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ベーコンの絵に浅田彰と井浦新との対談で完全に貴重なアート

日曜美術館のベーコン特集/恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコンで浅田彰井浦新が対談していたんだ。

椅子に座って向かい合う浅田彰と井浦新
恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン|日曜美術館

ブログで何気なく取り上げた二人が世の中で勝手に結び付いて面白いと思う。それぞれに認識が増して見方も変わったし、さらに又新しい発見があるのではないかとブログに今度を二人を合わせて取り上げたくなってしまった。

2013年に放送されたテレビ番組だから今から四年前になるけれども日本で、当時、三十年振りに開催されていたベーコンの大型の展覧会で題名も正しくそのままのフランシス・ベーコン展を二人が訪れての企画だったらしい。

浅田彰はヘルメスの音楽にベーコンのエッセイが載っていて良く知っているから呼ばれたのかも知れない。調べては日本にベーコンを初めて紹介した作品だったともいわれている。

F・Bの描くプレザンス、それは過不足なく自らと合致して静止するプレザンスではなく、どこまでも過剰なるプレザンス、そのことによって途方もなく膨れ上がり、とてつもない力を孕んで振動しながら時間の中へと流れ出してしまうようなプレザンスなのだ。

浅田彰のF・Bの肖像のための未完のエスキス/ヘルメスの音楽

プレザンスはフランス語で現前だ。哲学の現象学で多用される概念だけれども主観性の相関物としての客体への意識といって良い。だから精神を病むと消滅するし、現前が経験されているかどうかが病院での臨床上の判断基準とも原理的には過言ではない。主観性の限界はサルトル嘔吐(小説)によって示されている。現実の裏側を知覚して初めて現前が超越されるわけだ。例えば他人の腹黒さに触れると普段から気持ち悪いけれどもそれを知覚する対象そのものへ抽象的に向けると世界全体が耐え難いかぎりで精神を病むしかないだろうと分かる。サルトルが無事だったのはただし哲学のお陰だったかも知れない。実存主義の哲学者として元気に暮らしていた。ところが認識が本当に正しいかどうかは又別だったのが面白いというか、サルトルを見れば実存主義が精神衛生に有効なのは間違いないけど、現象学的な方法としての哲学の良さではないかと探り出すといつも持つだけではなくて積極的に保つためにはサルトルと実存主義を真剣に問題視したドゥルーズをやはり知らなくては駄目だし、ドゥルーズ主義者の浅田彰は優秀だから非常に参考になるんだ。

実存主義的な現象学の真の現前を踏まえながら受け取ると「プレザンス」(浅田彰)は飛んでもなく魅力的な言葉で、ちゃんと分かって口に出しているから偉い聡明なのはもちろんのこと、詩人も真っ青なくらい優しい気持ちが込められていると好評せざるを得なくなりもするわけだ、気持ち悪いばかりのベーコンに対しては正しく。

感覚はいわば身体に働きかける様々な力と波動との出会い、「情動的運動競技」、「息の叫び」のようなものである。またこのようにして身体に関連づけられる時、感覚は表象的であることをやめ、それ自身実在的となる。

僕はベーコンはドゥルーズの実在性と結び付けた解釈から初めて良いと思った。本質的にベーコンは本物の画家としての生き方を考えていると考えられるから一つの観念の存在の持続そのものを明かしていてドゥルーズの実在性の見方は呆れるほどにスマートというと浅田彰も霞んでしまってブログに取り上げながら申し訳ないけど、ただしそれが自己表現にアートとして出て来る間際には紛れもなく現前は確認されるべき事象だから認識として不味いわけでは些かもないし、社会的にはドゥルーズのベーコンに引けを取らないくらい頷きながら良く見逃さなかったものだと驚かされてしまう。

日曜美術館のベーコン特集は様々な情報から振り返るしかなくて知らなくて観てなかったわけだけど、しかしながら浅田彰と対談した井浦新への世の中の風当たりは幾分か強かったようだ。

ベーコンの絵について力説する浅田彰
恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン|日曜美術館

浅田彰を知っていて好きな人にとってはやはり詩人でも遠く及ばないような優れた人間性と切り放せないはずだし、所謂、ふしぎ発言を連発する井浦新が目に余って揶揄されたせいではないか。

僕も見るに忍びない気持ちがしたし、これでは良い年をした大人が勘弁して欲しいと感じさせ兼ねないのではないかと状況的に可能性は低かったにせよ、僅かにも危惧されなくはなかった。

ブログで指摘したけれども井浦新は芸術に憧れを抱いているとすると内心では素直さが大きかった。だからふしぎ発言に萌える女性がいるといわれるのも良く分かるし、母性本能を擽るとか少年の心を持ち続けるなんて格好良さがあるのは間違いないだろう。

今、目に見えている、その、例えば身体の動きの、動きからその前後が勝手に見る人たちを、見る人たちに、その、色んな物語を自由に作、作らしてくれるような、いってみれば物凄い余白のある絵なんで、絵なんですね。

井浦新/恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン|日曜美術館

井浦新は決して情けない性格ではないと思うし、誰かに揶揄される存在が全てではなかったものの対談した相手が何といっても凄過ぎて逆に煽られながら地が出たし、浅田彰の前ではもはやふしぎ発言も素直さこそ爆発的に伝わって来るようだった。

するとまさかアートだったよ、日曜美術館のベーコン特集というテレビ番組自体が完全に。ベーコンの絵を巡って浅田彰と井浦新が対談しているけれども全てがインパクトに包まれていた。つまりベーコンの絵と浅田彰はいうまでもないところで、先ずは無理に思われた井浦新までが素直さから強度に加わり得たイメージは本当に美しかったし、世界が変わる瞬間を味わわされたに等しくて何もかも夢ではないかと考えるほどに感動を禁じ得なかった。

ベーコンの絵の感想を述べる井浦新
恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン|日曜美術館

狙ってできるものではないから貴重だったし、井浦新も浅田彰に宜しく作用したのではないか。浅田彰は井浦新の裏表のない人の良さからベーコンの絵についていつになく熱弁を振るうようだった。怪しめばふしぎ発言に切れてそうな様子だったけれども幾ら何でもそれでは酷いだろうと恐ろしげに僕は見返さずにはいられなかった。なので浅田彰のいつになく熱弁を振るうようなリアリティーを引き出したのは井浦新の素直さを伴った人付き合いの才能が大きかったといいたい。

トリプティックという、所謂、三幅対、あるいは三連画という奴は教会の祭壇画とかに良くありますよね。それで教会の祭壇画とかだったら、まあ、キリスト教だと、まあ、キリストが受難をしていると。で、あれだって、まあ、神様が、まあ、身体を持った人間になって、で、自分の身体で色んな苦しみや痛みを受けて、で、死んで行くと、そのことで人類の罪を贖うという話になっているわけで、それが後に復活して、で、世を救ってくれるというね。まあ、前段階としてあるわけですよね。で、だけどね、ベーコンの場合はもう、何しろ、二つの大戦の世紀を生きた人だし、もう神は死んで救いはないと、で、傷は癒えない。しかしこの傷は太陽のように燃えていると、で、この太陽に、のように燃える傷は美しいっていうね。そういう一種、神の死の後の反宗教画というのかな。だからある、ある意味でいうと宗教画に似てはいるし、で、逆の意味でいうとその宗教画と全く反対の世界というのかな、救済がないことが救済だっていうような。で、つまりね、救済っていうのはあれじゃない、あの、まあ、正しい生活をしていれば意味のある人生が終わって天国に行けますよと。で、宗教っていうのは、大体、そういうことで人をずっと縛って来たわけじゃないですか。で、そういうふうに思って死んだ人は良いけど、大半の人はそうじゃないわけですよね。で、あの、罪を背負って地獄に行くと。で、救済がなくなるということはつまりこの人生は全て無意味だということはある意味でいうと解放なわけですよ、もう先は何もないんだし。で、あの、この傷は癒えないが、しかしこの傷を抱えたこの身体は何と美しいのかというね。で、それは何か、あの、ベーコンの神のない時代の宗教画というか、反宗教画というか、そういうのの隠れたメッセージのような気がしますね。

浅田彰/恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン|日曜美術館

実際上、ベーコンの絵は絶賛する浅田彰だからそうしたテレビ番組で人々に教えるためにも特別に気持ちが入っただけかも知れないし、判断するのは容易ではなかったものの対談した相手が井浦新でなければどうだったかと考えてみるとやはりないのではないかと僕も浅田彰の人柄を追いけて突き止めるまでは詳しくないから願望を込めるように仄めかすのが精一杯なのが悔しい気持ちと共に結論を下すしかない。

難しい、本当に人間をどう捉えるか。ベーコンの絵について個人的に触れておくならば思想は同じだろう。人間をどう捉えるかの難しさが印象深いわけなので、見ていて日曜美術館のベーコン特集で井浦新の「物凄い余白のある絵」にしても浅田彰の「太陽のように燃える傷」にしても通じ合うような気持ちはする。もっというと人生を問いかけるベーコンの絵は極めて美しいけれども魅せられながらでしか知り得ない(喜びと共に消え失せる)ゆえに透き通ってしまっていてイメージとしても相当に掴み切れないんだ。

詩の言葉に匹敵する世界がベーコンの芸術にはあるし、つまりは一枚の絵も些細な日常の詩だったので、何気なく覚えるには取るに足りない性質まで物事を致命的に凝視しながら描かれているから良いとすると超人的な感性を抜きに理解してはならない――。

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