かつて自分と思うことが似てそうだと感じる人がいた。二十代の女性だったけれどもある人から「綺麗なお姉さん」と呼ばれていた。とてもしっくり来る。顔も性格も良くて聞きながら納得頻りだった。
笑いを求めないという共通点
僕が身近にいて共通点として如実に受け留めたのは常日頃と笑いを求めてないのではないか。同志が見付かったみたいに綺麗なお姉さんには殊更と引き付けられた。
いうと笑わずに過ごして良いと思うのは幸せのためで、他には強いて手を伸ばさないんだ。
青春期を振り返って天使的な人が僕のために笑ってくれなかったと気付いたせいだ。僕が笑わせようとするといつも別口で切り返される。笑うのは僕だからみたいな感じで、こちらからは意図されないかぎりでしかなかった。
自作のトレジャーが天使的な人の笑顔をモチーフにして作詩しているけど、もちろん全ては僕の仕向けたものではない。 狙い通りには笑顔を見せて貰えなかったので、結果としてそれが果たされたのは神様のプレゼントだったと思わされる。まさか有り難いばかりだ。
何でと考えるときっと天使的な人は幸せだった
僕に求めていたはずもない笑いならば得られなくても決して詰まらなくはなかったのではないか。知って以降、日常生活に笑いを持ち込むようなポテンシャルが薄らいで来た。喜びも自然体が良いので、皆には幸せこそ伝えて行きたいと悟った。
日々、綺麗なお姉さんも笑いを偉く望んでいるふうには見受けられなかったので、気持ちも近いのではないかと密かに共感を覚えていた。
周りには笑いを欲しがる人も多い。中年になっても例えば膝かっくんをやられたり、脇腹を指で突かれたりしながら驚かされてしまう。とはいえ、楽しい仲間たちにとっては笑いこそ幸せならは思い遣りを持って接せずにはいられないわけなんだ。笑い返すよ、正しく。
僕が見ていると綺麗なお姉さんもやはりそれができるようで、しかしながら上手いというべきか、自分よりかは皆ともうちょっと楽しんでいる様子なのが感心させられた。
永遠の詩人としては悩ましい
飽くまでも楽しさは幸せではないから本心で伝えたいことと合わないので、笑いつつもはっきり打ち出すことは難しいという。誤解されては困るし、もしも僕が誰かにとって《一緒にいたい人》と思われるとしたら幸せそのものこそ味わって貰いたいはずなんだ。楽しさを欠片でも残したまま、絆を深めるわけには行かないのではないか。自分らしさを大事にしないで付き合えば最終的には相手を悲しませてしまうだろう。なので詰まらなくて寂しくもなるわけだ、一人で。
表現上、気持ちを曲げることはできない。もしかすると綺麗なお姉さんも人付き合いへの固有の悩みを抱えていて詰まらなくて寂しいと思うことがあったといいたくなって来る。
二十代は自分で案外と皆に好かれてないと感じた
頑張っても先細りの関係に胸を痛めたりもした。もっと良くなるはずではないか、期待したよりも皆との絆が深まらなくて肩を落としていた。
今は分かる。二十年くらい経って僕には意気込むほどの魅力がなかったと。確かに永遠の詩人もライフスタイルへ取り込まれてなくて自分らしさはしっかり身に付いてもいなかったので、やればできるというわけの見聞録でもないだろう。絆を甘く見ていた。若さは思い遣りで生きる人にとってはとても厳しいものだ。
人生経験を積まなければ人間観察も伸びない。その中で人に優しくしても得られる喜びは少ない。若いうちに肝心なのは少ない喜びをコツコツ溜めて行くことしかなさそうだ。肝心といっても気持ちを曲げることはできないから言葉にしなくても変わらない。
可笑しくも明かしておきたい
僕においては知ると知らないとでは大違いなので、すなわち皆への眼差しに影響する。普段、取り分け若い人たちに優しさはどうなったんだろうと訝ることが増えている。やはり人付き合いを纏め上げるには時間がかかるから焦っては行けない。見守るに付けてはゆったりが気に入る。
綺麗なお姉さんは若いうちから人間観察が鋭くて皆を幅広く見渡せたところが凄かった。真実、見習うべきは思い遣りだ。そばにいるだけで嬉しくなれたし、僕も思い遣りを自分らしく出せるようになりたいと願う。絶えずが大事なんだ、きっと。いつも変わらず、真面目にやれたからこそ皆にも頼もしく認められたのではなかったか。
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