身近での父親の本当に生きた詩 結城永人 - 2016年7月28日 (木) 児童期に父親が一円玉や五円玉を大きめの硝子瓶に溜め込んで箪笥の上に置いていたことがある。本人の口から理由を聞いた例はなかったけれども母親がいうには《いつか大きな価値を生む》みたいな気持ちだったらしい。何だろうと思ったものだ。 振り返ると詩だった、しかも生活に役立つ本物の歌だったのではないかしら。 肝心なのは大きめの硝子瓶に溜め込まれた一円玉や五円玉の希望だと感じるんだ。小さな幸せを寄せ集めると大きな幸せになり変わる。または化けるといっても良いだろう。 絵本のスイミー(レオ・レオニ)を思い起こさせる。小さな魚が数多く集まって大きな一匹の魚に見せて泳ぐ。すると同じように大きな一匹の魚のどうしようもない強敵でも退けることができて食い殺されずに済んでしまう。勇気と団結力に胸痺れるほどの名作だったのは間違いないはすで、とても気に入っていたし、今でももちろん何一つ変わらずに含蓄深くて色々と考えさせられもする。 父親の大きめの硝子瓶は身近での本当に凄く生きた詩だった 小さなことを大事にしなかったら大きなことも結局は成し遂げれはしないと一つの気持ちから思いを紐解くように引き出せば些細な日常こそ脚光を浴びせられていた。まるて血筋は争えないみたいな仕方だけれども僕がブログでタイトルに付けながら些細な日常を重視するのは父親の影響だったとも決して過言ではないだろう。 気付かずに過ごしていたとおろおろ焦るほどにこれも些細な日常だと笑って良いふうに自分を立て直してしまう。一円玉や五円玉のように目に見えるものだけが重宝されるという心意気でもないので、普段から追い求めてないと味わうつもりでも難しいくらい極めて分からない世界が些細な日常だと感じている。 人によっては泥酔して記憶が飛んだ時間帯のまるで地雷を踏むから《何をか信ずるやモード》だし、僕はそこまで飲まないからあれにせよ、只、父親は殆ど、毎晩、酔っ払って過ごしてはいた。 些細な日常に触りでも気付くためには内面の桎梏を掻き分けなくてはならない かつての知らなかった全てが意味を持つし、分からなかった全てが価値を持つわけなので、本当に目の前の物事によって人間性が形作られているとはかぎらないと認めざるを得ない。 およそ辛いことや苦しいことの絶えない人生を送っているとしたら小さなことを見落とさずに幾つも掻き集めるようにしながら大きなことへ結び付けて行きたい。何もかも終わりではなくて必ずしも自殺するべきではないのではないか。大きなことで失敗したのは小さなことで数多く失敗した結果だと考えてみると遺言書へ今直ぐに取りかかるわけにも真意から行かなくなるだろう。 僕は歌う、夢と希望を携えてと。大きなことも宇宙全体にとっては小さなことかも知れないし、乗り越えた悲しみの上でもさらに別のもっと手酷い悲しみが待ち受けてそうだ。だが、同じでしかない、些細な日常としては。何度でも立ち向かうべきなので、さもなければ人生の幕は閉じられるわけだ、諦めながら。 今此処で落ち込むならば生きるだけではなくて生き続ける気持ちも変わらないから励まされる言葉として本当に凄く生きた詩は有り難い。 しっかり受け取ればもはや力強くも鋭気こそ養ってくれる 父親の大きめの硝子瓶は身近だったけれどもレオニのスイミーでも勇気と団結力が示されていた。社会的に心温まるイメージだけれども一人の内面に据えてみても助かるわけで、幾多の困難を弾き飛ばして押し潰されずに人生を好ましく過ごせるようになりたいと思わされる。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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