ヴァン・ゴッホの美しい日本のために生きたというベーコンの習作から最大限に受け取っても素晴らしく感動的な人間性 結城永人 - 2017年4月8日 (土) ヴァン・ゴッホのタラスコンへの道を行く画家(仕事へ向かう途中の画家)は見付けるや否や物凄く良い絵だと思った。 The Painter on the Road to Tarascon by Vincent van Gogh / Public domain 本当に可愛くて素晴らしい作品ではないか。雰囲気が自然なのに加えて画家の大きさが絶妙なんだ。小さめで動きが軽快に出ている。漫画風だけれども構想としてはきっと日本画の影響だろう。十九世紀後半にフランスで大流行していて出会って江戸時代の葛飾北斎や歌川広重という浮世絵に芸術上の規範を仰いでいたらしい。全てが明るめの色彩と共に平面的に溶け合わさっている。ゴッホの手紙を読んでいるとヴァン・ゴッホは日本画を通じて日本への憧れを猛烈に抱いていたと分かるけれどもタラスコンへの道を行く画家はヴァン・ゴッホが日本に来たのと同じだと澄み切った景色の広がりに大喜びながら絵に新しく精力的に取り組み出したアルル(フランス)での創作だったんだ。日々の浮き立った気分がはっきり示されていて微笑ましい。感じ入るほどに綺麗な心を養い育てられるし、知って瞬く間に生まれ変わるような魂の一枚だ。 日本人にとっては逆に国内の芸術について考えさせられる。浮世絵は何が良かったのか。徳川幕府による天下泰平の世相を反映していた。戦乱の日々に歯止めがかけられたならば日本人は相当に寛ぎを得られたはずだ。生活そのものは身分差別が横行しているように決して楽ではなかったにせよ――精神的な打つかり合いから国民同士の紛争もまさか夥しく引き起こされるならば坂本龍馬で率先される明治維新まで何百年と変わらないほどの重苦しい悲しみを強いられてたに違いないのではないか――酷薄なばかりの殺し合いの苦というどうにも不穏な毎日だけは避けられたから理知的な生き方こそ浮世絵に示されていたんだろう。だから温故知新として評価するべきだし、現代でも決して捨て去る必要はない。美しさが人間性に迫っているかぎり、画家一筋のヴァン・ゴッホが称賛したのも当然だったにせよ、年代を越えているわけだ。 僕の仕事はみんな、多少とも日本画が基礎になっている。 テオ宛のゴッホの手紙(硲伊之助訳) タラスコンへの道を行く画家が漫画風なのはヴァン・ゴッホの芸術が方法論的にも時代を先取りしていた証拠だ。現代、日本では浮世絵よりも漫画こそ人々に多く受け入られている。フランスでもやはり大流行というか、子供たちにかぎって大人気なのはドラゴンボールやキャプテン翼という日本なのは変わらないのが面白い。 芸術とは何か。浮世絵も元々は美術館とは無縁だったし、庶民と密接に結び付いていた。ありふれているから有り難みがないのではなくて些細な日常が芸術だとヴァン・ゴッホは誰よりも良く分かっていたと思う。 ランク・アート(閉鎖)もそうだし、大事なのは「日常=芸術」だから美術館が全てではない。身の周りの創作物をきっちり捉えられるかどうか。離れ去ってはリアリティーがない。僕も注意しなくては行けないだろう。 今正に手を伸ばしてこその存在という真実が自律的にも生きる喜びに他ならないんだ。 ヴァン・ゴッホのタラスコンへの道を行く画家は印象としてベーコンを思い起こさせた Study for a Portrait of Van Gogh Ⅰ by Francis Bacon © The Estate of Francis Bacon. All rights reserved. DACS 2022. Photo credit: Robert and Lisa Sainsbury Collection, Sainsbury Centre for Visual Arts, University of East Anglia 調べてみるとベーコンのヴァン・ゴッホの肖像のための習作というシリーズ(全六作)で題材になっていたのがタラスコンへの道を行く画家だったらしい。 ヴァン・ゴッホの肖像のための習作Ⅰヴァン・ゴッホの肖像のための習作Ⅱヴァン・ゴッホの肖像のための習作Ⅲヴァン・ゴッホの肖像のための習作Ⅳヴァン・ゴッホの肖像のための習作Ⅴヴァン・ゴッホの肖像のための習作Ⅵ ベーコンは絵を実在的に捉えているはずなので、タラスコンへ道を行く画家については画家の存在を人生の流れとして知覚しているのではないか。絵を描かなければならないという点では人間の必然性を表現したかったようだ。ヴァン・ゴッホにとって画家は天職だから絵描きへの情熱も壮絶なかぎりだし、そうした気持ちは真実として速やかに信用できるわけなので、ベーコンは個人的に追求せずにいられなかったんだろう。 世界が可愛いのはなぜか。ベーコンはヴァン・ゴッホの肖像のための習作で内面から改めて描き直していると感じる。生きる喜びを一つの芸術的な良さとして捉えながら絵に新しく表現しているようだから画家として非常に優秀だ。必要なかぎりの真実への凝縮された美しさを味わわせてくれる。 Study for a Portrait of Van Gogh III by Francis Bacon © Hirshhorn Museum and Sculpture Garden, Smithsonian Institution, Washington, DC, Gift of the Joseph H. Hirshhorn Foundation, 1966 ヴァン・ゴッホは自然に感謝しながら神への祈りに代えて絵筆を取っていたに違いないわけで、人々への義務感を強く持っていたはずなんだ。自分と等しく他人も幸せになって欲しい。タラスコンへの道を行く画家では影にはっきり打ち出されていたんだ。足元からまるで生き物のように実在感を示している。方法上、他のところと色合いが対照的に仕上げられているせいだ。ヴァン・ゴッホは分かってやっているから天才だけれどもタラスコンへの道を行く画家が漫画風なのは影のイメージが余りに重過ぎるためだった。足取りを引き止めてしまう。顔も正面を向いているからモチーフは慈しみだ。左向きの格好で、全身は進みつつも気持ちは右寄りに微かに切なさを帯びている。人間として尊敬するしかない、勇ましいほどに危うい詩情から一瞬でも優しさがオーラとして崇高に滲み出して来るかぎり。情け深い。もしも絵を描いて皆を幸せへ導くとしても人生の流れにおいて何人も待ち切れずに死んで行くはずだろう。数多くの悲しみを担って努力しなくてはならないとまるで宣言するように自任を明らかに捉えているのではないか。気持ちから慈しみを完璧に表現しているのは間違いないし、左足が影から離れているところに希望を受け取る。 私はいつも初期のヴァン・ゴッホが一番好きで、それも道を彷徨く様子が丁度そのときに――いってみれば道の幽霊のように見えるものだった。 原文 I’ve always liked early Van Gogh best, but that haunted figure on the road seemed just right at the time - like a phantom of the road, you could say. Francis Bacon / Francis Bacon by John Russell(訳出) ベーコンはヴァン・ゴッホの見方が逆なんだ。天職が抱える神の使命としての義務感、慈しみを伴った影から捉えていてタラスコンへの道を行く画家の画家自身こそ「幽霊」と呼ばれているのではないか。または「幽霊」こそ描き出されるべき芸術そのものの絵だとすれば内面からは絶対に掴み取れないように思い付かない世界だろう。 Study for a Portrait of Van Gogh Ⅴ by Francis Bacon © Hirshhorn Museum and Sculpture Garden, Smithsonian Institution, Washington, DC, Gift of the Joseph H. Hirshhorn Foundation, 1966 情報ではベーコンはヴァン・ゴッホを《偉大な英雄》と受け留めていたらしいから画家自身とか芸術そのものの絵なんて自分には思考不可能だと分かっていたとしても不思議ではない。 却って余計な疑わしさに煩わされなくて内面から絵を描くには神経が集中できるように喜ばれたかも知れない。 ベーコンはヴァン・ゴッホへの取り組みから絵の作風が色鮮やかに新しく変化したし、初めて個性が花開いたみたいにいわれたりするのは芸術家としての方向性が定まったせいだと感じる。 Study for a Portrait of Van Gogh Ⅵ by Francis Bacon © The Estate of Francis Bacon. All rights reserved. DACS 2022. Photo credit: Arts Council Collection, Southbank Centre, London ヴァン・ゴッホの肖像のための習作は最後の六作目でヴァン・ゴッホがどこにいるのかも定かではない。とにかく画面の中央から左寄りに真っ黒に描かれているのが影そのものだ。持ち物は頭の麦藁帽子や背中の画板や左手の絵具箱が辛うじて所在を明かしているに過ぎない。各々は天啓や教義や説法か。ヴァン・ゴッホは元来がキリスト教による愛の伝道師だったし、画家以前には布教活動が人一倍と熱心なゆえに教会から却って追い出されてしまうという経歴の持ち主だった。絵筆を取っても情け深い素性は変わらないまま、ベーコンのイメージは人助けの思いが何れも集約されているようで、詩的に可愛いんだ。真っ黒の影そのものが天職の神の使命としての義務感とするとおよそ憂鬱が知覚されているといって良い。 ヴァン・ゴッホは貧困や時には病気にも悩まされながら絵を描いていたもののどうにも売れないというのがまるで逃れられない悪夢のように憂鬱だった。希望を持って立ち上がり続けたわけで、画家一筋の情熱に打ち貫かれた感動的な人間性の勇気はタラスコンへの道を行く画家では左手の棒に託されているのかも知れない。 ベーコンは画家として傍目には悲惨としか映らないほどの憂鬱に痛ましく注目しながら苦労の絶えない内面こそ《生き得る実在》として素晴らしい光を当てるように最大限に尊重して芸術的に描き出していたんだ。 汽車に乗ってタラスコンやルアンへ行くように、われわれは星へ行くのに死を選ぶのかも知れない。 生きているあいだに星の世界へ行けないのと、死んでしまったら汽車に乗れないのとは、この推理のうち、たしかに本当のことだ。 テオ宛のゴッホの手紙(硲伊之助訳) ヴァン・ゴッホにとって憂鬱は「星の世界」を呼び覚ますならばなぜ生きるかは神の思し召しだったはずだ。自然と一体化してこそ天命も全うされるに違いないし、タラスコンへの道を行く画家は敬虔な気持ちをありのままに受け取らせる。信仰する神への祈りという本音が自分自身の画家でしかない所業を通じて画面にかけがえもなく定着されているのではないか。 身の周りの世界が総じて宝石とも過言ではない。必要だから知らなければならないと意気込むほどに胸を締め付けられる。人間にはかぎりなくも及び切れない。だから色使いは薄めなんだろう。届かない手の分だけ物事は記憶の他に残像を残すのみだった。心を擦り抜けて行く思いの果てならばついに久遠だ。 些細な日常そのものだし、何もかもが詩的に手放せないまでに引き入れられてしまわずにはいない。 ヴァン・ゴッホのタラスコンへの道を行く画家はまだ見ない絵という夢の途中で可愛くも生きる喜びの画家に平和が降って来る。人間性から近付いた日差しのお陰なんだ。きっと辿り着いて幸せを抱き締めるように素晴らしいばかりの人生の流れだった。光り輝く先の未来が重要ならば易しくても難しくても思考は躓きはし得ない。毎日に自信を深めて期待するために入念に覚え込んでおこう。 参考サイトWhat Are You Looking At?: 150 Years of Modern Art in the Blink of an Eye コメント 新しい投稿 前の投稿
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