吉田兼好の徒然草の書き出しは妙絶な日本語で覚えるのにも骨が折れなくて凄い 結城永人 - 2017年9月21日 (木) 読んだかどうかも分からないくらい自然に記憶に刻まれる文章があって覚えるのに本当に骨折れない感じがするけれども日本の鎌倉時代の随筆家の吉田兼好/兼好法師の徒然草の書き出しの一文が凄いと思うし、妙絶な日本語ではないかと作家として学びもするんだ。 つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ。 仮名と訳文 つれづれなるままに、ひぐらしすずりにむかいて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくかきつくれば、あやしゅうこそものぐるおしけれ。 手持ち無沙汰のままに、日を暮らして硯に向かって、心に移り行く他愛もないことを、取り留めもなく書き付けると、奇妙に物狂おしいなあ。 吉田兼好の徒然草(仮名と訳文は筆者) 内容上、最後の「怪しうこそ物狂ほしけれ」の気持ちが出だしの「徒然なるままに」の何癖ない流れから驚異的に切り替えされているところが特筆に値するし、一度、読んだら容易に忘れられないほどの衝撃を与えている。 作家の良さというか、言葉で世界が変わる瞬間を鮮烈に捉えている Kenko Yoshida by Yosai Kikuchi / Public domain ただし恐ろしさを孕んでいるために只単に喜ばしいわけでもないのが、一体、何だろうと引き付けられる。精神を病んでしまうのではないかと身震いするほどの言葉遣いなのは間違いないし、考えたくても深入りするのを躊躇わされてしまう。 かつてフリードリッヒ・ニーチェ(哲学者)ならば思索の果てに発狂して最晩年は何もできなくなったといわれる。 吉田兼好が徒然草で取り上げた物狂おしさは《文章を介した思索の精神にとっての危うさ》と符合するのではないか。作家活動を健康的に続けて行くための認識、または方法への重要な示唆を与えているように感じる。吉田兼好本人には精神を病んだ形跡が全くなくて、生涯、作家として大丈夫だったらしいから参考にして良いはずだ。 興味深いのは「書きつくれば」と作家活動に自覚的だった。思索よりも文章とは何かを追求する気持ちが大きかったために発狂しなかったのではないか。しかし精神が崩壊する悲しみを捉えていた。吉田兼好が思索と無縁だったようには見えない。出家してお坊さんだったらしいので――名前を兼好法師と呼ぶ場合の法師は仏教の僧侶を指す――著作を除いても一般的に思索とは馴染み深い生活を送っていたと想像される。文章だけに終わらなかった全ては「心」を対象にした作家活動のせいだろう。胸のうちで思索を行って自分は発狂すると感じてしまった。すると脳への影響は少ないわけだから酷くても比較的に耐えられそうではないか。作家活動で精神が崩壊する悲しみを免れるには頭で考えるのをなるべく控えておきたいと教えられる。 吉田兼好の妙絶な日本語と独自の言葉遣いが素晴らしいのは「心」を捉えていて情趣に満ち溢れているせいだ。芸術的な完成度が高くて美文に他ならないといって良い。胸のうちで思索を行うスタイルは作家活動を健康的に続けて行くのに加えてそれ自体でもとえも面白いのではないか。自己表現が精確なほどに作家にとって満足感は大きいはずだ。文章で「心」を外してはどんな思索も上手く行かないのが作家だし、真実を求めるかぎりは混乱した頭で精神を病むしかないかも知れない。 本当に徒然草は吉田兼好の代表作だけれども作家活動の勉強になると取り分け書き出しの一文が素晴らしく有り難い Tsurezuregusa by Kenko Yoshida / Public domain 詰まらない暮らしを自分らしく切り抜けるみたいな生きるヒントらしい見方も可能ながら精神が崩壊する悲しみを含意するから考え方は深い。 物狂おしくなければ徒然はないだろう。吉田兼好が手持ち無沙汰の毎日を強いられているのは少なくとも不気味なまでの不安感と切り放せない。だからこそ「よしなしごと」しか思い浮かばないし、いつも恐ろしいゆえのどうにもならなさが徒然草の生活なんだ。 生死の境を彷徨いながら存在しているせいで、作家とはいえ、本業の如何にもお坊さんらしい発想だし、命の尊さを絶えず、念じて止まない姿勢は珍しくない。 吉田兼好が凄いのはやはり妙絶な日本語で、何といっても「心」の知覚に尽きる。考えると森羅万象の生と死を切り分ける動きに触れた痛ましさから頭が混乱して発狂するのも已むを得ないところで、お経を唱える代わりに文章を書いて堪えたようにも受け留められる筆致が特徴的だ。命の尊さを掴んで放さない思いが込められている言葉遣い、すなわち作家としての自己表現が行われていたとすると拝みたくなるほどに崇高な世界を提示しているとも過言ではない。 覚えるのに骨が折れないのは気に入っているせいで、好きでなければ自分から遠ざけるのが人間の性だけれども命の尊さが心の知覚で示された徒然草の書き出しの一文が他に例がないくらいすんなり記憶に刻まれてしまうのは必要なためだからかねて見付け出したのは本当に愉快だし、幸せな巡り合わせとしていつも大事にしながら生きて行けると望ましいと感じる。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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