白い恋人という北海道の人気の土産物の菓子を食べてみた感想 結城永人 - 2020年7月24日 (金) 北海道で人気の土産物として菓子の白い恋人(石屋製菓)が挙げられる。1976年に発売が開始されてから現在では年間に二億枚程度を生産するほどに良く買われているようだ。国内ではもはや白い恋人という名前を聞いたことはない人はいないくらい北海道の菓子として知名度は高いかも知れない。加えて海外からの旅行者にとっても日本を代表するものの一つに数えられる。 僕は買ったことはないし、北海道へ行ったこともないけれどもそうした人から土産物として貰うことは偶にあった。大抵、一枚だけ挙って食べて終わりで、何ということもない菓子だからむしろどうして国内や海外で物凄い人気なのかを訝っていた。記憶に残るような格段の印象はなかった。 しかし初めて一箱貰って九枚入りの定番のホワイトをしっかり味わいながら食べてみたらこれは確かに人々が唸って店に殺到してもおかしくないくらい素晴らしい菓子だとついに認めるに至ったんだ。 ラングドシャとホワイトチョコレートの優れて印象深いハーモニー 今まで何回かは食べているはずなのに印象が全くないので、失望させられるのを恐れながら最初から期待しないで食べることにした。 直ぐに気付いたのは外側のクッキーの特有の食感と風味だ。フランスの伝統的な菓子のラングドシャ(laungue de chat/猫の舌)が使われている。普通のクッキーよりも細かく砕けてバターの味わいがその隙間を埋めるように次々と広がって行くようだ。 これが如何にも北海道の土産物の菓子という白い恋人のイメージにぴったりなんだ。 ラングドシャの肌目細かいザクザクの食感が柔らかく降り積もった雪の上を密やかにザクザク歩くようで、正しく白い恋人と呼ぶに相応しい情感を与えてくれる。 でも車を止めて下りてから 波うちぎわまで歩いていく 足あとがザクザクといった 足あとがザクザクといった ひとりぼっちにしないでと 心の中で私はいのったけど 銀色夏生のあの空は夏の中 重要なのは静けさが聞こえて来るかどうかで、ザクザクが強くても煩くて弱くても分からない、ラングドシャの粒立ちの繊細さが一つの恋心の感覚に繋がっていると思う。もう一つの砕ける迅速さが雪道を行く感覚なので、名前通りの詩的な菓子になっているわけだ。 バターの風味は食感のザクザクと相俟って口の中に長く留まるように受け取られる。しかしさらにとても濃厚で、牧場が広がる北海道ならではの趣きがある。大自然の情景を思い浮かべるほどに白い恋人は北海道の土産物の菓子と心から頷かれもする。 第一印象では本命というか、白い恋人のラングドシャに上下から挟まれた中心のホワイトチョコレートは主役としてのインパクトが弱いと思った。普段、食べ慣れたものと大差がなさそうで、スーパーやコンビニで買った思い出こそ前景に浮かび上がって来てしまう。 結局、一枚だけ食べると土産物の菓子でちょっと特別な印象を与えるのが白い恋人なんだと北海道にかぎらず、それ自体は地方毎にあるようなものとして有り難くも取り立てて驚かないかも知れなかった。 白い恋人は本当に凄くて土産物の菓子として人気があって日本を代表するくらい美味しいと分かるのは漸くと二三枚食べてからだった。 驚くべきはラングドシャとホワイトチョコレートのハーモニーで、優れて印象深い味わいと感動させられるものがある。 ホワイトチョコレートの牛乳の味わいは普通のチョコレートよりも濃厚だけど、これが白い恋人のラングドシャからのとても濃厚なバターと合わさるととてもとても濃厚で、食べながら北海道の牧場の情景が果てしなく広がるのは面白いにせよ、菓子の味わいとしては一枚でもう良いくらい十分にインパクトが強い。 不思議なのは二枚目以降で段々と慣れて来る。そこから主役のホワイトチョコレートの普段とは別の表情が見えて来るというか、脇役のラングドシャから引き出される新しい魅力こそ勝って受け取られるせいだと考える。両方で一緒に奏でられる味わいのハーモニーは優れて印象深いというけれども病み付きになるような美味しさを持っている。白い恋人が売れ捲る最大の特徴かも知れない。 最初、ラングドシャで雪道を静かに行く情感があるところにホワイトチョコレートの素敵な世界がパッと閃くけど、この変化が何枚も食べるほどに心に馴染んで自然な流れに移行するのが素晴らしいとしかいえない。 白い恋人という菓子の名前からすれば恋が実った今時分がホワイトチョコレートに結集されている。世界がパッと閃くのは奇跡を味わうに等しい。ラングドシャのバターと牛乳や砂糖などの幾つかの共通点、その他、ザクザクに対してまったりの食感や小麦粉に対してカカオの味わいなどの多くの相違点の絶妙な組み合わせを通じた外側と中央の入れ替わりが個性的で、しかも巧みに伝わって来るのが非常に良いところだと思う。 最後、ホワイトチョコレートだけが残ったときに却って爽やかさがそこはかとなくやって来るのが胸打たれる。ラングドシャと合わさるときはとてもとても濃厚で、一つになっても濃厚だけれども以前と対比されながら風が吹き抜けるような爽やかさが訪れるのが本当に目立たないけれども素敵な表現だろう。 いっそあのはぐれ雲が消えてゆくあたりで儚くなれたなら ――おお さわやかなものにめぐまれて あかつきがこの森に敷きつめる 濡れた菫の花床で息たえることができたなら アルチュール・ランボーの渇きのコメディ(宇佐美斉訳) ホワイトチョコレートにカカオの酸味が含まれるから味わいに全くないわけではないにせよ、構成上、甘くてまったりとした感覚に添えられて逆しま想像される透き通った爽やかさはラングドシャとの優れて印象深いハーモニーで押し上げられる白い恋人の芸術としての締め括りに相応しく、一つの美しい魅力に念を押すようだ。 切なさが込み上げて、もう一度、食べずにいられないし、これもやはり恋人との惜しまれる別れに匹敵するイメージだから名前通りの最初から最後まで期待を裏切らない菓子だと唸るし、もはや食べ過ぎに注意しなくてはならないくらい美味しいのは間違いない。 旅行の土産物としても目的地が素晴らしければ同じだろう。立ち去るのは総じて切ないかぎりではないか。白い恋人は旅先の北海道に夢があって恋愛に例えるのは上手い。何枚も食べてみて菓子の仕上がりの見事さに納得するばかりだ。 参考サイト白い恋人ラング・ド・シャホワイトチョコレート コメント 新しい投稿 前の投稿
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