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梶井基次郎の人を誉めさせる力は檸檬に逆らえない

日本の小説家では梶井基次郎が一等に好きで、今回の題名通り、真っ先に誉めさせられている、やはりと笑ってしまいもするわけだけれども本当に避けられないし、逆らえないのはなぜかと気になる存在そのものだった。


僕は一人で梶井基次郎の小説を読んでいて全集といっても昔から病気持ちで享年三十一という短命で亡くなったし、しかも寡作の文学生活だったゆえに文庫本でも厚めの一冊分くらいしかないから必ずしも大変ではなかったにせよ、何もかも読み尽くすように知っておかなければ仕様がないと感じさせられていた。


二十代中盤で、自分も小説家として毎日をパソコンと向かい合って必死に過ごしていたかぎり、他の小説も良く読んでいたし、本は良く買っていたものだった。


凄いのは別に梶井基次郎だけではないけど、とにかく驚いたのは梶井基次郎を誉める人が自分以外に見付かると悔しい気持ちが湧いて来た。


かつてなかったと思うし、珍しいというか、心密かに抱えていた喜びを誰かに持ち去られて薄められたみたいなイメージはあるかも知れないにせよ、梶井基次郎についてはちょっとした悲しみでも涙に変わるほどのリアリティーを受け取って心密かなままに考えていたかったと振り返ってしまったんだ。


着物を着て椅子に座って遠くを見ている梶井基次郎

新潮文庫の檸檬(梶井基次郎)の解説に小林秀雄が梶井基次郎を非常に高く評価していたと載っていたのが大きかった、とても。


いうと小林秀雄は日本を代表するような文芸評論家で、国内的には評論というジャンルそのものを初めて確立した、実質に優れた作品を他でもなく発表しながら世の中に広めたのではないかとも見做される作家だった。


僕自身も小林秀雄は好きだったし、例えばモーツァルトやランボーやゴッホという気に入った芸術家を評論で取り上げながら内容的にも納得できて共感したくなるような形で受け留めていたので、面白いと高く評価していたのは間違いなかったけれども梶井基次郎もそうだったと同じように告げられては以前の一人で愛読していたイメージが風に解き解されながらどこかへ消え去るように遠ざけられて行った。


本当、悔しいの一言に尽きるし、思わず、返して欲しいと文学的な洒落(叫ぶようにあり得ないと思えば)まで飛び出すほどの小林秀雄の梶井基次郎の誉め方には脱帽せざるを得なかったし、小林秀雄への見方そのものも新たに考えさせられるような衝撃も味わわれていた、甚だしく。


知ってみれば小林秀雄は梶井基次郎と嘉村礒多で「鋭敏な感受性が強いられた一種の胸苦しさ」だけれども「飽くまでも自然であり平常である」と梶井基次郎の小説を捉えていたらしい。


咄嗟に唸らされるけど、または「資質」に優れる作家とも呼んでいたみたいなので、考えると昭和時代の始め頃で日本では私小説、または純文学と呼ばれる作家が雨後の竹の子と隆盛を極める状況から特別視されたせいかも知れないし、梶井基次郎も文体は大差なくて当時のありふれた自己表現に終始していたはずで、文学史では私小説、または純文学として位置付けられるのが普通だとしても作家のモチーフだけは全く違うのではないかと感じさせて止まなかった。僕も初めて読んでから、大分、月日は流れたにせよ、今現在でもやはり何も変わらない気持ちがするわけなんだ。


有名作家でいうと芥川龍之介太宰治が自殺しているように精神的に追い詰められて耐え切れない部分が私小説、または純文学の人間的な弱さとして象徴化されるし、死因そのものは又別にせよ、誤解を恐れず、敢えて比較すれば梶井基次郎には本当に認められない。反対に人間的な強さこそクローズアップされるような作風なので、小林秀雄も「資質」によって正しく「平常」だし、いつもしぶとく生き残るみたいに捉えざるを得なかったのではないかと想像されてしまう。


梶井基次郎、生前は無名作家に近かった。だから世間的に相容れないのも事実だったというか、只、これも本当に芥川龍之介や太宰治と比較すればの予備知識のような感じでしかないけれども死後の栄光に包まれる切なさを携えていたんだ。


実際には他の作家との交流も多かったらしくて宇野千代への片思いと失恋などは伝記的には大きく取り沙汰される一つかも知れないし、人々に人気がある、本を出して売れたかどうかでは一人の作家の人生も語り尽くせないと思わせるところが凄く良いけれども全てでもない。


小林秀雄としては死後の栄光からたぶん考えてないので、時代に水が合わなかった有能振りからは発想されず、梶井基次郎を作家よりか作品で捉えながら「資質」も口にしていたに違いなさそうだ。


病身だし、現実的に逞しいはずでは決してなかったにも拘わらず、作品が素晴らしく力強いために精神性こそ注目されずにいなかったのではないか。


代表作の死霊で名高い小説家の埴谷雄高も梶井基次郎を激賞していて日本で一万円札の肖像に採用するべきだとまで持ち上げているのをテレビで観ながらもはや腰を抜かしかけた思い出もあるけど――まさか僕よりも完全に引き付けられた人間が他に認められるなんて悔し過ぎる余りのようだ――精神性から考えると日本では埴谷雄高が随一の文学者かも知れないから頷かれる面も少なくはなかった。


梶井基次郎の良さ、どうにも引き付けられる魅力のエッセンスは「飽くまでも自然であり平常である」と小林秀雄が見事にいい当てていたし、さらに個人の内面に据えてみれば埴谷雄高の気持ちも非常に分かり易かった。


作品も短編ばかりで読むには時間を食わなくて済む、小説としては。普段から慣れないほどに本の夥しいまでの活字と接するには有り難いけど、それが詩的な印象を与えると考えられもするところが梶井基次郎への喜びも心密かにというか、自分だけで知っていたいみたいによもや人を誉めさせる力とは何かを如実に伝えていると察するんだ。


もしかしたら時間を食わないのは小説が詩的に構想されていると確かめるように改めて読み返すと言葉遣いが正しく歌われたに等しい部分が数多く散りばめられている。


その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。



梶井基次郎というと檸檬が人々には最も良く知られていて作家としての代名詞とも過言ではないくらい同一視されていたりするし、後者は前者で、前者も前者だからイメージは本当に互いに互いを切り放し得ないのではないか。


作中、檸檬に感激してから「美的装束をして街を闊歩した詩人のことなど思い浮かべては歩いていた」とはっきりポエジーが示されている場面もある。


梶井基次郎は詩人だったと檸檬との触れ合いに関しては間違いなく認められるし、日々の病という厳しい苦しみの中から見付け出された世界の真の素晴らしさを作品に結晶した作家だったとすれば引き付けられないわけには行かなくて誉めるしかないと逆らえずにも断定したくなる。


生活に役立つ言葉、すなわち人生に欠かせない宝物のような芸術としての自己表現を残してくれたので、永久に不滅の印象が強い。


参考:檸檬 (小説)

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