。一人で出歩いてもいる夜なんだ。致し方もなく思われる。 自転車の疎らな駐輪場で誰もいなくて写真を撮っているはずの自分さえもがいなくなってしまいそうになる。吸い込まれる、心がそちらへ。びゅーびゅー風が吹いていて四方八方に張り付けられて身動きも取れないまま、溶け去るようにしてどこかへ真っ逆さまに落ちて行くというか。 人気のない何とやら。世界の奇妙な陥没地域でまさか存在の危うさを強かにも免れていられるなんて否全く幸いのかぎりが尽くされざるを得まい。孤独の極みにしてからが叫ぶべき声をも後ろに追い遣られてしまうかのようで、唇だって開くに開けず、どうにもこうにも抗うことなど一つもできはしなかった。恐ろしいわけだった、考えてみると哲学的には……。 深入りしてはならない。泡を吹いて倒れ込まない前に精神を崩壊させるな。生き難い地獄への扉がバタンと大きな音を発てながら閉められるにも拘わらず、一斉に群れを成して黒煙と飛び交わす蝙蝠たちの行く手に逆らってつまりは丸くて赤いランプとも似通うあの愛しい警告を無視して引き戻すつもりとは正気の沙汰ではあり得ない。神様によってか、折角、閉められた扉には好奇の眼差しを向けるにせよ、手だけはかけないでおこう。立ち止まってこそは人生の得策だ。想像するだに呻きに縛られる。自分とそして世界も渦を巻きながらついには破裂しようとするばかり、粉砕された知覚の果てにどんな身体が存在が魂が得られるだろう、実際に求めるのは無茶だし、むしろ厳しい戒めと考える他はない。目の前の道は重々しくも絶たれていた、進まなくて良い。たとえ僅かでも足を踏み入れるならばさらに生き延びられる保証はないに等しいだろう。きっと確かにそうなんだ。挑むだけが勇気ともいい切れない。 静けさは頷いた。言葉をひんやり呑み込みながら辺りでは引き締まった空気が漂い出した。そしてリュックサックにカメラも仕舞われた。 駐輪場は変わらない。見渡しては一人だ。内面こそ澄んでいて夾雑物の取り除かれたくらいの気分は雪景色にも例えられる。真っ白に煌めいて心もまるで期待感を募らされる。わくわくせずにはいられなかった。人々も冬休みだし、クリスマスを終えて正月を迎えつつある今時分だろう。丸一年の疲れを癒して新たな年を迎えて行くことは素晴らしいと認められもする。喜びつつはさっさと家に帰って暖かく過ごしたいものだった。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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