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小林一茶の懐かしい俳句

僕にとって俳句は馴染み深いものがある。というのは幼稚園で良くやっていた。気付いてみると仏教の幼稚園だったので、御釈迦様との関わり合いが多かったし、その流れで俳句といっても小林一茶ばかりなんだけども仏教徒だった彼の作品が授業に取り入れられていたんだろう。記憶に残っているのはどれも子供でも分かるような、そして動物を題材としながら面白味も損わない俳句だった。


痩蛙まけるな一茶是に有



何よりも弱いものへの励ましが良い。救済する精神がとても共感される。困っている人に手を差し伸べる。人だけではなくて他の生き物でも地球環境でも全てにおいてやらなくては気が済まないけれども「痩蛙」は象徴的に響く。詩としては正義の味方だろう。正義の味方は本当は弱いものなんだ。なぜなら一人で敵に立ち向かわなくてはならないからで、素晴らしく思うのはやはり「一茶」が付いている。正義の味方を応援する。すると彼も正義の味方に加わり、結局、同じような境地に達するわけなので、そこで誰かが付いていてくれると助かるだろうし、僕が「一茶」に付くならば僕も正義の味方になって誰かに付いていて欲しいと願う。願うと「痩蛙」も「一茶」も逆に付いてくれるようで、さらに他の誰かもそうかも知れないと考えるとどんどん助け合いの気持ちが膨らんで行く感じになる。


雀の子そこのけ~御馬が通る



親心が胸に訴える(危ないから逃げるんだよ)けれどもそれだけなのかしら。道を譲るとすると逆だろうとも思う。つまり「御馬」こそ「雀の子」を踏まないようにして欲しいんだ。考えさせられるのは何で踏みそうなのか。それが「そこのけ~」(そこのけそこのけ)という急いでいるとかなんて事情があるせいで、結局、自分に置き換えてみると事情を含めて取り組まなくては弱いものを現実に助けることはできないかも知れないと分かって来る。すなわち内面的な美しさもさることながら生活によっては予断を許さない状況もあり得るわけだ。作品では「御馬」は「雀の子」に停止しないともかぎらないし、そうなって欲しい気持ちにせよ、少なくとも自分だったら間違いなくと胸を張っていえるかどうかを、今一度、確かめさせられてしまう。一言では誠実さだけれども人間としての物事への実行力を問われずにいない。


我と来て遊べや親のない雀



優しさが溢れている。身寄りのない人たちへの思い遣り、さらには世界の悲しみへ施される手を想像するのにも難くないだろう。不思議なのは「親のない雀」が「我」へ被さる。つまり一つの共感によって自分も天涯孤独の身を味わわなくてはならないんだ。考えると存在とは何かを胸に突き付けられる。自分は他の誰でもなく生きている。たとえ親がいて家庭があっても存在まで取って変わるわけには行かないので、彼の「遊べ」は時間と空間を共に過ごすと抽象化してみればやはり哲学的な響きが広がる。汲み尽くせないほどの言葉遣いかも知れない。情景としては微笑ましいかぎりの俳句なんだけれども味わいそのものが二重にも三重にも受け取られて波及効果が著しく高い。彼自身も幼少期に母親と死別してしまって父親はいたらしいけれども満たされない思いは個人的に強かったかも知れないし、そうした文脈では自分で自分を救い出すような詩情を認めることも決して吝かではない。ほっとしないでもない、良かったと人生の寂しさを幾らかでも紛らせられたのではないかと察すれば。活路を見出だす。作品内でも「親のない雀」と「我」は楽しんでいるけれども作品外でも同じように感じられてならないのはイメージが魅力的なんだ。喜びに包まれながら明日が掴まれるというか。延いては僕も励まされるように力添えされる気持ちになって幸せな境地へ誘われて行く。


児童期に小林一茶の俳句に触れて蛙や雀という身近な動物への見方が増したのは事実だ。人間的に扱われているのも仏教の教えとして命には分け隔てがないせいだろう。それが作品を含蓄深くさせているのではないか、しかし。覚えながらかつて身近な動物への愛着も増したし、今現在の個性にも通じているはずだけど、思い返されるほどに日々を豊かに送らせてくれた。


参考:一茶の俳句データベース

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