人生を賭けたチャレンジブログに明日は訪れるか 結城永人 - 2017年1月13日 (金) ブロガーで良いというか、もう本当にブログに人生を賭けて作家活動をやるしかないと鮮烈に思われて来た。 二十代から小説で十年くらいやってプロにはなれず、三十代から十数年くらい詩をやり出したもののやはりプロにはなれずに今現在のブロガーに至るまでには四十代中盤からだけれども本は出版できないままながらサイト広告でプロへのスタートラインに立つことが何とかできたわけだ。 作家としてプロへの夢を叶えるとすると三度目の正直だったと気付いた、目覚ましく。 かつて小説家よりも詩人を求めたように詩人よりもブロガーを求めて生まれ変わるように作家活動の主力をブログの些細な日常として人生も考えるべきではないか。 ブロガーの域に達したと詩や他の創作がメインで、ブログがサブという位置付けを取り払って少なくとも同じくらい一生懸命に頑張りたくなったと示したのが一昨年の暮れの約一年前だったけれどもまだ足りないし、アクセスは遅々と芳しくないからサイト広告で生活費も稼げないわけなので、プロも名折れの悲しみが酷い、努力の上積みが必要なのは間違いなくてもやはさらにもっと強くブログをプッシュして行かなければ何も改善されないまま、日々、注目される期待値こそ下がっても仕様がなさそうなんだ。 本当にブログ一つに全精力を傾けるように他の全ての作家活動にも況して取り組みたい いい換えればチャレンジブログで進むべき道が少しでも開かれるように祈る。 明日は訪れないともかぎらないと実感される生活でなければ夢は叶わないだろう、恐らく。 ブログで駄目ならば悔いはないと後から納得したい気持ちのためにもチャレンジが必要不可欠の人生ではないか。他にできる何かもあったとなると悔いは残るばかりだし、または自己表現の熱意も普段から衰えがちで、人々へも誤解を招き易くなってしまうはずだ、些細な日常が。作家活動に余力があれば何もかも掻き集めるようにエッセイ風の日記だけれども個々の記事に惜しみなく注いで行きたいと考える。 凄いとか頑張っているなんて称えられば人気者になれるとはかぎらないところがブロガーの難しさかも知れないし、訪問者によってはアクセスアップを真剣に考えたりすると鬱陶しいと二度と来ない可能性もある。 どんな気持ちでブログを捉えているかによって世間的には好感度も上下動し易いようだ 個性が問われるけど、僕としては死に物狂いが人々の気持ちを動かずにいないと考えてこそアクセスアップを夢見ているから情熱的に燃え上がりながらでしかやってないブログだとできるかぎり、分かり易く伝えるべきだし、他でもなく、作家活動の主力にしないと本当に望まれる世界には遠い。 ブログでサイト広告から稼ごうとすれば小説や詩を出版して売るのと基本的には一致しないし、色んなところから色んな人が来るわけなので、叩き売りこそ大事で。載せる記事もターゲットを幅広く捉えながら内容的にどれだけ薄めずに的確に仕上げて気持ちを引き付けられるかにかかっているはずだ。 作家活動として「人々のために励む」というけど、自分自身でも袋小路に入ってしまい兼ねない。記事が薄くなると作品の手応えがなくてそんな仕方で些細な日常のイメージも改めるべきかと風来坊伝説みたいなブログの方向性が良かったと気になるわけだ、むしろ。 面白いかぎり、詩に逆戻りとも過言ではないし、風来坊伝説みたいなブログならば作詩するべきではないか。 些細な日常は人々のために記事を濃く仕上げてこそ面白いので、自分自身でもうんざりぜすに続けられるし、そうした方向性を揺るぎなく保つためには決意を明かしておくには越さないと正しく感じるんだ。 ブログを主力に作家活動を新しく頑張ってみたい。小説家や詩人で本を出版できずにプロとして駄目だったし、又同じだとしても三度目の正直で人生を賭ける、死に物狂いで明日の訪れを夢見るくらいでなくては努力も虚しく納得できない。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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