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エピクロスの余りにも清貧な思想

古代ギリシャの哲学者で、紀元前四世紀頃のヘレニズム期の初めに生きていたエピクロスが日毎の質素倹約を絵に描いたような余りにも清貧な思想を持っていて驚きながら共感を覚えてしまった。


アタラクシア(平穏な心)という身近な幸せを大事にする気持ちから世界を捉えていた。


エピクロスの哲学では感覚が重視されていてそれに見合った生活がアタラクシアとして考えられている。感覚は欲求によって疎外され得るし、哲学的に真実も分からなくなると三つに区別されている。


  • 自然で必要な欲求
  • 自然でも不必要な欲求
  • 不自然で不必要な欲求

日々、アタラクシアへ通じる感覚、すなわち正しいとエピクロスが哲学者として判断したのは自然で必要な欲求だけだった。生きるために衣食住や人間関係は最小限で済ませると良いという発想が清貧な思想ながら余りにも容易いと感動させられもする。社会的には僅かな品物と微かな人付き合いで満足するべきだとエピクロスは教えているに等しいのではないか。まるで子供のように可愛いし、普段から必要以上に多くを求めず、いってみれば等身大の美学に貫かれた方法を体現する存在だったと考えると心から称えたくならせる。


エピクロスの胸像

しかし人間的には必ずしも楽ではないというか、大変なのは他の二つの生き方を避けられない場合なんだ。大邸宅や御馳走などの贅沢は自然でも不必要な欲求だし、地位や名声や権力などの見栄は不自然で不必要な欲求だから生活に取り入れてはならないと考えられている。


怪しいのは自分と他人への思いを切り捨てている。贅沢は前者で、見栄は後者だ。人生の動機付けが精神的に失われる。つまり夢は小さいほどに目先の物事に囚われて将来的に失敗する可能性が増えるためだ。恐ろしい。エピクロスの教えはだから現実には危ない。


知ってか、知らずか、生前から人々には考え方が相当に叩かれていたらしいんだ。


同時代にストア派の哲学が主に対立していたとされる。エピクロスと同じようにアタラクシアを生活のモットーに掲げていたけれども徳を重視していた。人生の目的は徳にあって幸せは精進した結果でしかないからそうした報酬を第一に主張するのは許し難いばかりの愚かしさそのものみたいな仕方で、エピクロスは散々と非難され捲っていた。人伝てによればそのせいで著作の殆ども残されなかったと聞かれる。禁書として焼き払われたのではないか。皆が影響を受けて地獄に落ちる前に誰の目にも止まらせたくないと現代からすれば思想・表現の自由が犯されていて可哀想なまでに嫌われていたようなんだ。


エピクロスは彼を信望する仲間たちと共にエピクロスの園を開いて過ごしていた。それがエピクロス派として自説を守り抜く助けになったようだ。様々な資料を少ないながら残すような結果にも繋がって来たのではないか。


何が良いのかとストア派の学説を踏まえると却ってエピクロスの哲学へは覚束なくなる。


端的に意味がないと思う。徳を目指して頑張って幸せを得るというスタンスならばストア派こそ何が悪いのか。認識が合理的だからもはやエピクロスの出る幕はなくなる。最初から幸せが手に入るならば誰も苦労する必要はなかったわけだし、ストア派でなければ哲学者も仕事はないと感じてしまう。


エピクロスが凄いのは感覚という方法に尽きる


厳密にいって認識かどうかはストア派との相違点を踏まえると悩ましい。徳から判断された幸せが認識そのものだからエピクロスについてはそれが感覚に基づいて諸に対象化されるかぎりは知覚として捉えないと哲学上のエッセンスが下がり兼ねない。


エピクロスは感覚からアタラクシアが正しいかどうかを判断するよりもむしろ評価するわけなので、認識においては経験論的に生きていたと考えられるし、観念論的にそうだったストア派と哲学として過激なまでに相容れないのも本当に確かだったと頷かれるんだ。


エピクロスとストア派は良いものと悪いものが完全に食い違っていて生き方は決定的に分断されていた。


世界をどう見詰めるか。徳の観念からあるがままの無法地帯では駄目だと判断するのがストア派の方法ではないか。感覚の経験からあるがままの自分らしさで最上だと評価するのがエピクロス派の方法ではないか。前者と後者はあるがままのイメージが正反対で、どちらが有用かとスタンスとして真っ向から打つかり合うけれども考え方を同一視しては埒が開かないといわざるを得ない。


エピクロスに注目するかぎり、あるがままに見詰められる世界が感覚に相応しいとアタラクシアで正しいと評価されるし、すなわち自然で必要な欲求として真実だと哲学的に認められる。なのでエピクロスを理解するためには感覚とは何かを知らなくてはならない。


快が現に存在しないために苦しんでいるときこそ、われわれは快を必要とするのであり、苦しんでいないときには、われわれはもはや快を必要としない。


エピクロスのメノイケウス宛の手紙(岩崎允胤訳)

改めて注意すると認識だけれども知覚だから無条件ではストア派の見方が合理的なんだ。あるがままで全て良いものではないからこそ人間にとって哲学は求められる。エピクロスが石を打つけられるように矛盾しているのは間違いない。身近な幸せも只単に知覚として口に出すのでは無法地帯と切り放せないし、信用されない。エピクロスがなぜやるのか。人々の誤解も恐れずに感覚を取り上げたとすればむしろ認識そのものだった。哲学者としてあるがままで全て良いものだと分かる方法、または概念だから素晴らしくて誰が何といおうと唱えずにはいられなかったせいだ。


エピクロスにとっては合理的な見方もストア派とは様変わりしていて命題の徳に従うよりも真実の感覚に即して把握される。哲学を求める気持ちもそれ自体で成り立っているから本当は矛盾してないんだ。認識として経験論ならば極めて純粋な知覚といって良いくらい緻密に仕上げられている。なぜなら方法、または概念が実際には思考されているからだ。感覚以外に頼らず、実生活から少しも離れない理論なので、祈りと似通うまでに美しい。


分けても身近な幸せが自分らしさをちゃんと表現しているようなので、些細な日常としても好ましくて望ましいし、参考にするべきではないか、果たして興味深くも引き付けられずにいない。


エピクロスの原子論について


エピクロスの感覚の哲学そのものは独自の原子論の思想に由来している。およそ原子論の思想から感覚の哲学を通じてアタラクシアも初めて現実に味わわれるという思考の流れになっているんだ。方法論的にはアタラクシアは独自の原子論への思想的な反証と同時に哲学的な確証を示している概念に他ならないだろう。すると感覚の哲学へは自然で必要な欲求こそ認識の中軸とも過言ではない自己表現だと感じるので、知性上、真実の手応えと切り放し得ないし、第一に求められる対象なのも尤もだったわけだ。


エピクロスはデモクリトスの原子論から着想を得ていた。世界はアトムとケノン(原子と空虚)で無限に成り立っていると物質の最小単位から考えられていた。アトムがケノンに移動と衝突の運動を行いながら万物が生み出されもするという認識で、思想としては世界は物質で構成されるという唯物論の元祖とも目されるのがデモクリトスの原子論だった。


エピクロスの原子論はデモクリトスのそれと殆ど同じだけれども運動について変更が加えられた。というか、認識を詳しく纏めようとしたみたいなんだ。


アトムは重さを持って上から下にケノンを夥しく落下しているとしてさらに逸れがあると考え出した。クリナメン(偏倚)とも呼ばれる。運動そのものが乱雑な仕方で、偶然にも垂直落下の逸れによって衝突を起こすから世界に様々な事物も外観として生み出されると新しく説明した。


古代ギリシャの原始科学の仮説なので、それ自体が適切かどうかは僕には判断し兼ねる。只、物凄く面白いと思うし、垂直落下と逸れで世界が千変万化に構成されるというイメージはたとえ専門的に誤りだったとしても学究心を鼓舞される。失敗を恐れては知識も先へは進めないし、どうせ無駄だと怖じ気付くよりもアイデアを考え出すだけならば本当に自由にかぎる。


元々、デモクリトスの原子論ではアトムとケノンによる運動は必然的に捉えられていたけれども逆さまの認識になってしまったんだ。


エピクロスは逸れの新たな導入から独自の原子論として偶然的な運動という観点を持つに至ったとされる。


なので気持ちとしては何がどうなるかも分からないような《世界の真髄》に触れ直しながら個人的な打開策として感覚という方法が浮上して来たのではないかと推測されるわけなんだ。


唯物論的なスタンスから魂も物質に他ならないとそれぞれが共振するみたいに聞かれるので、改めてアトムとケノンの認識と共に決定不可能な恐れを抱くとすれば客観的だけではなくて主観的にも作用するのは間違いないかも知れない。


中々、エピクロスにおいて原子論の思想と感覚の哲学の結び付きは実質的には分かり難いとはいえ、真っ先に求められるアタラクシアから振り返ってみるとそれこそ偶然的な運動から自分自身が自然の猛威に巻き込まれる状態でしかなければ手っ取り早く生きるとは何かを考えられる方法はおよそ感覚しかないので、まさか気持ちを落ち着かせるべく重視されたようなんだ。


エピクロスは独自の原子論から偶然的な運動への不安定な気持ちを味わわされながら待ったなしの感覚の中にこそ生きる道を真実として見出ださざるを得なかったのではないか。


一切の選択と忌避の原因を探し出し、魂を捉える極度の動揺の生ずるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの素面の思考こそが、快の生活を生み出す。


エピクロスの主要教説(岩崎允胤訳)

アタラクシアが身近な幸せで清貧な思想として余りにも容易いのは素晴らしくも独自の原子論の自力では纏め切れない世界観を反映してのイメージだとすれば本当に内面がぐじゃぐじゃになるほどの厳しさに役立ちそうだし、誰にとっても命へのかけがえのない思いを奇跡的に含意してこそ十二分に理解されるはずだ。

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