夜が更ければ魂の波動に触れるほどの…… 結城永人 - 2016年7月5日 (火) 見ていて氷り付いてそうで、滑らかに動いているような気分に引き込まれてしまうという絵がある。 デルヴォーのLunar Cityの感覚 Lunar City by Paul Delvaux デルヴォーのLunar City(月の町)は永遠を匂わせる。画面中央の女性のドレスの黄土色が印象強く心に働きかけるためだ。月明かりを取り込んで月へのイメージの流れを生み出している。 階段かも知れないし、列車かも知れない。月影に隠れるようにして描かれた骸骨のフォームと位置取りからすると線路は地上に遠くへと想像されるべきで、画面右下にもたった二段だけれども階段が描かれていた。どちらも月への流れにしてはイメージが浮かび過ぎて弱いとすれば殆ど沈んで強いのは黄土色のドレスの女性の左手を介して伸びて行く波動なんだ。 万物はあるがままに決定的な場面を繰り広げるのだった どんな可能性、または潜在性も唯一無二の歴史そのものを生き抜いて止まないというか。 左端の女性は誰だろう。月へは暮らすことのできない私の背けた顔へそっと寄り添うような恋しさを示している。恋しさは反対側の男女へ飛び火して行く。それは癒された私の胸の思いを取り分け示しているのではないか。 後ろ髪の長い女性が月影に濡れながら感じ取れないほどに暗く包まれた男性の後頭部を支えている。まるで後ろ髪が短いから摩っているわけで、思いの切なさを和ませずにいない。黄土色のドレスの私の気持ちに重なっては響き合うようにして右端の男性の夢が骸骨の向こうの山並みへと飛んで行く。私の気持ちも後を追いながら山並みこそ夢だったとも過言ではないだろう。 いつ終わったのか。骸骨が物語る寂しさは月への祈りを感じさせる。夢はまだ始まってないのか。 デルヴォーのLunar Cityで最も興味深いのは黄土色のドレスの女性の両乳首が骸骨の首と恋しさの片乳首よりも少し上にある。 夢としての山並みの頂上に彼女の心が表現されていた この山並み、私の両乳首と骸骨の首と恋しさ片乳首の三点で形成された詩は遠くの実際の山並みから画定されるけれども先立って根差された世界として味わわれるので、かぎりない夢を真実に捉えていると考えられずにもいられなくなる。私の心はどちらにせよ、もはや山並みの頂上に示されたとすると夢をかぎりなく抱き締めているんだ。素晴らしいと僕は感じる。 夢見る彼女の心の思いが主題ならば魂に裏打ちされるべきだけれどもデルヴォーは作中では見えない波動で受け取らせている。夜の静かな月明かりも詩になって全てを底上げしながら絵全体を纏め上げる。 縮めていえば夢見る思いは骸骨を介して癒しの男女の腰回りを巻き込みながら生命を芸術的に伝えているかも知れない。私の子宮が黄土色のドレスに遮られていることもやはり見逃してはならない。その奥で一人の男性が休んでいる。恋人像だろう、私にとっての。 精巣が右太股にしか遮られていないところは謎めいている デルヴォーは男性なのに生命への所信を削ったとすると母親が優しかったせいだ。何もかも見透かすという女性観が大きいから自分は少しでも隠さないと本分を保てないわけだと考えられる。だからこそ他の女性からも優しく接せられて魂に満ちた裸体の質感が絵に出せるのかも知れない。 どの絵でも女性は優しいし、男性は嬉しい。些細な日常というか、少ないけれども珍しくはない出会いなので、デルヴォーは凄いと感心するところだ。 ちゃんと見ている。普段から世界を注意深く観察しながら真実を知るために努力しているんだ。生きるために自分らしさは必ずしも必要ではないし、真実もそこにしかないはずではない。とはいえ、画家としての個性は明らかに打ち出される。 オーラが漂っていて如何にもデルヴォーだと直観される風合いを損なわない絵に仕上がっている。きっと紫だろう。夜の朧気な光に甚だ感じる。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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