イースター島のモアイは命の尊さを教えてくれる皆の守り神だった 結城永人 - 2017年6月11日 (日) 昔から何だろうと思っていたイースター島(ラパ・ヌイ国立公園)のモアイだけれども建造された理由は現地の言い伝えによると部族の王の霊を祀るためだったらしい。偶々、小耳に挟んであっさり分かってしまうというのも詰まらないみたいな感じがしないではなかった。詳しい資料を欠いているので、ひょっとすると誤りともかぎらないにせよ、たぶん殆ど合っているように受け留める。 モアイは海を背にして立っていたり、内陸部では反対に海を向いていたりしながら住処を取り囲んで皆を見守っているといわれる。守り神として捉えるとやはり部族の王の霊を祀るために建造されたのではないか。考えても可能性は非常に高いだろう。 イースター島のモアイは意外と新しい All the fifteen standing moai of Ahu Tongariki by Bjørn Christian Tørrissen / CC BY-SA 石像で非常に大きいから古代人のものかと思ったら古くても千年くらいしか経ってなくて新しいのは十七世紀頃まで作られていたらしい。 十八世紀頃に西欧人が発見した当時、イースター島には完成したモアイが幾つも立っていたらしいけれども次第に倒されるようになった。島民の部族の争いで、守り神を率先して攻撃するためだった。モアイは目に霊力が宿ると考えられていたから何も見ないように目こそ破壊されて俯伏せに寝かされてしまった。全体を木っ端微塵にするのは非常に大きな石像のゆえに難し過ぎたか、または守り神の超自然的な祟りが恐れられたせいかも知れない。破壊されたのは目ばかりで、今では殆ど残されてないけど、地に落ちた破片が少しは見付かっていてモアイには元々は目があったと分かっている。いつしか全てのモアイは倒されていて十九世紀には完成品としては一つも立ってなかったんだ。 現在、十五体のモアイがイースター島の海岸付近に立っていて最も壮観な眺めを生み出しているのは1994年に考古学者のクラウディオ・クリスティーノがクレーンを持ち込んで実現したようだ。モアイは最大で20mの90tと計測されるくらいで、海岸付近のものは5mで25tはあってイースター島で最大の祭壇遺跡の全長100mのアフ・トンガリキに持ち上げて十五体分が並べられた、とてもではなく、大変な作業だろう。良くやったとしか称えようがないけど、すると昔からクレーンもない時代にイースター島の島民たちがどうやってモアイを移動したり、立てたりしたのかも相当な謎として浮上して来る。 イースター島のモアイはどう動かされたか Walking with Giants: How the Easter Island Moai Moved|National Geographic 大勢で長時間をかけて成功したようだ。学者によって様々な説が唱えられたけれども2011年にテリー・ハントとカール・リポの提唱した方法で、モアイの頭の左右と後ろの三方からロープで引っ張って操っていたというのが相当に有力ではないか。実験でも上手く行っていて巨大な石像のモアイを少人数でスムーズに移動できると分かった。 加えて地元の言い伝えではモアイは歩くと受け取られていたから立ったままのモアイをロープでコトコト引っ張りながら道を進んでいたらきっとそのように見えたはずだと信憑性が得られる。 イースター島のモアイは後に倒された Rear View of Central section of Platform Tongariki, with fallen images, plate XXXIV from Internet Archive Book Images / Public domain イースター島のモアイは島民の部族の争いで、悉く倒されて十八世紀以降は作られもしなくなった。 部族の争いがなぜ起きたかは食糧難の可能性が高そうだ。ポリネシア人がイースター島に初めて住み着いて人口が増えた。生活圏が広がると共に森が減って逆に食糧難に陥ってしまった。現代の懸念される地球環境の災難と同じだからイースター島の歴史はエコロジーの縮図とも過言ではないと注目されずにいない。自然と人間との共存はどのように果たされるか。森の減少にはポリネシア人が最初に連れて来た食用の鼠の影響も大きいともいわれる。他の有人島から、2000m余り、離れて絶海の孤島に他ならないイースター島で食用の鼠こそ爆発的に増えて天敵がいないためだけれども森を荒らしてしまったのではないか。 どちらにしても厳しいし、あるいは人口と食用の鼠が両方とも合わさって増えてどうにも酷かったかも知れないけど、イースター島で生命に必要な森が失われたとするとモアイは人々の祈りと切り放して本当に理解できないだろう。守り神としては日常生活で生死を分ける存在だし、島民にとって命の尊さを写し出している石像に他ならないように想像される。 イースター島のモアイは忘れ去られた Easter Island, Rano Raraku, moais by Arian Zwegers / CC BY イースター島は西欧人が辿り着いた十八世紀から暫くしてさらに南米のペルーによる大規模な奴隷刈りに襲われた。1862年に島民は強制労働のために国外へ半分くらい連れ去られたんだ。同時に天然痘が入って来て残りの島民もそうした死の病に侵されながら一気に減ったせいで、モアイに目立って示された文化そのものが壊滅されて人々の旧来の生活が終わりを迎えざるを得なかった。 詳しい資料も後を絶たれた。イースター島は十九世紀の中頃には無人島に近かった。奴隷から開放された人たちが戻って来て又住み着いて今に至っているらしいけど、しかし旧来の生活に基づく文化そのものは継承されなかった。誰もいなくなったような時期に詳しい資料は須く風化したんだろう。現在では部族の末裔の島民の言い伝えとモアイとかアフなんて遺跡、そして諸々の遺物から推し量られるだけなんだ。 イースター島のモアイは守り神だった Plataforma ceremonial Ahu Akivi by Jantoniov / CC BY-SA モアイはイースター島で部族の王の霊を祀るために建造されて島民の守り神だった。一つの謎が解けたと思うとちょっと詰まらないけど、ところが歴史を知ってみると非常に興味深いから却って面白いと気付いた。 何かに魅惑されて空想する、または思考するのが良いという点では同じだからイースター島のモアイには引き付けられて止まない。 素晴らしいのはやはり命の尊さを教えくれる以上でも以下でもないはずの世界観だろう。モアイは芸術と呼ぶに相応しい石像なんだ。稀有なのがしかも人々の文化と結び付いていた。生活の美しさに胸を打たれるのが島民の全てからではもはやイースター島自体が一人の芸術家なのではないか。頷くほどに震撼させられては畏怖を覚える。守り神なのも正しく認めるし、モアイには神が宿っていると崇高さから感じてしまう。 参考サイトモアイ像、ロープで揺らして移動? コメント 新しい投稿 前の投稿
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