既視感(デジャヴ)とは何か。詩的に考えるというか、僕は永遠の詩人だから本質的な認識として表現しようとするとブログの天道虫の記事から分かるのは色と形の組み合わせがイメージを越えて感じ取られるせいだ。
通常、イメージを越えて人が生きることはなくて観念と物体は一対一の対応関係で精神に記憶されているわけなんだ。しかし既視感においては色と形の組み合わせという抽象性を介して経験が全く別のイメージに飛び火する。元々のイメージが抽象性から引き出されるために全く別のイメージを受け取りながら人は今此所と結び付けることができる。およそ全く別のイメージしかなくて精神が切り替わるとしたら人は旅立ったか、夢見たかだろう。精神は存在と意識の変化を確知する。既視感にかぎってはそれが今此所となって味わわれてしまう。
注意すると色と形が何かに似ているだけでは既視感は得られない。なぜなら似ているという概念が具体的だからだ。色と形の組み合わせをそっくりそのままに抜き取ることができるとイメージがいつかどこかの某かも知れないと全く別のイメージを呼び寄せる。
日常生活でなぜ既視感は起きるか。一般的に抽象性というのは概念や図表で示されることが多い。ただし厳密には抽象性そのものではあり得ない。概念には概念の具体性があり、図表の図表の具体性があるためで、人は一つのイメージとして心理的に定着する。裏返せば観念と事物の一対一の対応関係が緩んだ結果として既視感は起こって来る。
緩んだ結果の原因として認識されるのは何か。本質的にいうと既視感は「事物の想念性の形相」から生じている。つまり抽象性の定義から来るわけで、抽象性の定義としての「事物の想念性の形相」は神の観念(絶対性)と永遠にくっ付いているんだ。自然の法則もそれなしには実現されない。生き物が動くのも抽象性に基づいていて抽象性が無限に空間を作り出すためでしかない。絶対者の名(神)のもとに事物の可能性を永遠に広げ続けることができるといっても良い。
人は普段は分からない。物事には道筋が一つしかないと思い込んでいる。思い込まないと精神は不安定になるので、道筋における事物の想念性が保たれるようになっている。身体ならば脳の統覚が乱れてはならないし、そのように神経が作用している。事物の想念性は因果律で、原因と結果の認識、詩的にいえば道筋の気分だ、道筋の気分で語れば揺らぐと抽象性が分かり得る。気分が揺らいだ寸刻は驚きがある。そこから世間一般の感情が生まれもする。只、寸刻の驚きというか、精確には驚きとはかぎらないし、僕が永遠に歌うという場合の感情は全て寸刻のものから来ていて色々と見付かるけど、抽象性については驚きが必要なんだ。
寸刻の驚きのままに物事を認識するために既視感は生まれて来る。経験の前提となる驚きが寸刻だからいつも忘れ去られ易くて人は無意識にしか記憶できないことが殆どだ。なので既視感は珍しい。無意識で物事を経験しているのを意識しているというメビウスの輪みたいな状態に入っている。実体験を踏まえれば寸刻の驚きが生きられるのは知覚が理性に包含されるかぎりでしかなかった。抽象性は道筋の気分と例えれば気分を支えるのは理性なので、道筋は因果律だから精神の良いところ(神の観念の認識)しか使ってないせいだ、揺らぐのを知覚すると既視感が味わわれることになる。
どうして理性の知覚が自然に働くか。世間一般の感情からしても理性の知覚は外部を持たない。つまり働いて人生を覆すような新しい経験を得させてはくれない。理性は持つだけで神と出会えるような喜びがあるので、内部しか持たないものなんだ。そこから出ることは想像不可能になっている。物事を新しく認識できても全ては理性的な世界の一環として経験される。しかし既視感は起こるとすると寸刻の驚きを捉えているわけだから知覚の先に理性ではないものを考えているに違いない。不気味な印象も確かにあるので、理性を得た人が以前の自分と相関しながら以後の自分に身を固めるために起こるといって良い。
人が理性を保てるかどうかは意志に基づくので、意志を知らないと長続きしないし、知性によって広がりも変わるけど、ならば既視感は理性を保つ生き方に向けての決意表明みたいなものだろう。
原因として考えれば読書が大きい、既視感にとっては。人が理性に気付くとしたら最も身近な道具の一つだ。本を喚んで生き方を美しく見付けて改めて世界を見渡してみて素晴らしい自分と対照的な物事に触れれば既視感を受け取る。
僕でいえば黒板に既視感を得たから予め白くて丸いものに理性を覚えていたんだろう。黒板は黒くて四角い。するとハムスターが思い当たる。ハムスターに理性を覚えるような経験もあるし、ブログには透き通った心の持ち主と載せているけど、ハムスターを飼っている自分は素晴らしいと感じたはずだった。
天道虫の既視感については実験的なので、日常生活の理性には基づいてない。永遠の詩人の寸刻の感情の見極めから来ているから外観的には同じだけれども内観的には違う。理性の有の知覚を試したということだ。そのせいで既視感について考えることもできた。
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