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優しい人と出会えたら心漏らさずに感謝を届けよう

色々、いっては来たにせよ、誰かと出会って明らかに優しいと感じることは実際には少なかったらしい。僕には透き通った心の持ち主がいたから比べても仕方がないけど、または他には一回もなかったみたいに特別に思わされるような経験が得られた。


ある人を見ていて感じて思った、優しいと。気にかけてくれるだけを嬉しがる僕だったとしたら紡ぎ出す言葉に恵まれないかも知れない。大海では鯨の群れが尾を振って海面を否激しく叩くばかりだ。


何が違うのか。他の人とある人は同じように僕を気にかけてくれるかぎり、それだけの差というと殿様気分に浸らされたいみたいで居心地が悪くなる。庶民でしかなかったと身分的には悟る。


女のある人で人の噂では四十歳前後だったらしい。噂の主は関西出の女性で彼女とは同級生だったみたいだけど、手に刺青の青い線がちらちら見えた。本物なのかと日を置いて風呂で洗い落とされたり、シールならば剥がされたりするだろうと黙って注目していた。消えた日は一目ともなかった。ここまで来るともう病気の痕かとも何かの痣とも思いたくなるにせよ、刺青を掘るような性格には受け取らなかった。僕への接し方がギクシャクしていたけれども最初のうちだけなので、そんなに珍しくないことだ、触れ合うほどに世話を多く焼いてくれて僕が殆ど喋らないから関西訛りでいえば「敵わんなあ」の匂いがするくらいでいつも良くして貰えたのは間違いなかった。他のところで何かがあったとも考え難いので、ファッションならばあり得たかというくらいで、とにかく刺青は結び付かなかった。人間は不思議な生き物だと素直に認める他はなかった。


噂の渦中の当人だけど、ところでどうにも優しいと分かった場面が思い出せない。雰囲気で様々な場面から伝わって来てもしかすると僕が優しい人だと明らかに認めた時点で成り立ってしまい、記憶に刻まれる切欠は何でも良かったと少しもいえなくはなかった。難しいと思う、彼女と刺青の人との関係を読み解くのも咄嗟ながら。どちらも気が合っているようだった。


僕は知ってからは彼女を優しい人と思い込むようになって行った。その通りに接してくれたというと刺青の人と大きな差は見当たらない、もはや。振り返ると優しい人と二人で同じような雰囲気だから刺青の人も酷くないと少しずつ仕向けられたせいで、僕の安心感が刺青の人の気安さに繋がって大事に可愛がられるようにまで接し方が変化したとも考えられる。人間関係で助かったわけならば恩に着る以外はないだろう。非常に有り難い。


良く良く捉え返すと刺青の人は詰めが荒かった。結婚していて子供はいなかったらしいけれどもクソババアと呼ばれそうかしら、親になればおよそ。人付き合いで詰めが荒いと子供はまるで詩人のように敏感だから直ぐに気付く。僕も幾度となく参らされるほどに《愛の爆走列車》とも大目に見なくてはなるまい考えに湧く情を覚える触れ合いだった。子供がいないのは刺青の人も仄かに認めての生活設計だったゆえかも知れず、純情さこそは物凄く個性的にも受け留められた。


優しい人は「私は計算ができないんだ」といってちょっとした暗算を頼まれたことか思い出される。二桁の足し算だけど、ただし苦手な人には大変だろう。僕も楽勝ではないながら何とか面目だけは保つことができた。意地にかけてでもこれこそ参らされるわけには行かなかったなんて沽券だったのやも分からない。とても大事だ、皆に《頭の良い人》と見做されることは。何かあればその筋ではきっと助けて貰えるとした安心感が周りの環境をまるでビーバーが湿地を増やした森のように居心地良く整えるからには欠かしてはならない、ややも。僕が味方を増やすのは大抵は《頭の良い人》としての希望的な観測のためではないだろうか。二桁の足し算に手間取って十秒近くも費やされてしまった。誰でもできると思われても仕様がなくて逆に困ったものだった。優しい人は内心で密かに怯えていた僕へは一言も喋りかけはしなかった。子犬よ。とはいえ、そばには若い女性の仲間が見守っていて優秀な人なので、何で僕が頼まれるのか、優秀な人でも計算だけは勘弁して欲しかったかとも定かではなかったし、ここでも人間は不思議な生き物だと感じさせられて止まなかった。


しかし言葉の響きには哀愁を味わった。詩で無敵計算を歌っているけれども恋愛ならば自分が好かれているか、愛されているか、必要とされているかを見抜く力が詩的に計算と呼ばれているわけなので、必ずしも数字とは結び付かない。言葉や仕草から相手の思いを心にかけて弾き出すことができるかどうか。ダイソンの掃除機はどのくらいにせよ、もしもできるならば《凄まじい吸引力》とだけはいっておかなくてはならないだろう、心の繋がりについて。計算高い女性は良い線を行く。玉の輿に乗れる。俗にいうと悪い虫も付かない。男性に持てて持てて仕様がない。引っ張り凧の右に出る者はいない。よもや一人勝ちの人生を死ぬまで謳歌するのかも知れない。モッツァレラチーズにも例えられないと言葉の見付からない詩人を心行くまで手助けするような、誰にも打つけられなければ悲しみのはずだった喜びを投げかけられるままの空気に浸りながら酔いどれもしないで暮らして行けそうだ。繰り返しになるけれども必ずしも数字とは結び付かないんだ。貴方が思いを心にかけて弾き出すことができるのはなぜかしら。数学ならばおよそ定義と定理(公理系)から一つの証明を齎すことだし、そのような完全性に数字を含めたあらゆる計算は還元されて行くに違いない。いつかどこかで世界に見詰められていたかぎりだとすれば優しい人の頭の回転が鈍らされてしまったのは僕のせいみたいにも察せられるのだった。


刺青の人と変わらないし、殆ど喋らないから十分にあり得た。ただし幾らかでも凹んだ空気が優しい人には漂ってなかった。苦にしてないのは優秀な人で、優秀な人も優しげな匂いがしていたというと珍しくないようだ。優しい人は苦にしながら無口を考えていた。しかし空気が凹まないとすれば《愛の爆走列車》ではないわけだから詰めが緩いといって良いはずだ。


その前に僕は優しい人の別の一言を小耳に挟んでいた。


飲み物の自動販売機で彼女が珈琲のブラックを買っていた。すると横から天道虫のように「苦いのに良く飲めるね」と健気にもいって退ける人がいた。仲間内で人間関係の凹んだ空気を膨らませる手腕にかけてはバルーンアーティストに近い、乙女的な人だった。刺青の人には名前で呼び捨てにされていたが、自分からは愛称で呼び止めた乙女的な人のスタイルが刺青の人と優しい人との間にも見られたのは非常に興味深いと思う。優しい人は乙女的な人へは敬称だった。ところが乙女的な人から優しい人へのお汁粉が甘くて美味しかった記憶が僕には殆ど掴まれないでいる。愛称だったようだけれども口に出されることは非常に少なかったんだ。もはや不思議ならば《生き物としての人間の性》と認め返す他はあるまい。優しい人は「大人だから」と乙女的な人へさも引き離すべくいい残した。聞きながら僕は素晴らしい響きの胸に痺れを切らしながら心も立ち尽くすばかりだった。


常々、皆とは人間的な成長へ向けた触れ合いが欲しいというか、願わしくて僕が貰うだけの宝物ではなくて誰もが手渡されるべきだと考えて生きている。なので本音を見透かされたに等しい言葉だった。優しい人が子供ではなくなった気持ちがいつどこで知られたかまでは確かに読めまい。ただし僕のためだと殆ど喋らない性格の寡黙さが思慮深く大人っぽく認められて自分も変わらないように冗談めかされつつも口に出されたのではなかったか。天使のウインクにイメージを煽られるまま、気持ちをかぎりなく遊ばせてみれば手当たり次第の思い出に立ち尽くすことも決して難しくはなかった。ちょっとした一言、ほんの僅かな仕草の中で誰も彼もが僕と共に人間的な成長を遂げていたらしい。生活上、触れ合いの目的は果たされた。気になるのは宝物の中身だろう。聳え立つ山は高くて登り切れるかどうかが怪しまれる。


優しい人は刺青の人と僕を近付けてくれた。だから《愛の爆走列車》に乗ることも詩人として相当に耐えられるように鍛えられたとも過言ではない。僕は感じる、電気鰻を。雲の中では雷と雨が生まれていた。見上げた空は素晴らしく青いにせよ、加えて皆の心が掴まれるようにもなって来た。人として名を上げたならば恐らく何もかも優しい人のお蔭だろう。


久々というか、僕は嬉しい言葉もかけられた。特別な思いへと駆られる。


飲み物の自動販売機にルーレットが付いていた。僕が当たって乙女的な人に一本をあげてから乙女的な人は全く当たらずにいた。優しい人が「買ってあげて」というや直ちに「嫌です」といった僕の言葉はどう感じ取られただろう。


実情はこうだった。すなわち乙女的な人が笑いを取ろうとする強ち、才気溢れるぷっくりした若い女性の一人を捕まえながら僕が嫌われるみたいな話し振りを示したためにカチンと来させられてしまっていた。才気溢れるぷっくりした若い女性の一人はさほど気に留めてはいなかったかも知れない。とはいえ、他のところでは明らかに《失礼しちゃうわ》のモードへ送り込まれる言動が偶にだけれども目に付くほども見られた。可哀想に考えていたところで僕が嫌われるみたいな話し振りを被ってしまい、どうにも頂けない乙女的な人への胸のうちをはっきり示さずにはいられなかったわけだ。


優しい人でなくても結果は同じだったとすれば僕からの乙女的な人への意味合いは考えるよりも探り得ないはずだった。一つの懐の深さ、気持ちの度量が問われるかも知れない。


乙女的な人はそばで聞かされて以来、笑いを取るにせよ、優しさを滲ませるような感じの良さを併せ持つふうに変わったんだ。いうと人と人との絶縁状態を諸に皆に広げてしまうような形での受けは狙わなくなったのではないか、触れ合いで。オーラが減って仲間内で目立たなくなったから心配せざるを得ないけど、しかし目を向けると面白いことをやり続けていたなんて誤解され得るかぎり、自分らしく生きていた様子なので、せめて安心して良いし、一緒に喜びたいと僕は直ぐに気付くべきだった。別れから見直せば穏やかさが霞んでいたところが心残りだ。伝わってはいたにせよ、永遠に連れて去って行くためには触れ合いに腐らされていては無謀だったと反省せざるを得ない。


さてぞ優しい人のことだから自分もはっきりいわれないようにしようと努めるのが本当だろう。只でさえも酷くない気心の知れた仲間が二重にも三重にも持ち味を増して行って五重の塔にまで差しかかったようだ。


今此所で思い出を手繰り寄せればというと記憶力に優れていると世界に驚かれてしまう。しかし《頭の良い人》だけではなくて人と殆ど喋らないから言葉も覚え易い、口数が少ないほどに自他共々と言葉も減るから過去へは楽なんだ。例えば僕のことを癒し系男子と感じてくれた人は口数が多くて彼女へは話したはずの同じ言葉を再び話したりもしていた。なので知能指数では全ては計れなくて飛び交う言葉が増えると人は覚え切らないんだ。勉強や仕事でも思い悩むと捗らないし、良い成績を上げることはできない。僕なんか思い悩みながら作家への門を潜り抜けたとすれば《無意識の抜け穴》を掘り起こせるかどうかも人生の大きな分かれ道だろう。気付かれ難いものなんだ、本当の自分は身近過ぎて。というか、人によっては心の忘れ物の中に懇切丁寧に仕舞い込まれている場合がある。


二重は「当ててくれ」だった。三重は「残念」だった。四重は「流石」だった。五重は「当ててあげるよ」だった。


ルーレットを回したのは僕、優しい人、僕、優しい人の順番で、代わる代わるの結果が外れ、外れ、当たり、外れになっていた。


僕が素晴らしく素敵だと胸にジーンと来て止まない言葉が最後の思いで順追った馴染み深さを差し引いても聞かされて誇り高く味わわれる。


人の気持ちなんだ。されど思いが込められているかどうかで与える印象も変わって来る。優しい人への尽きない感謝を僕は引き受けたいと考えてしまう。他の人では起こり得なかったかぎり、出会いをかけがえもなく呼び寄せられるような詩人になるべきだろう。


畢竟、目指して行きたい宝物が手に入ったわけならば非常に美しい。将来が楽しみだから感じ切ることはただし控える。人生は予想を遥かに越えて遠かった。励むほどに道長い。

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