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スピノザの哲学的な倫理学者としての方法

スピノザは人々に哲学者として長らく認められて来たけれども主著エチカは倫理学だし、生前から哲学者を取り立てて自認してはいなかったようだ。


まさか正しい選択だったと思う。なぜならスピノザの認識には取り除くことのできない欠陥というか、知覚上の不備が一つだけだけれども含まれていて哲学として厳密には成り立たないからだ。


主著エチカ、または前書きとも見做される知性改善論を読んでいて非常に感銘的で、他に例のない世界・自然・現実を生み出している真実そのもの(神の力能)を教えてくれるのにどうしても疑問を抱かざるを得ない部分がある。


バルーフ・スピノザ

スピノザは良くいう、定義を理解しない人には何も分からないと。例えば神は全知全能で何でも実現できるにも拘わらず、数多くの悲惨な出来事を招いているのはなぜかみたいな問いかけに対してそれも可能だった(何でもできればこその避け難さ)と応じるけれども本当に知りたいのは悲惨な出来事を直ぐ様と凌駕する喜びが与えられない理由だろう。神は全知全能ではなくて人間にとって不可能を可能にするような力を持ってないのではないか。するとスピノザが「絶対に無限の実有」(永遠無限の本質を表現する無限に多くの属性から成る実体)と神を定義した言葉、または知性的に受け取られた認識としての概念/哲学そのものも信用できなくなる。


この時点で初めてスピノザは口を閉ざす。神を絶対に無限の実有として定義から理解するかぎり、今此処が全てであって人生に自分が巻き込まれた世界・自然・現実を凌駕するほどの力は他にはない。知覚は根底的には永遠とまで加速されるけれども神については不変というか、今此処において真実そのものと信用される。悲惨な出来事も逃れられないゆえに正しいし、神の全知全能には相反しないどころか、瞬く間に完全に考えられさえもする。


余談ながらデカルトとの大きな相違点が今此処の捉え方に示されている。スピノザはデカルトの問題点を解き解しながら自らの見方を鍛え上げた哲学者と呼べるけど、すなわち「我思うゆえに我在り」というデカルトの方法には完全な神と不完全な人間という前提条件が想定されていたのを能力の増減によってどちらも完全だと捉え直した。


スピノザはデカルトの方法からコギト(思考主体)の完全性という概念を抽出した哲学者に他ならないみたいな感じだけど、神は強くて人間は弱いというスタンス、いい換えると思想を改めて掴んだ。かつては神が優れて人間は劣るために「我思うゆえに我在り」の方法も不完全にしか味わわれなかったんだ、デカルトにとって。


万物は千変万化に移ろい行く。真実そのものとはいえ、今此処が全てであっては謎が醸し出されるので、明かしておくとスピノザは物事を一瞬にして知るように神の力能から導き出す。宇宙の法則といって良い、端的には。


なので悲惨な出来事が喜びへと凌駕されるような歴史があるとすれば本当かどうかも神の力能に基づいて判断されるわけだ。


神が望むというとスピノザは好まなかった言葉遣い(余りに人間と同一視し過ぎる)かも知れないけれども絶対に無限の実有の意向に反しては何も生み出され得ないし、生み出され得る全てはそのように容認された結果でしかない。


宇宙の法則に合致するかぎり、悲惨な出来事も喜びへと凌駕されるので、できるできないだけでは物事の動きは悟られないし、少なくとも人間は弱いから望みながら速やかに夢を叶えられなくても仕様がないけど、さらに同じように神が無能力と結論付けるのも間違っている。


スピノザにおいて万物は秩序と連結によって神の力能から全て完全に生み出されている。


考えていて哲学として問題視されるのは神ではない個物、すなわち人間を含めた被造物の本質がどのように具体化されるか、様態として世界・自然・現実に存在するという組織性の概念の真偽に尽きる。


様態は神の本質を表現する属性の特質に他ならない。スピノザは人間を知るためにおよそ精神と身体という二つの属性を取り上げる。


神は全知全能だから属性も絶対に無限にあるけれども互いに外側からは知覚されない。ドゥルーズは「内在性」と呼んでいた。属性は神と同義なので、神に外側がないように属性も複数で対他的に知覚してはならない。何もかも自然が神(汎神論)だから実体として分割されないと考えられるせいだ、スピノザにとって。精神が身体を変えたり、身体が精神を変えたりはしないというと誤解され易いので――普段の感じ方ではない――注意するとライプニッツが「心身平行論」と呼んでいたけど、要するに属性はどれも同調して生成される。だから精神と身体は変われば両方ともそうなので、どちらかがずれてはいないし、諸々の属性から形作られる、または実体の力動的に表現し得る本質は一つしかない。


スピノザは口では何とでもいえるとこれも良くいうけど、とにかく大きいのは属性間の食い違い、事物の形相の生成的な不一致についてだろう。精神の知覚を身体に当て嵌めたり、その逆も然りで、一つの属性の述語を他の属性に等しく用いてはならないんだ。


事物の本質も一つしかない。だからこそ人間は神を知ることができた。神の本質が一つでなければ人間は完全には知らないし、デカルトのコギトのように不完全にしか味わえずに終わる、人間も精神と身体で別々の本質を持つならばやはり神の絶対に無限の属性には十全には及び付かなくなる。


神を知るとは神の観念を持つわけだけど、理性上は絶対に無限の実有の唯一性を対象としている。表象ならばどうでも構わないし、正しくも口では何とでもいえる状況だけど、人間も神もたった一つの本質で存在するかぎり、精神や身体の属性を通して知解されるし、見付けた観念が本質的に固有だとするとついに理解されるに至る。


反対に神からしても人間を知るための認識の流れは全く同じだから矛盾しない、思考において。人間と神で物事の見方が、丸っきり、相違しているのでは想像するだけでも互いに誤りを犯しているのではないか。


万物は一つの本質から何らかの属性に基づいて個物として生み出される。


神は本質も属性も絶対無限で、最強の存在を有する。怪しいのは被造物を内包する性質で、相対有限を特徴とする様態の本質が如何にそのように構成されるか。


万物は宇宙の法則に従って存在する。いい換えると神に包容された状態で、可能性と必然性によって時空を確保して定立している。


今此処が全てだと神の観念から物事を根底的に捉え返すと永遠を覚えてスピノザは「神への知性的な愛」というけど、しかしながら認識を決定付ける要因が分からない。


事物の本質的な知覚が永遠にせよ、相対有限を特徴とする存在を神の観念は無限に保証するに過ぎないのではないか。


スピノザは無限性から個物を妥当に把握している。宇宙の法則の内実も物事の原因の無限に続く連鎖なので、そこから抽象的に真に哲学的に永遠が導き出される。神の観念が絶対無限なのに唯一で、人間というか、被造物にも所有された属性によって理解されるためだけど、永遠の認識が却ってそうした個物という神の特質としての様態の在り方を打ち切りにしてしまう。


宇宙の法則から直ちに永遠は知られない。つまり物事の原因の無限の連鎖からは最強の存在としての神しか分からないので、永遠は飽くまでも神の観念の唯一性を知覚したかぎりの喜びなんだ。


哲学的に抽象化すると永遠の認識が個物において具体化されるためには他にも条件付ける認識が数多く存在しなければならない。


スピノザは神の絶対無限の特性を実体論的な構成からしか捉えてはならないと考えていて面白いと思うけど、とにかく能力が無尽蔵だから最強ではない。実体論的な構成、絶対無限の属性によって絶対無限の存在を有するために最強なので、いい換えると独立性を備えていて他の何物にも依存しないで、本質的に定立するからこそ最高に完全だと納得される。


永遠の認識は神については存在の必然性から導き出される。絶対無限で最強だからつとに消滅しない状態を示しているわけだ。しかしながら個物についても同じように導き出されてしまって神の観念から必然的な存在を本質的に直観して永遠の認識を持つとなると永遠の認識という観念自体に違和感が湧いて来るんだ。


個物は絶対無限に裏打ちされた観念を神のように存分に持つというか、表現するだけの属性は備えてないし、本質も十分に相応しく構成されてはいない。


神から生み出された様態にとって永遠の認識は存在において無理があるし、他の認識と同じように原因が自分以外の個物になくてはならない、つまり依存性に基づいた状態にも拘わらず、神の観念のように唯一性を示すのでは矛盾している。


保持してはならないのではないか、相対有限の存在ならば永遠の認識を妥当に。


成り立ちを考えると個物の神の観念の唯一性が属性に由来するから能力の範囲と限界が捨象されているためだ。宇宙の法則に気付いて「神への知性的な愛」が芽生えるとすれば事前に無限の観念の有効性が知られなくてはならなかった。


個物は無限の観念を妥当に持つことができるかどうか。スピノザは神の観念が神自身を写し出すようにしか無限の観念を考えてなかった。というのは無限は当たり前に数えられる数字ではないせいだから正しい。神にしか分からない。ある意味ではオカルトながら神の観念は無限だと想定してこそ個物も理性的には永遠の認識を得られると考えられた。


本当かどうかは何度もいうけれども個物にとって永遠の認識はそれ自体で神のように絶対無限に頷かれないので、他の原因になる永遠の認識がなくてはならない。


スピノザは神の観念から世界・自然・現実を包括的に捉えるように永遠の認識を打ち出したし、不都合は何もないだろう。永遠の認識はむしろ神に内包された理性的な存在の指標として機能する概念といって良い。


人生の究極の到達点、この上もない喜びの境地が永遠の認識だし、神から生み出された様態にとっては現世で見出だされるかぎりの至福そのものだと思う。


スピノザは哲学者を自認しなかったならば気付いていたかも知れないけど、独立性を持たない様態が神の観念から必然的な存在を本質的に直観して永遠の認識に至るまでの思考には不備が否定できない。一つの実体の無限の側面が神の存在を最高に完全と告げるように永遠の側面も神の能力を究極に至福と告げなくては哲学にはならないはずだ。


神は絶対無限の本性を構成する絶対無限の属性を備えるから永遠に存在すると分かるけれども永遠に存在するならばそれ自体も絶対無限でなければならない。能力としての絶対無限を神の観念として独立性から唯一性に置き換えただけのスピノザの方法は余りに抽象的に知覚していて真実そのものとは何かまでは知ろうとしなかったのではないか。


属性上の様態の展開は全て相互作用によって組織化される。個物が永遠の認識を得られるのは特質としての無限、すなわち宇宙の法則としての神の観念の形相性に支えられるかぎりだし、存在が新たに表現されたわけではない。神そのものというか、全ての本質的な原因を指し示した絶対無限によっては保証されないままだから比較的に不安定な状態を強いられているのは明らかだ。


スピノザが倫理学を望んだのはきっと人間が弱いためだろう。どんなに素晴らしくても永遠の認識は存在を気持ち良く作り替えた結果ではないから生活には影響しない。又別に悲しみもやって来るかも知れないので、物事を哲学的に見極めるよりもどんな社会が良いかを探し出すべさ道へ向かったに違いない。

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