ドアーズのロックは社会への扉を開く 結城永人 - 2015年11月22日 (日) ドアーズのボーカルのジム・モリソンは元々は詩人だったらしい。するとバンド名も確かに独特な響きを持っていたと今更ながら驚くけど、詩だったんだ。 ウィリアム・ブレイクという詩人の言葉で、それはオルダス・ハクスリーという文学者が自著の知覚の扉(エッセイ)のタイトルに引いたところからの彼らの孫引きの形だった、しかも。 言葉の歴史的な流れというか、人々による受け渡し方が数奇だと溜め息も洩れる。ウィリアム・ブレイクからオルダス・ハクスリーへと、オルダス・ハクスリーからドアーズへと繋がって行った。その間、二世紀くらい経っているわけで、どんなイメージだったのかが非常に気になってしまう。僕も引きながら考えてみたい。 もしも知覚の扉が洗い清められたなら人間にはあらゆる物事がそのまま、果てもなく思われただろう。 人間は自らを閉じ込めたゆえ、岩屋の狭い隙間を通して総てを認めるまで。 原文 If the doors of perception were cleansed every thing would appear to man as it is, infinite. For man has closed himself up, til he sees all things thro' narrow chinks of his cavern. ウィリアム・ブレイクの天国と地獄の結婚(訳出) 心を解き放つといっても良いし、内面を明かすのにも等しい。ドアーズの精神に近付く、正に。サイケデリックな感じが「そのまま、果てもなく」のイメージを表明しているのではないか。オルダス・ハクスリーの本によってだけれども「扉」がバンド名にされたのは音楽でロックでそうした世界観を打ち出すためだったんだろう。ジム・モリソンが知覚の扉を愛読していて仲間に持ちかけたといわれる。自由に生きるために人間性を如何に養うか。個人的には社会への扉を開くというふうに捉えたくなる。つまり我に帰るような道を作らなくては気持ちが窶れてしまうそうだ。弱ってばかりはいられまい、いつも快調とはかぎらないで。生活には欠かせないと唱えてもおきたい。 The Doors - Touch Me (Live)|TheDoorsVEVO 高校時代、僕はドアーズを聴き捲っていて最近も聴いた曲ではTouch meがすこぶる気に入った。ラブソングなんだけれども飛んでもなくシンプルだ。ロックとしてはドラムやベースやギターやオルガンがリズムを同じように刻むところが斬新だったらしい。乗りが素晴らしくて歌と演奏の熱気が渦を巻きながら登り詰めて行くようで、恍惚的な印象が広がって行くし、僕も包み込まれるほどの思いがした。 コメント 新しい投稿 前の投稿
コメント