素晴らしい人がカラオケで槇原敬之のどんなときも。を歌ったら好青年の雰囲気に打って付けだった 結城永人 - 2018年1月15日 (月) 青春期、一度だけ素晴らしい人がカラオケを歌うのを聴いていて選曲が槇原敬之のどんなときも。だった記憶があるんだ。驚いたし、余りに相応し過ぎるというか、好青年の雰囲気にとても良く重なっているせいだった。 加えてカラオケは自分の雰囲気に合わせて選曲するのが好ましいと学んだ。実行するのは大変なはずだし、気持ちがいつも周りからどのように受け取られているかの自己分析が欠かせないと考えながら密かに参ったりしたのも覚えている。 僕は皆でカラオケに出かけるのは初めてだったし、何をどうするべきかも定かではなかったので、振り返ってみると本当に新しい発見が多かったんだ。 最も気になるのは素晴らしい人と好青年の雰囲気が槇原敬之のどんなときも。で結び付くのはなぜかだった。率直にいうと何でこんなぴったりなんだと不思議に感じながらカラオケを聴いていたわけで、驚くだけではなくて内心では解き難い謎としてずっと残ってしまっていた。 槇原敬之のどんなときも。はポジティブな人生の応援歌だ 槇原敬之 - どんなときも。|Warner Music Japan 歌詞で印象深いのは「僕が僕らしくあるために」の一節で、人間の気骨を物凄く感じさせてくれる。我が道を行くけど、ただしユニークなのは理由を的確に説いている。日本の歌謡曲ではありがちな趣向かも知れないけど、槇原敬之ならではのイメージの所以はラブソングではなかったんだ。どんなときも。は飽くまでも人生の応援歌と捉えるとポジティブな要因が恋人との約束だから二人だけの秘密みたいに閉じられなかったところが際立っている。一言では「夢」が重くて自分自身の全てを含んでいるのが良いと思う。頑張るとは何かがまるで文学作品のように伝わるし、人間の気骨によって本当に知るために経験されるべき月日そのものが集約的に表現されている。畢竟、目標実現に努力した結果が納得できさえすれば失敗しても構わないというと槇原敬之のキャラクターだろう。どんなときも。は世の中で弱者への慈愛に満ちた優しさがはっきり示されているから代表曲に他ならないと考える。 生活上、誰でも助けるみたいな懐の深い思いが好青年の雰囲気を呼ぶとすると槇原敬之のどんなときも。には認められるし、カラオケで歌ったらとても良く重なっていたとかぴったりなんて気持ちが本当ならば素晴らしい人にもあったためだと改めて想像されて来て胸に染みる。 思い出を挙げると女子高生とのデートが象徴的だった あるとき、新幹線の弁当販売などのアルバイトに素晴らしい人が行って女子高生と出会って意気投合してディズニーランドへのデートを約束したと僕に話していた。聞くや悔しくて格好良くて女性に持てるならば僕には負けるつもりはないと思いながら黙っていたけれども男性として素晴らしい人は凄いとも感じた。または流石というか、たった一日のアルバイトで女子高生を心から引き付ける魅力を持っていたとしても怪しくはなかったせいだった。偏に羨ましがりながら後からどうなったのかは深く尋ねなかったものの好青年だから素晴らしい人には女子高生とのデートもあり得ると認めたのを覚えている。 愉快なお兄さんといって良い。喋りが面白い。必ずしも笑わせるわけではなくて言葉が途絶えないから女性にとっては相当に付き合い易そうだ。どこから出て来るのかとびっくりするくらい言葉が続くのが素晴らしい人の触れ合いの特徴だった。話題に切れ目がなくて女性に持てる男性は少なくないと思うけれども印象は合致してなかった。何もいうべきことがないところで、不意にポンポン出される言葉ほどに有り難い人間関係はないのではないか。素晴らしい人には気不味い沈黙みたいな感じは只の一瞬もなかった。 人当たりに非常に優れていて触れ合いが風なんだ。 例えば人魚的な人は素晴らしい人と接するといつもきょとんとしているように見えた。何かを頑張るとかなんて無縁で、総じて気楽に生きてそうな世界が好対照だったせいに違いない。素晴らしい人は透き通った幸せを絶えず、周りの人たちに振り撒いていたに等しかったし、それはそれは気持ち良く過ごさせてくれていたわけだろう。 とはいえ、槇原敬之のどんなときも。のメッセージから考えると内に秘めた情熱は人一倍に大きかったのではないか。 皆に合わせるのが上手過ぎてしまうかぎり、慈愛に満ちた優しさを持つという筋金入りの好青年だったし、およそ懐の深い思いから温かいかぎりの雰囲気は並外れて魅力的だったにせよ、日々の触れ合いでは反対に自分自身が埋没し兼ねなかったりもしたようだ。 素晴らしい人は他の誰でもない個性そのものを人間の気骨から力強くも燃え上がるように捉えていたはずだし、生活上、まだ若くて不十分に感じたとすればもっと成長するのを夢見ながらカラオケで槇原敬之のどんなときも。を歌っていたんだと理解できる、ついに。 長年の謎でしかなかった僕自身の疑問が初めて解決されるというのも嬉しいかぎりだ。 カラオケの選曲に人柄が出るとすると槇原敬之のどんなときも。が素晴らしい人に打って付けだったのは本当に素敵だろう。自分らしさの横溢した世界が何よりも好青年の雰囲気に包まれていたわけだから出会いこそ裏切られない。どんな付き合いでも受け取った幸せと忘れ難い経験の数々を思い出だけに終わらせないで欲しいと願う。永遠に尊ばれるほどの真実を青春期に一度だけでも手に入れていたのは明らかだった。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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