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ドゥルーズの哲学は出会いが良いと思う

十代後半、ドゥルーズガタリアンチ・オイディプスを貪るように読んでいたかも知れない。気持ちは、大分、変わったようだ。抱えていた喜ばしい思い出はいってみれば白光のはずだった。


自分も同じように言葉を書き記したいと率直に感じていた。人生で初めて作家活動への門戸が開かれた瞬間だったんだ。ドゥルーズとガタリのアンチ・オイディプスは記念碑的な本とも過言ではないし、個人的には忘れ難い思い出の一つに他ならず、素晴らしい出会いそのものだった。


〈それ〉は作動している。ときには流れるように、ときには時々止まりながら、いたる所で〈それ〉は作動している。〈それ〉は呼吸し、〈それ〉は熱を出し、〈それ〉は食べる。〈それ〉は大便をし、〈それ〉は肉体関係を結ぶ。にもかかわらず、これらを一まとめに総称して〈それ〉と呼んでしまったことは、なんたる誤りであることか。いたるところでこれらは種々の諸機械なのである。


ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリのアンチ・オイディプス(市倉宏裕訳)

ガタリは精神科医で、ドゥルーズは哲学者で、共著のアンチ・オイディプスはどちらがどちらともなく、書かれているような印象を与えるけれども他の本を共著だけではなくてそれぞれにも知ってみるとドゥルーズの言葉遣い、または思考に自然に引き寄せられて行ったんだ。


とにかく詩的なんだ、哲学でも。ドゥルーズは二十世紀後半のフランス現代思想を代表する哲学者の一人で、フーコーデリダと並んで歴史にも名を刻まれている。当時は詩的な思想表現が多かったかも知れないけど、フーコーやデリダと比べてもドゥルーズが飛び抜けて好きだったし、本もそれだけ多く読まざるを得なかった。


最初はフランス現代思想のドゥルーズとして様々な概念を新しく覚えるのに躍起になっていた。


一つだけ挙げると「出会い」だろう。ドゥルーズがいうと、全然、違うんだ。本人も哲学とは概念を作り上げることだと捉えていたらしい。意味や文脈をずらしながらやるので、どこにでもあるような聞き飽きてそうな言葉でも構わない。詩的なイメージも相俟って口振りからはっと驚かされる。


ドゥルーズの「出会い」を考えるとスピノザニーチェを何よりも徹底的に追求した血と汗と涙の結晶として人生の重みが犇々と伝わって来るので、哲学は本当に素晴らしいと頭も下がるほどに感心してしまう。


二十代中盤、自分にとって重要な哲学とは何かと考えたわけではないけれどもスピノザに猛烈に引き付けられた。スピノザは高校時代に初めて触れていて数学的な証明のスタイルで哲学を叙述しているのが物珍しいくらいしか感じてなかったし、気に入りのドゥルーズを通じても大して興味や関心も湧かなかったにせよ、目の色も変わって毎日のように読まざるを得ないし、少しでも理解するように努めなくてはならないという生活が訪れたんだ。


ブログのスピノザの哲学的な倫理学者としての方法で幾らか載せたけれども世界・自然・現実のイメージが魅力的で、今此処が全てという物事の捉え方が本当に必要な思想だったし、自分にはぴったりだと感じ取ったためだろう。


スピノザに惚れ込んで以来、ドゥルーズへの見方も変わった。ドゥルーズのスピノザとは何かという方向で読むとやはり面白いと思うわけだけど、例えばスピノザ ― 実践の哲学には「出会い」が数多く指摘されていたりするので、なぜ気に入ったのかも元から集約されていたと認める。


ドゥルーズのスピノザ主義的な良さ


ドゥルーズはスピノザ主義者の印象は薄い。というのも今此処を超越して捉えたいみたいな気分が漂っている、哲学に。概念が詩的なのも時空を定着しない言葉遣いのためで、今ではないいつか、此処でないどこかを求めているような感じがする。


ドゥルーズが大きな影響を受けた哲学者としてはニーチェも無視できないし、ニーチェ主義者ならばむしろ当て嵌まり易くなるんだ。


ニーチェもスピノザに大きな影響を受けた哲学者だったと思う。ただし方法だけではないか。今此処の捉え方が他の誰にも真似できない素晴らしさを湛えていてこれに気付くや否やスピノザから離れることは並大抵の労苦では済まされなさそうだ。ニーチェは猛烈に引き付けられたけれどもきっとどうしてかと考えたかも知れなくて哲学の良さを研究していた。


概念からしてもニーチェというと「悦ばしい知識」とか「力への意思」なんて哲学の人々を突き動かす精神作用を解き明かそうとしていたに違いないはずだし、または「ハンマーで哲学せよ」と聞くと世界を悲しみから救い出すような認識が素晴らしく求められていたのではないかと余りにも分かり易く伝わって来る。


ドゥルーズは哲学者としてはスピノザからニーチェへの流れによって理解される気持ちが望ましくて哲学の必要性と革命性を踏まえた上で、どんな結果を残したかが注目されずにいないし、様々な概念を「出会い」の他にも「機械」、「ノマド」(遊牧民)、「多種多様体」、「プラトー」(高原)、「リゾーム」(根茎)、「クリスタル」などと数多く作り上げながらそれまで誰も知ることのできなかったようなヴィジョンを新しく開いたところは特筆に値する。


しかしスピノザへの取り組みが個人的には非常に捨て難いんだ。ドゥルーズのスピノザを一言で纏めると出会いとは何かの問いかけに他ならない。


世の中に良いものと悪いものがあってスピノザは幸せのために良いものを近付けて悪いものを遠ざける生き方を哲学で示したとドゥルーズは受け留めていたようなので、前代未聞のスピノザのイメージというか、僕がそうだけれどもスピノザ主義的な立場からは咄嗟に思い付かない、ダイナミックな解釈と考えられて衝撃的だった。


何もかも神に決定された人生しかない世界観なので、スピノザというとスタティックな解釈が馴染み易い。今此処から「神への知性的な愛」によって「コナトゥス」(自己保存)に「永遠」に包まれる。もはや悲しみに苛まれても生き返る場所が出来たみたいに重宝されるわけだけれどもドゥルーズのスピノザを知ると消極的な気持ちでしかなかったのではないか。


自分一人で救われながら上機嫌を得られるだけでも正しい生き方は目指せるにせよ、良いものとの出会いを積極的に求めても変わらないはずだし、もしかしたら正しい生き方も尚更と喜ばしく捗らないとはかぎらない。


ドゥルーズがスピノザに見付けた良さは人々を幸せに導く意欲だった。


しかも哲学から齎されている。物事を認識した結果として世界こそ出会いに基づきながら良いものと悪いものとの選別によって社会も成り立っている。スピノザ哲学において本当に妥当だと思うし、万物の力関係を重視すれば個々の意欲を等閑にするわけに行かない。


日々の生活の原動力のように感じ取ったところはドゥルーズの洞察力が優れていたせいだろう。スピノザがなぜ哲学を求めたのかを考えなければ目に付かない部分ではないか。猛烈に引き付けられるような魅力とはかけ離れてそうで、いわずもがなとも定かではないけど、取り上げてみれば著しく興味深いのは確かだ。

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