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ビリー・ホリデイ|ジャズ・シンガー

ビリー・ホリデイ/Billie Holiday。1915年4月7日生まれ。アメリカのペンシルヴァニア州フィラデルフィアの出身。ジャズを歌う。

マイクの前で歌うビリー・ホリデイ

未婚の十代の父母の元で、見捨てられた幼少期を送る。父親はジャズのギター/バンジョー奏者で、自分の仕事を追求するために――一説によると母親が職場で知り合った男性が本当の父親だった可能性も否定できないらしい――家庭を離れた。母親もメリーランド州ヴォルチモアで、既婚の半血の姉に子供を任せながら――妊娠が発覚すると両親から家を追い出されていて頼めなかったせいもあってか――専ら鉄道の給仕として一人で生計を立てていた。

実際、ビリー・ホリデイは養育者の母親の半血の姉からも疎まれがちで、さらに任されたその義理の母親が面倒を見ることが多かった。

1920年に母親が他の男性と結婚して家庭が益しになるものの二年で離婚すると以前と又同じようにビリー・ホリデイは親戚に殆ど預けられる生活だった。

九歳のときに学校へ行かない日が増えて少年裁判所に呼び出されて恐らく本人の性的虐待の被害の証言から善き羊飼いの家という問題を抱えたアフリカ系アメリカ女児のためのカトリックの教護院に送られた。そこでキリスト教のカトリックの洗礼も受けた。

在籍中、修道女から制御不能と厳しく咎められつつも九ヵ月で母親の元へ仮釈放が認められた。

母親がイースタンサイドグリルという食堂を始めてビリー・ホリデイも一緒に何時間も働きながら十一歳で学校を辞めてしまう。

ところが翌年のクリスマスイヴに隣人が家に忍び込んで母親が気付いて上手く反撃して警察に逮捕されたもののビリー・ホリデイは性的虐待を被ったんだ。事件の立証人の保護拘置において善き羊飼いの家へ再び戻されることになる。数ヵ月後の十二歳の少し前に釈放されると売春宿で雑用の仕事に就いたけれどもこのときに初めてルイ・アームストロングのジャズやベッシー・スミスのブルースを聴きながら歌ってみて音楽に心の慰めを感じたそうだ。

1928年の終わりに母親がニューヨーク州のハーレムへ引っ越してビリー・ホリデイは又暫く親戚に預けられると翌年の始めに同じように引っ越して一緒に暮らすんだ。

母親は売春婦をやっていてビリー・ホリデイも十四歳にも満たないながら同じになるけど、しかし数ヵ月で警察に摘発されて二人とも収容作業施設へ入られて母親は六月、ビリー・ホリデイは十月に解放された。

次いで1930年からビリー・ホリデイはナイトクラブで歌うようになり、このとき、本名のエレオノーア・フェイガンからビリー・ホリデイという芸名を使い始めた。名前は憧れの俳優のビリー・ダヴから、名字は父親のクラレンス・ホリデイから取っている。英語だと人名のホリデイは一般的に「Holliday」だけれどもビリー・ホリデイの場合は「Holiday」と「l」が一つ少ない。最初は二つだったのがいつの間にか変わってしまったらしい。

歌手として評判が良くなると色んな店で歌うようになり、父親が所属するフレッチャー・ヘンダーソンのバントとも出会した。

転機が訪れたのが十七歳のときで、コバンズというクラブでモネット・ムーアの代わりに歌っているとモネット・ムーアを目当てにやって来たプロデューサーのジョン・ハモンドに偶さか気に留めめられた。1933年11月、十八歳で、Your Mother's Son-In-Lawコロムビアレコードからレコードデビューを果たした。新進気鋭――全米で人気者になる寸前――のクラリネット奏者のベニー・グッドマンが参加してベニー・グッドマン&ヒズオーケストラとして発売された。次作のRiffin' the Scotchこそヒット曲になり、ヴォーカルのビリー・ホリデイの名前も人々に相当に知られ出して来た。

そして1934年はニューヨーク州の競合相手が犇めき合うバーで存在感を高め、アポロシアターへも出演し、1935年の前半はデューク・エリントンのミュージカルショート(音楽の短編映画)のSymphony in Black: A Rhapsody of Negro Lifeに出演してSaddest Taleを歌った。後半はピアニストのテディ・ウィルソンと組んで流行り出したジュースボックスのために録音した。当時、スイングスタイルで即興して感情豊かに歌うのが革新的だったようだ。What a Little Moonlight Can Doが受けるとレコードとしても発売されてTwenty-Four Hours a DayIf You Were Mineなどのヒット曲が続々と生み出された。

以前から仲良しだったテナーサックス奏者のレスター・ヤングが良く伴奏して――テディ・ウィルソンのところではクラリネットを吹いた――ビリー・ホリデイに「レディデイ」という渾名を付けた。キリスト教では新約聖書の聖母マリアが天使ガブリエルから救世主/メシア:イエスキリストを身籠ると初めて聞かされた場面に因んだ三月二十五日のお告げの祝日を意味する。ビリー・ホリデイの名字の綴りが通常の名前の場合よりも「l」が一つ少なくて英語で祝日(休日/祭日)を意味するのとかかっているけれども品性から聖母マリアに通じる気持ちを得た。彼女は友情を受け取り、彼を「プレズ」と呼んだ。現職のフランクリン・ルーズベルト大統領を意味するプレジデントを縮めている。ビリー・ホリデイにとって周りの偉大な男性として正しく捉えられた。

1937年の後半はカウント・ベイシーのビッグバンドでヴォーカリストを務めた。町から町へ移動してクラブで一夜限りの演奏を行う。ビリー・ホリデイは恋に破れた女性を描き出すように歌って編曲も手掛けた。

ただし一年も続かず、気紛れで当てにならないという理由で解雇されてしまう。一昔前の楽曲を歌うように頼まれたのを拒んだりしたのが影響したかも知れない。本人は低賃金や運営が貧弱なのが

しかし直ぐにアーティ・ショウのバンドへ招かれた。白人バンドに黒人歌手が入るのは画期的で、1938年から白人に差別される黒人が多かったアメリカ南部への巡業を行った。バンドリーダーのアーティ・ショウはビリー・ホリデイの耳や時代感覚を高く評価して歌手として擁護したけれども興業主や支援者から嫌悪され、公演では他の白人歌手と一緒に音楽堂に立てないとか観客からは無下に罵倒されるなんて屈辱的な日々が続いた。そしてリンカーンホテルで客なのに貨物用のエレベーターに乗ってくれ――白人の客がホテルに黒人は駄目だと注文を付けたためらしい――と頼まれた時点で、もう本当に耐えられず――不公平な対応から黒人は人間ではないとはっきり思い知らされてしまったせいか――ビリー・ホリデイはアーティ・ショウのバンドを間もなく辞めざるを得なかった。

1939年に本人どころか黒人音楽でさえも代表するほどの名作中の名作のStrange Fruitが発表されるんだ。

ユダヤ系アメリカ人の教師で、音楽家だったアベル・ミーアポル(ルイス・アラン)のアメリカの白人のリンチ(私刑)で惨殺されて木に吊るされた黒人の死体――十九世紀後半から二十世紀前半まで性別年齢を問わず、四千人近くの被害者が確認されている――を悼んだ詩が取り上げられた歌で、最初はローラ・ダンカンが歌って少しずつ広められていた。

新しく人種交流が盛んなカフェソサイエティというクラブができてビリー・ホリデイが歌いに行くようになり、常連客だったアベル・ミーアポルと知り合って共感してその歌の存在を知った。最初は黒人差別に抵抗するにせよ、無惨な死体を表現する露骨で強硬な内容に疑いを抱いたものの歌ってみるとカフェソサイエティの皆から反響が大きく、彼女の歌手としてのニュアンスや名状し難い表現に称賛が送られるに連れてメインのレパートリーに変わって行った。

自分の辛い経験だけではなく、数年前、1937年に音楽の巡業中に肺炎を起こした父親が黒人差別の激しいアメリカ南部のテキサス州ダラスで、白人の医師たちから治療を断られて死亡したのも相当に大きかったし、Strange Fruitには真っ先に思い起こされるという。

ジョン・ハモンドが政治的で悲痛的なイメージを警戒してコロムビアレコードから出さなかったけれどもミルト・ゲイブラーが自身のコモドア・レコードから出すと多くのラジオ局で放送禁止になるほどの論争的な内容でもジュークボックスで盛り上がり――カップリングのFine and Mellowも注目を集めながら――可成、売れた。

1940年代の前半はStrange Fruitの波に乗るように好調な人生だったけれども後半から暗雲が立ち込めた。アメリカ南部であからさまな黒人差別の被害を受けた頃から悲しみを紛らすように酒と大麻の使用が増えていたけれども1941年に初めて結婚した夫のジミー・モンローがトロンボーン奏者だけではなくて麻薬の密売人もやっていたらしくて阿片やコカインという依存性の高い薬物を勧められるままに手を出してしまった。加えて付き合った愛人ともいわれるジョー・ガイがトランペット奏者だけれどもヘロインの常習者で一緒にやるようになってしまった。ヘロインは依存性が最も高い薬物の一つで、どんどん深みに嵌まって抜け出せなくなる。ビリー・ホリデイは音楽や映画で大儲けできるところまで来ていたけれども大部分をヘロインに使っていたらしい。

母親の死もあって酒と大麻、あるいはもっと恐ろしい違法薬物への現実逃避が止まらない中、1947年5月についに麻薬の不法所持で警察に逮捕される、禁固八ヵ月の刑が宣告されて刑務所に服役させられた。夫と離婚して愛人とも別れたけれども最も厳しかったのはニューヨーク州のキャバレーカードを、十二年、取り消された。1940年から1967年までニューヨーク州でへ酒を出す店で悪党を締め出すために芸能人へ二年毎に更新しなくてはならない資格証を発行していた。ビリー・ホリデイはStrange Fruitを発売したコモドアレコードのミルトン・ゲイブラーの伝で、1944年からデッカレコードと契約したけれどもそれ以前のレコードの印税が殆ど入らなくてニューヨーク州の出演料が高いクラブで、連日、歌うのが最大の収入源になっていたんだ。キャバレーカードが取り消されると、時々、レコードを出すかコンサートを開くしかなくて生活に困るわけだった。

翌年3月に出所すると同月にニューヨーク州のカーネギーホールのコンサートで音楽活動を再開した。どうなるかが心配されたものの前売り券が直ぐに売り切れて会場は観客で溢れる大盛況だった。ところが一年も経たず、1949年1月にビリー・ホリデイは再び麻薬の不法所持で逮捕されてしまう。チンピラのジョン・レヴィーという新しいマネージャーと一緒にホテルの部屋で違法薬物が警察に見付かった。裁判では自分たちのものではないと抗弁して全てはでっち上げだと主張したのが陪審員に認められて無罪となり、五ヵ月後に釈放されて何とか無事だったんだ。

ジョン・レヴィーは前年にキャバレーカードなしの違法のクラブ営業を企ててこのときは警察に摘発されなかったけど、とにかくビリー・ホリデイはクラブの出演料を大幅に減らされたり、暴力で脅されたり、本当にがめつく利用されるたけだった。

1950年に酒や麻薬や暴力による健康悪化で喉を壊して正面に歌えなくなり、デッカレコードから契約更新を断られ、多額の借金を抱えるという不幸に苛まれるばかりだった。

しかしマネージャーに昔馴染み――十六歳のハーレムでの恋人――のルイ・マッケイを迎え入れると復調の兆しが見えて来た。マフィアの用心棒だったらしく、違法薬物と暴力被害と金銭搾取も相変わらず、付いて来てしまうにせよ、カリフォルニア州ロサンゼルスでビリー・ホリデイは同地のジャズのレコードの起業家のノーマン・グランツが始めたクレフレコードと1953年からノーグランレコードと1956年からヴァーヴレコード(クレフレコードとノーマンレコードを一部に吸収する)と契約できたのが幸いだった。初期のコロムビアレコードの頃のような少人数の親密な演奏が行われて例えばベン・ウェブスター(テナーサクソフォニスト)やフリップ・フィリップス(テナーサクソフォニスト)やオスカー・ピーターソン(ピアニスト)やハリー・スイーツ・エディソン(トランペッター)やチャーリー・シェイヴァース(トランペッター)やアルヴィン・ストーラー(ドラマー)やレイ・ブラウン(ベーシスト)やバーニー・ケッセル(ギタリスト)といった優秀な演奏者たちとの接触によって音楽活動に活気を取り戻した。

ビリー・ホリデイはノーマン・グランツのプロデュースで毎年と計十五枚のアルバムを精力的に発表した。

  1. Billie Holiday Sings(1952)
  2. An Evening with Billie Holiday(1953)
  3. Billie Holiday(1954)
  4. Billie Holiday at Jazz at the Philharmonic(1954)
  5. Music for Torching(1955)
  6. A Recital by Billie Holiday(1956)
  7. Solitude(1956)
  8. Velvet Mood(1956)
  9. Lady Sings the Blues(1956)
  10. Body and Soul(1957)
  11. Ella Fitzgerald and Billie Holiday at Newportエラ・フィッツジェラルドとの共作/1957)
  12. Songs for Distingué Lovers(1957)
  13. Stay with Me(1958)
  14. All or Nothing at All(1958)
  15. The Essential Billie Holiday: Carnegie Hall Concert Recorded Live(1961)

A Recital by Billie HolidayAn Evening with Billie Holidayの七曲とBillie Holidayの五曲、SolitudeBillie Holiday Singsの全曲とAn Evening with Billie Holidayの一曲とBillie Holidayの三曲を纏めた再発売(レコードの標準の大きさが10インチから12インチへ変更されたため)のアルバム。
Billie Holiday at Jazz at the Philharmonicは1940年代半ばに録音された一昔前のライヴアルバム。
Ella Fitzgerald and Billie Holiday at Newportは1957年に録音された同時代のライヴアルバム。
The Essential Billie Holiday: Carnegie Hall Concert Recorded Liveは1950年半ばに録音された遺作のライヴアルバム。

百以上の新曲、または旧作の歌い直しのスタジオの他にライヴの音源も含まれている。歌い方に関して本人はトーチシンガー(感傷的な愛のトーチソングを歌う)と自認して取り組んでいたそうだ。体力は著しく低下しているけれどもその中から煌めく命の輝きの趣きが極めて素晴らしい。ビリー・ホリデイの生涯において最も個性的で、歌手として傑作揃いの時期と捉えられる。

以降、健康状態がさらに悪化して声も荒れ果てたけれどもコロムビアレコードから1958年にアルバムのLady in Satinを発表した。気に入りの音楽家のレイ・エリスのバンドと共に仕上げて荒れ果てた声の不評はありつつも溢れるばかりの情緒的な歌い方には好評を得た。人気は必ずしも衰えず、コンサートも良くやっていたけど、しかし1959年1月に病院で肝硬変が診断された。長年の飲酒過多が主因か、回復は上手く行かず、酒も麻薬も止められないビリー・ホリデイだった。もはや周りの人たちも直ぐに病気と分かるくらいげっそり痩せ細っていたらしい。同年3月にそれでもアルバムのLast Recording(元の題名はBillie Holidayで、復刻盤が発売されもした)の録音に取り組んでいたんだ。レイ・エリスを今度はプロデューサーに招いて契約も移籍されたMGMレコードへ切り替えながら全幅の信頼を寄せて仕上げた。発売されたのは1959年7月17日に肝硬変からの心不全によって四十四歳で亡くなった直後で、ジャズシンガーに生き切った冥土の土産として如実に受け留められる。

代表曲はWhat a Little Moonlight Can Do(映画のRoad Houseロードハウスの挿入歌/1935)やSummertime(ジャズスタンダード/1936)やI've Got My Love to Keep Me Warm(映画のOn the Avenue陽気な街の挿入歌/1937)やStrange Fruit(1939)やGod Bless the Child(1941)などがある。

甲高い声と過不足のないスタイルで時代の伝説となった真正のジャズシンガー。

原文

Quintessential jazz singer whose reedy voice and laconic style made her a legend for the ages.

ビリー・ホリデイは波乱万丈としかいいようのない人生の全てが歌に込められているのが余りに美し過ぎる気持ちを呼び覚まさせる。音楽を越えて一人の人間としてまるで夢のように触れ合える稀有な歌手だと感じて止まない。

1962年の第四回グラミー賞でアルバムのThe Essential Billie Holiday (Carnegie Hall Concert)が最優秀女性ソロヴォーカルパフォーマンス賞、1974年の第十六回グラミー賞でアルバムのSongs And Conversationsが最優秀スポークンワードレコーディング賞にノミネートされ、1988年の第三十回グラミー賞で自身が特別功労賞生涯業績賞を受賞した。

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