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若冲の尽きない魅力ならばフェルメールとの親近性から迫ろうか

日本の絵画史でも特異な存在と見做されて際立って異彩を放つとも感じるような作品を数多く残した画家が若冲(じゃくちゅう)なんだけれどもWikimedia Commonsで探してみたらかつてなかったほどに興味深い作品と出会えた。


伊藤若冲の櫟に鸚哥図

何ともいえないような魅力が漂っていて背景が真っ黒の若冲は初めて見たかも知れない。


Wikimedia Commonsでは作品名が載ってないので、ファイル名の「Ishizuri」を頼りに版画の石摺りで調べてみたら若冲はやっていたけれども興味深い作品は多色の木版画だったらしい。石摺りの版画は黒地に白い図柄だけど、若冲は白黒だけではなくて多色でやるのに独自の技法を編み出していたようで、合羽摺りといわれる、黒地に色付けした図柄になっているんだ。石摺り風の多色の木版画と考えるしかない。作品名も著色花鳥版画櫟に鸚哥図(くぬぎにいんこず)と分かった。因みに著色花鳥版画は他に五種類の計六点が残されているということだ。


好奇心を絶やさずに歴史上の一点へ


モチーフの鸚哥は金剛鸚哥(こんごういんこ)だろう。若冲は決して生きていた江戸時代の中期頃に目にしたとは考え難いような動植物を取り上げることも少なくなくて金剛鸚哥にしてからが日本にいて良く描けたと仰天させられる。鳥のフォームがずんぐりしてなくて僕がペットショップや図鑑で見ているのとは微妙に異なる。取り分け頭が細いし、嘴が小さいから金剛鸚哥よりかむしろ背黄青鸚哥(せきせいいんこ)に感じてしまう。ただし色使いが明らかに金剛鸚哥でしかないんだ。


絵で対象物/オブジェのフォームの捉え方は例えば子供ならば気になったところを大きく描くことが多い。絵描きに慣れてないとデッサンで実物よりも太く緩くなったりするので、見たままに捉えながら描くのには練習が欠かせない。練習で見たままに描けるようになると写真との差もなくなって来る。


若冲はどうか。日本画は二次元というか、平面的に表現されることが昔から多かったとするとそこを突いてやっているように考えられる。だから練習が足りなくて金剛鸚哥のフォームが背黄青鸚哥に味わわれたとは必ずしも認めてはならないのではないか。平面的に眺めてみると奥行きの差が一つに合わせられていてこれは西洋画ではセザンヌからピカソへの《視覚の絵》の流れと結び付く。遠くのものと近くのものを同時に描くという試みがセザンヌでは静物画で林檎の位置を少しだけ変えてみたくらいだったのがピカソでは意図的に用いられていてそれこそ視界が打ち壊されたような感じの世界(人呼んで子供の落書きではないか)が 新しく生み出される結果に繋がっているはずだった。若冲は日本画のスタイルからたぶんどうして普段は立体的に見えるものが平面的に表現されているのかを知りたくて画家の試みとして提示しているようなんだ。


紙や何かで絵の基底材(芸術的な前提条件)が平面的だから絵そのものも本当は平面的に描くことが最も美しいのかも知れない。


若冲は金剛鸚哥の絵ではっきり掴んだ可能性が高い。目で見た世界を遠近の対象物で一に纏めて表現すると僕が感じたみたいにイメージは歪にかけ離れるにせよ、却って紙や何かの性質が大きかったと絵にとって美しいのは対象物がそこにピッタリ嵌まることだと学び取ったのではないか。そしてさらに日本画は昔からそうなっていることが多いゆえに探求すれば太古の人類の壁画みたいなものも正しく二次元だけど、皆が芸術に引き付けられる気持ちそのものまでも分かって来たと推測されて止まない。


すると好奇心に溢れた画家たったわけで、見たものと描かれたものとの違い、目と絵の感じ方をしっかり考えることもできたとしても不思議ではくなる。ヴァン・ゴッホならば弟への手紙で見ることと感じることの違いとして話していたようだけど、絵は見たままの世界よりも感じたままのイメージを出すべきだとすればあるいはルドンキュクロプスの一つ目のモデルに代表されるかも知れない《精神性の絵》を方向付けるような認識だったはずだ、ところが若冲の金剛鸚哥の絵から伝わって来るのは平面的な絵が心にしっくり来ることなので、見たままの世界をどのように平面的に描けば美しい絵に仕上がるのかが問われるんだ。


色使いでいうと赤と青が途轍もないくらい鮮やかで、背景が黒いせいで、芸術的なインパクトが非常に高いし、櫟の葉っぱに示された金色も感動する気持ちを表しているかのように選ばれていると見てしまう。


金剛鸚哥の絵は大きく捉えれば赤と青と黒と金の四色で塗られている。食い入るほどに見詰めさせられては詩的でもありそうだ。モチーフを実際の金剛鸚哥の色にして周りを気持ちで固めながら盛り上げるという仕方が日本人らしいというか、道場六三郎(料理人)の料理ならばかりにも食べたことはないけど、しかし素材の良さを徹底して活かすことは和食の習わしにもあるわけだから似ている。若冲は気付いてやっているとしか思えないというのも櫟の葉っぱがファンタジーを齎しているためで金剛鸚哥と同じように実物のはずなのに色使いの感性が構想上で明らかにバランスを崩している。本当に素晴らしくて《基底材を醸し出す芸術そのもの》と呼び得る作品に仕上げられているということなんだ。


瞳を凝らして
見詰めてみると
罪作りなのは
君よりも僕かどうか
確かめるにや
心持ちが広かった



自作詩を引くけど、これは超可愛い人の気の置けない仲間がもしも僕のことが好きだったら本丸の思いを差し置いて付き合うことこそ叶わない夢ではないかみたいな彼と彼女の事情を示すために歌っている。


芸術に置き換えるとアンバランスな感性は欲しいものを遠ざけながら心に近寄せてしまう。全ては欲しいものの属性がずらされることに基づくので、何かに目がないところで他へどうやって見定めるのかが難しいけど、若冲は金剛鸚哥の絵でやって退けた。見たままの世界のはずが櫟の葉っぱでは金剛鸚哥のように色合いが実物と揃ってないゆえに、枯れ葉にしても金が煌びやかなのに加えて緑も枝に塗られているイメージの扱いはアンバランスな感性だった、別のものを醸し出していて世界の切れ目から実社会を受け取らせることに成功しているので、絵としては紙か何かの基底材に描かれたものだと決定的に味わわせる。今此所で見ている人生の作品、人間の存在のリアリティーに到達しているといっても構わないだろう。


ヴァン・ゴッホだとタッチで絵の具の凹凸で力強く示したかも知れない。絵を見ているのは今なんだと、感じているのは此処なんだと歴史上の一点を掴ませる作品を表現できた芸術家は数少ないのではないかと僕は思う。というか、名前と切り放せないから記憶にはいつまでも残るし、心から愛さずにはいられなくなる。


なぜアンバランスに世界は見詰められたのか


若冲が金剛鸚哥の絵を描いたのは美しい日本画への好奇心があったとすれば芸術において基底材の発見にまで関係していたからどんな絵が欲しかったのかが気になって来る。今此所で求められるイメージとは何かともいい換えることができる。ならば実社会での人の生き死にの中から《手に入れて徳になるような気持ち》が欠かせないと考える。


登山家が山のために登るかぎり、画家も絵のために描くわけで、どんな幸せが生活に転がっているか、知らずに宛どなくやり出したとしても気付いてみれば全く分からないはずのものではない。


僕も自分では喜ばしくて当たり前だから振り返ると何事でもなくて些細な日常と重なるんだ。とはいえ、絵で象徴的な作品を打ち出したのはフェルメールだった。若冲と親近性があった。歴史上の一点を掴んで自己表現を行っているところが見ていて物凄く面白いと感じる。


ヴァン・ゴッホも確かにそうだけど、ただし真実をさらけ出すような形なので、生き方は大きく似てなかった。画家として歴史上の一点を絵へ力強くも劇的なほどに息付かせる方法はベーコンでさらに加速されて行くと思うし、他には何もできないし、したくなかったみたいに心に胸に凄まじい旋風を巻き起こされるくらい甚だしく美しさが生きられていた。


フェルメールは若冲と互いに相等しいまでに


すなわち今此処の竪琴を掻き鳴らす吟遊詩人の感情を、または芸術における創作活動への揺るぎない情熱をエクストリームに他者へと明け渡そうとはしなかったので、味わえば独り占めせざるを得なかったかのような静けさと落ち着きの綯い交ぜられた感情の中に端的に封じ込めたかったのではないだろうか。


ヨハネス・フェルメールの真珠の耳飾りの少女

どんな作品を取り上げて考えるべきか、Wikimedia Commonsで再び探してみてもしも若冲の素晴らしい魅力に迫り得るフェルメールとの親近性があるとすれば可能なぎり、分かり易いイメージで掴んでおきたかった、記憶にしっかり留めるためにも。


フェルメールの真珠の耳飾りの少女は彼の代表作といって良いような構成の確かさに真っ先に目を引かれる綺麗な一幅の絵で、まさか完成度は著しく厳しく高い。なので若冲の決して華々しいスケールに正しく貫かれた自分らしいスタイルを存分に出し切っているはずでもなさそうで、興味深いにせよ、習作とも逆に呼びたいほどの金剛鸚哥の絵の引き合いに出すのには気が引けてしまった。悩んだ末、絵描きの色使いの感性に浮かび上がって来た明らかな一致こそ二人の親近性の手がかりとして理解するのに役立つのではないかと選んだ。


黒と金と赤と青がとにかく目立つ。いうまでもなく、若冲の金剛鸚哥の絵の第一印象と色使いが全く同じだけど、そして白、さもなければ肌の白みががった血の通った赤か、それ自体で受け留めても薄い薄いオレンジだろう。タイトルの真珠の耳飾りの透き通った銀色の輝きが殆ど目に飛び込んで来ないところは謎めいているし、なぜ真珠なのに銀色なのかも心に引っかってどうしようもないんだ。


フェルメールは鑑賞者の気持ちを見抜いて真珠の耳飾りの少女を仕上げたのではないか。つまりモデルに垣間見られた自分らしさをモデルのフォームに即して描き出したという、画家として捉えてみれば。


僕も何を知りたいのかが判然としなくなって来る。朦朧とした気分で言葉を紡ぎ出すことさえが儘ならないみたいで、困り果てるけれども今正に飛び上がろうとする蛙が踏ん張るように意気込んで見えて来る世界は必ずしも焦点を結ばない、そういうことだった。だから焦っては行けないだろう。


少女の真珠の耳飾りが示しているのはフェルメールの世界だと僕は考えたかったと詩的に思う。感じ取るのも大変なのは絵全体への比重が少ないせいで、イメージが些細な日常にとても近付いていてむしろ積極的に拒まれているのだった。半笑いの表情を窺わせるモデルなのは他でもない。フェルメールはモチーフを縮め込ませながら鑑賞者の気持ちから遠ざけてしまった。


光が当たって白くなった一部が真珠だと味わえば銀色は影に包まれているせいみたいだけど、少女の頬などの影の動きと合わせて味わうには遥かに突飛なので、グラデーションは硝子でしかないように見える。もしかすると本人が付けた題名ではないので、調べてみるとフェルメール「真珠の耳飾りの少女」…実は「耳飾りは真珠じゃない」に本国オランダでも「ガラスやスズ製だろう」(アイク/理論天文学者)という研究報告があると載っていた。真珠には絵としてやはり見えないので、注意して良いはずだろう。ただし少女の耳飾りが真珠だとしても意義はあると思うから敢えてタイトルを変えずに取り上げることも吝かではない。硝子の耳飾りの少女ならば些細な日常のイメージにぴったりだし、素晴らし過ぎる余りの絵にせよ、人々の間で高貴さのポエジーから真珠も又生まれて来たと推察すればフェルメールの狙いと強ち外れてはいないように認められる。


本当に重要なのは特徴的な四色の配分に対して銀色が非常に目に留まり難いことで、そもそも耳飾りが小さな装飾品だから当たり前と思うならば背景は他の作品でも見られるように細々と描き込まれて然るべきではなかったか、堂々巡りに嵌まってしまうけれども反対に求めるほどに目を引かれる微かさが必要だったから黒一色で促すように示されたと感じたくさせられてしまう。


ファンタジーにおいて若冲の場合と最も似てないのはフェルメールの場合はフォームこそ肝心要だった。少女が真珠の耳飾りだったらそこだけが硝子に見える影のグラデーションが使われているために実物ではないと果てしなく驚かされたはずだった。若冲の金剛鸚哥の絵の金色の葉っぱと大きく変わらない色彩での基底材の捉え方だった。しかし硝子だからというか、絵が何に見えるかは本人だけではなくて鑑賞者との関係性を抜きに炙り出されないものだから鑑賞者が本人でなくて僕ならば硝子と見詰めるかぎり、フェルメールの真珠の耳飾りの少女のファンタジーは微かさに秘められていたわけで、特徴的な四色の配分に目を奪われるほどに心は硝子の耳飾りに止まらず、唇の白い光の粒などに経由されつつが延いては筆の先の一滴の絵の具へと赴くことにならざるを得ない。


微かさを通してフェルメールは基底材を見出だしたに違いない。このことは彼がどんな絵が好きだったかを物語っている。些細な日常なのはいっても目に見えて明らかだろう。本当に真珠の耳飾りの少女は芸術的だから美しさよりも心に飛び込んで来るものがないくらいだけど、他の作品では日常風景の写真アルバムと準えても強ち嘘ではない。しかも微かさによって画面に個性的に定着されているのだった。


ブログに幾つも載せないけれどもフェルメールの自己表現は真珠の耳飾りの少女からすると全体の色彩と部分の色彩との印象の違いを巧みに取り入れたものといって良いし、かけがえのない生き方を受け取らせるばかりだろう。耳飾りが背景に微かに仄めかされるように背景も又靡かれるようだ、耳飾りに優しく。二つの黒というイメージの結託によってそれは絵に命を吹き込むように与えられているのではないか。少女の目の白も身に纏った服の襟や耳飾りの左半分や諸々の光の粒と繋がって膨らんだ一つのイメージからそれぞれに固有の微かさを投げ返して行くと思われる。彼のリズミカルな手法、聞けば音楽もさながらにせよ、つまり《色彩配分の絵》はフェルメールを絶賛したヴァン・ゴッホの作品の数々でも印象的に感じるし、ルソー蛇使いの女だと気持ちにおいて象徴的みたいで、モンドリアン赤と黄と青と黒のコンポジッションならば抽象的に重なるように考えられるかも知れない。しかし何れにしてもフェルメールがそれを手放して止まなかった本分は些細な日常のためだった。微かなものを微かなままに真珠の耳飾りの少女ならばキャンバスに写し取ることができなければ全ては失敗に過ぎなかったと僕は唱えたくて仕方がない。


若冲も好きな絵というと些細な日常にかぎりなく近いところにいた。身の周りの動植物がモチーフだからではないし、金剛鸚哥の絵も当時の日本として珍獣が気に入っていたとはかぎらない。心して見てみると絵の中に画家が詩的か芸術的にも想像を巡らせたような痕跡が掴まれないと感じて来る。つまりフェルメールのようにモデルから世界を取り込みながらフォームを纏めているわけではない。


就中、絵の輪郭付けはダ・ヴィンチモナリザでは器用にぼかされながら人の手の及ばないものと麗しく叫ばれていたし、さらにはムンク叫びに至っては諸に内面的に無茶苦茶だとリアルに悔やまれていると見える。


フェルメールが少女の耳飾りの硝子に銀色を真珠もさながらに選んだのは事実そのものだとすればポエジーを抜きに語ってはなるまい。世界に詩が見付かったかぎりで対象物をフォームに纏め上げていくこともできた。ならば絵の輪郭付けは歌うように喜ばしく行われたことだろう。


ところが若冲は自分と対象物との一つの線引きに美しさで拘泥っていたようだから、金剛鸚哥の絵の金剛鸚哥のフォームが幾らか歪なのも自分らしさに他ならない、方法上は気に留めてなかったのではないだろうか。


色使いを主眼にしながらさりとて抽象画でもなくフォームを纏めたとすると動きが動きとして捉えられたということで、画家とモデルのコミュニケーションからデッサンを学ぶような絵描きでは全くなかったんだろう。西洋画でもフェルメールは早過ぎるくらい月並みな人間学を越えた個人性に到達していた感じがするけど、所謂、大文字の理性の及ばないところでむしろ真剣に取り組んでいたかのようだ。しかしながら若冲は世界が詩的にしても絵では二次的に囲われるように仕向けていた。


日本画では線の動きの良し悪しは非常に取り沙汰され易い要素だと思う。美しさの基準に含まれるし、積極的に数え挙げられる魅力の一つではないか。人々の心を掴んで放さないものは流れを伴った線の運びに他ならないとすると金剛鸚哥の絵ならば色彩の副産物として提示した若冲は超現実主義的な気分で取り組んでいたとも思わずにはいられない。無意識までも寄せ集められた自然そのものの線の流れを獲得することに成功していたことになる。


フェルメールの線は如何にも詩的で美しいだろう。モデルの少女の耳飾りが銀色に輝いて見えるのは世界がそのように経験されたか、想像された結果だったかにおいて何れにしても鮮やかに思われる。


引用された二つの作品で赤と青と黒と金という四つの特徴的な色彩の親近性は世界の詩的な様子に起因しているようだ。僕は女と男と夜と星を心魂に思い描くし、目も綾な芸術上の耽溺させられる人生の幸福感を、生きる喜びに包まれた恋のロマンスの俄かには信じ難いほどの言葉をフェルメールと若冲のそれぞれの絵の中に認めざるを得ない。対象物、またはモチーフはすっかり異なっているにも拘わらず、色使いの与える素晴らしいまでのインパクトにイメージの共通性を実感してしまう。だからこそ同じだった、絵で歴史上の一点を基底材に明け渡しているということも。


心の余韻で線を引く若冲は完膚なく美しい


金剛鸚哥の絵は赤と青の色彩に着目して詩を伝えるために描かれた絵だと考えれば絵を詩に十二分に作り替える働きが黒と金に求められていたかも知れない。画家の配色によって感性的に鳴り響く音楽もイメージを豊かにする。いい換えればイメージから絵を生み出せるかどうか、詩でなくともかりに心酔して止まない世界を幾つかの画材によって手に入れることが大事だったようだ。


本当にありふれた認識だけど、創作活動の魔力をただし美しさに置き換えながら追求したかぎりで得られた作品を宝物と称えずに僕はいられない。若冲の線こそ世界の瑞々しい輪郭を再現している。詩とすれば改行から打ち固められた一文の状態にフォームは匹敵することだろう。対象物、またはモチーフの真実が色彩によって取り零されることのないままに導き出されながら焦点を結んで行く。


まるで誰かの全てを丸ごと受け入れるように愛情をたっぷり注いで描かれたとも過言ではない。


若冲は絵を全身全霊で仕上げたはずだ。親に子が必要なくらい抱き締めなかった心の画家とは考えることができない。金剛鸚哥の絵においてしかし主眼は飽くまでも色彩でイメージの中心は視覚以外の何物でもなかったから画家としては本格的も本格的な相貌が想像されるばかりにせよ、感性の赴いた優れて芸術的な境地が改めて心と鋭敏にも生きられるならばきっと線は余韻に浸るようにしてしか引かれなかったはずだ。対象物があれば思いのままに色彩を受け取りながらイメージを次々と打ち出しては後を追うように輪郭付ける線だからこそ絵はもちろんだけど、若冲は完膚なく美しいと僕は見るだに惚れ込む。


如何にも静かで落ち着き払った様子なのも不思議といえば不思議だろう。ポップアートもさながらの慣れ親しんだ物事に必ずしも思い至らされたわけではなかったとすると丸写しの自然界のせいではないだろうか。または地球上に思いを馳せるほどに言葉は飲み込まれずにいなかった。


若冲は描いた、櫟の枝に金剛鸚哥を愛情を注いで夢こそ弾けるように。叶えられた命の驚きに触れるや時空は存在に席を譲りながら世界に溶け込んで行く。今此処でしか知り得ない物事こそ心を痺れさせる。素晴らしく素晴らしく。堪らないくらい喜ばしくて口付けを送りたくなるなんて感じも現れてしまうけど、しかし残されていたのは一目で生きているようで即座にも動き出さないばかりの類稀な絵だった。


参考:伊藤若冲 ヨハネス・フェルメール

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