コロッケのものまねは難聴から生まれたために見た目が非常に大きかった 結城永人 - 2016年12月25日 (日) 知らなかったけれどもコロッケ(芸人)は右耳が殆ど聞こえないらしい。 理由は子供時代に中耳炎が悪化して完治しなくなってしまった。家が貧しくて日々の食生活にも事欠くような状況が続いていてコロッケは耳が痛いのに親に一言もいい出せなかった。治療費をかけるわけには行かないと考えて何年も中耳炎を放っておいたら難聴にまで至ったらしい。 コロッケのものまねは親思いの優しさを秘め隠す 【五木ロボット】還暦超えてもまだ動けるのか!?【限界挑戦】|コロコロコロッケTV コロッケのものまねは岩崎宏美とか野口五郎なんて印象的だけど、近年は五木ロボ(五木ひろしのロボット:父親と昼食中に見ていて笑いが止まらなかった経験がある)か、しかし全て見た目が非常に大きいのは珍しかったと振り返る。 もし耳聞こえてたら、声帯模写の方に行ってたと思うんですよ。 最初は形だけなんで形態模写。 今で言うエアーものまねですよね。 顔とかいろいろ、ちあきなおみさんとか、こうやってやったり、 岩崎宏美さんとか、ンーってやったりとか、 それをレコードに合わせて、あの、吐息までまねするんです。 コロッケ/難聴が生んだものまね|ろうを生きる難聴を生きる 難聴から生まれていた、奇しくも。コロッケは右耳が殆ど聞こえないせいで、ものまねも見た目こそ観察しながら表現していたんだ。 家が貧しいから治療費を気にして耳が痛くても黙っていたという親思いの事情には感動するし、コロッケの優しさは大人になっても変わらなくてものまねにも反映していると改めて認める。 一見して気付かないのが本当に不思議で、コロッケのものまねには優しさがあるとはっきり伝わって来ないので、そこは秘め隠されていたのではないかと考えるしかない。 真実を出さないで、人々を包み込む世界がある 【五木ロボット】還暦超えてもまだ動けるのか!?【限界挑戦】|コロコロコロッケTV 料理の隠し味みたいに個性をカモフラージュしたものまねへの取り組み、または一つの生き方は子供時代と本当に変わらないわけで、コロッケはいうべき何も口には出さずにいる。 現代芸術の観点からすると極めて例外的というか、自分らしさがないに等しくて表現力が低いけれども人々に気持ちを伝えるためには大事だろう、とてもとても。 僕が僕は僕だといい張ってばかりでは自分以外の誰も寄せ付けないみたいに誤解される。サイトのアクセスアップにも全く繋がらないのではないか。一人でやっていろと思われたらどうしようもなく悲しいばかりの毎日だ。 反対にファッションデザイナーのゴルチエとか自分しか頭にない感じがするくらい奇抜な印象を打ち出して人気を博すという場合もあり得る。 ゴルチエが如何にも現代芸術(他の誰にも頼らず)だとするとコロッケは物凄く遠い。 とはいえ、同じだろう、芸術家として自己表現のスタイルを除くかぎり コロッケは決して真実を損ってはいないし、自分らしさは保ちつつも表立って人びとに示さないまま、雰囲気によって気持ちを伝えるという道を選んだのではないか。 奥床しいと受け留めると日本的な情緒かも知れないし、世の中で一人だけ前に出るのは避けたがるところが面白くも引き付けられる。 ものまねの見た目が非常に大きくて難聴から生まれているとした事実は人生において注目されてしまう、著しく。 日々、肝心なのはできないことよりもできることを掴めるかどうかではないか。 コロッケは速やかにできることを実力として身に付けてものまねに取り入れながら成功を収めたといって良い 考えると難しい。すなわち自分にとってできることは人生において成功を収めた後でしか実感されないためだ。 コロッケも人知れず、芸能界から消えていればできないことが正しかったのではないか。ものまねも見た目を誇張するような方法では世の中に通用しなかったと弱らされるはずで、予め一人決めにかかるわけには行かないのが実力の謎だ。 気がかりなほどに問われるのは信念しかない。良い結果を求めて努力する。できることに、精一杯、取り組んで天命を待つようにすればたとえ失敗したとしても悔いは残らないに違いないだろう。勇ましく邁進するのみだ、自らへの迷いは振り払って未來へ。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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