桜の蕾が幾つも出て来てもうそろそろ花を咲かせるという予感に満ち溢れていた 結城永人 - 2016年3月27日 (日) 先日、梅の花を目当てに写真撮影に出かけて桜も咲いているかも知れないと探しに行ったら蕾だけが見付かった。枝の蕾の付き方で花のそれも分かる。花が一斉に咲くとどんなふうに並んでいるかがいつも見え難かった。蕾の付き方によって推測すると桜は枝に少し間隔を置きながら何輪か纏まって咲いていることが多いんだろう。 α5100を買って初めての一眼カメラで初めて桜の花を撮ると考えると可成の経験かも知れないと期待される。日本人だから桜の花を特別視してしまうようだ。桜の花を綺麗に表現できるかどうかは写真家としての実力が試される、いい換えると真価が問われると感じられてならない。 桜の蕾を撮れたことは桜の花への予行演習にも等しい 作例は接写と背景ぼけの好ましい仕上がりだった。レンズがSELP1650で、f/9の絞り値で、ピント内はびちびちに解像されているけれども被写体に光が当たっているほどに色味や色調の豊かさも得られるようだ。線の細さを余り感じなかった。背景ぼけも絞り値を上げれば弱くなるはずだけれどもピントが最短撮影距離に近いと逆に強くなるわけなので、SELP1650の場合は0.25m(ワイド端)から0.3m(テレ端)までの間だ、接写と背景ぼけを活かすためには被写体に十分に寄って行くことも必要だろう。 カメラとそしてレンズは他でも種々と試しながら様々に学んでいる。桜の花こそ全てを出し切って挑みたいものだ。考えただけでも写真撮影に気持ちが昂らずにはいない。 日本の春の象徴として桜の花は人生の喜びにも個人的には重ねられる。春以外の桜でも絶えず、考えながら、あるいは写真による自己表現の土台とも過言ではなかったわけで、桜を知ることが良い写真への手助けになると思ってしまう。僕にとっては抱えて止まない本音だった。 分けても人生の喜びとは何か。愛だ、やはり。愛を届けられれば望ましい。 抜かりがあってはならない。写真撮影、さらには自己表現においても努力するだけだ。求道的に受け留める。向かう先へはどうか。しかしながら疑念は持ち過ぎないにかぎる。努力するに付けては情熱よりも持つべきという必要性はないのではないか。きっともはや何分とも素晴らしいはずだ。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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