本能寺の変を企てた明智光秀の動機とは戦国時代の天下人での日本の治世のためだったのかも知れない

明智光秀が滅没した室町幕府の最後の将軍の足利義昭が京都に入洛するという本能寺の変を企てた動機を示唆するほどの土橋重治宛の直筆の書状が発見された。


仰せのように今まで音信がありませんでしたが<初信であることの慣用表現>、上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。


一、雑賀衆が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますそのように心得られて、相談するべきこと。


一、高野衆・根来衆・雑賀衆が相談され、和泉・河内(ともに大阪府)方面まで出陣されることはもっともなことです。恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。


一、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それがかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。



戦国時代、織田信長が日本の天下統一を目指している時期があって日本史全体から捉えても激動の世の中を象徴していて他に例を見ないほどの壮大な歴史ロマンとして、後世、人々の注目を著しく集めて止まない部分かも知れない。


本能寺の変は織田信長を死に追いやって日本の天下統一の野望を完全に打ち砕いた出来事だった。


楊斎延一の本能寺焼討之図

天正十年(1582年)六月二日の未明、織田信長が宿泊していた本能寺へ家臣だった明智光秀が大群を率いて謀反を働いたとされる。主君だった織田信長は味方の守りが手薄だったために渾身で奮戦したもののもはや生き残れないと敵手に放たれた火が激しく燃え上がるばかりの本能寺の奥間で切腹によって覚悟の死を遂げざるを得なかったらしい。


月岡芳年の織田右大臣平信長
Oda Udaijin Taira no Nobunaga in Flames at the Temple Honnōji by Tsukioka Yoshitoshi [Public domain], via LACMA

明智光秀は亡くなった織田信長に取って換わって天下人と呼ばれる最高権力者の地位に付いたけど、ところが十三日後に織田信長の残党だった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の軍勢に襲われて早々と失脚してしまう。


月岡芳年の山崎大合戦之図

山崎の戦いという。明智光秀は戦地から、命辛々、抜け出したものの戦国時代に特有の落武者狩りの慣行から農民に殺されてしまったらしい。京都の小栗栖で中村長兵衛に竹槍で突かれて致命傷を負った。羽柴秀吉が仕える新たに地元を支配する織田氏の勢力に敵対するから生かしてはおけないと見做されたからだ。


月岡芳年の山城・小栗栖の月

現在、三日天下という言葉が語り継がれていて明智光秀の天下人としての極めて短い十三日の中でさらに統治活動を行ったのが、事実上、三日しかなかったせいみたいで、不名誉な記録を残していた。


考えると歴史の謎に打ち当たらずにいない


明智光秀は織田信長の配下武将の羽柴秀吉に後からあっさり打ち滅ぼされるにも拘わらず、なぜ本能寺の変を企てたのか。所謂、下克上だけれども恐らく血眼になりながら命も捨てるつもりで謀反を働いてまで主君を殺さなければならなかった家臣としての動機が非常に不透明だし、分かり難かったんだ。


調べると野望説と怨恨説が長らく大きく唱えられていた。野望説だと明智光秀の先読みの悪さが明らかに露呈している(本気ならば武力が弱過ぎたのではないか)し、怨恨説だと織田信長が必ずしも酷い性格ではなかったのではないか(一対一で殺害しても済んだはずにせよ)と何れも腑に落ちない部分が避けられない。他にも様々な説が小さく飛び交ってもいて収拾が付かないくらい錯綜している。


土橋重治宛の明智光秀の直筆の書状が発見されて将軍の足利義昭を立てるべく室町幕府の再興を目指した義昭陰謀説が信憑性を増して来た。


明智光秀は将軍の足利義昭と組んでもしも勝てば皆は付いて来るはずだし、日本の治世も上手く行くと期待しながら織田信長に反旗を翻そうと決意したのではないかと推測されなくはない。


ただし書状の内容が結果的に被っていると考えられなくはないから難しい。本能寺の変が引き起こされる前に明智光秀と足利義昭の繋がりがどのくらいあったんだろうと疑問が付き纏ってしまう。


本能寺の信長公廟

元々は配下武将として仕えていたから何の関係もないわけではなかったにせよ、織田信長にも同時に仕えていて途中から主君は彼一人に絞られるという流れになっている。足利義昭が織田信長によって日本の治世から遠ざけられる状況と呼応しているようだ。完全に切り離された時点、元亀四年(1573年)の京都からの追放で室町幕府の滅亡とも捉えられるけれども直接の要因だった二月から七月にかけての槇島城の戦いに明智光秀は織田軍の武将として参戦していたんだ。


すると室町幕府の再興を目指して足利軍を挙兵した足利義昭とは決定的に敵対していたといって良い。


室町幕府の滅亡から足利義昭の社会的な影響力は一気に下がって歴史の表舞台から姿を消したに等しい格好で、織田信長が天下統一へ向かって全精力を傾け出して行くところに明智光秀も付き従うばかりだった。


気になるのは明智光秀の本能寺の変の動機で足利義昭による室町幕府の再興に加担していたかどうか、いい換えると義昭陰謀説が正しいかどうかだけれども元々は仕えていたから恩義はあったとしても室町幕府の滅亡から人生の袂を完全に分けてしまっているために明智光秀が織田信長の知らないところで足利義昭と繋がりを持つとはちょっと想像し難い。


書状などの歴史的な証拠は何も得られてないようなので、本能寺の変について土橋重治宛の明智光秀の直筆の書状は結果的な内容しが示してない感じが濃厚だろう。


しかし明智光秀が新たに天下人になって京都へ足利義昭を将軍として呼び込みたかった気持ちでいたのは事実に違いない。


日本の治世を正面に維持するつもりだったとすると明智光秀が本能寺の変を企てた動機も最初から天下人を狙っていた可能性は高い。


参考:本能寺の変は室町幕府再興が目的か 光秀直筆の書状を確認 明智光秀の「新史料(原本)」発見、足利義昭は本能寺の変の黒幕なのか

コメント

些細な日常の人気の投稿

MOTOROLAのMoto G5 Plusを使い出してのスマホレビュー

Imgurで画像URLと埋め込みコードを取得する方法

PlayストアでAndroidアプリのダウンロードが非常に遅い場合の打開策