スピノザの生活規則を良い知性から僅かでも理解するための思考 結城永人 - 2017年3月22日 (水) 久し振りに知性改善論(スピノザ)を読み返してみた。といっても時間がないし、速読もできないので、一時間で数十頁しか進まなかった。 しかし相変わらず、文章が手強くて通常よりも読解を迫られると驚かされる。作家の気質としては学者そのものだろう。細かいところまで日常生活に支障がなくても取り上げて認識に纏めないと不誠実だと思ってしまうのではないか。 学校嫌いの口癖ならば「勉強しても生きるのに役立たない知識」が多くて辛い。 ただし大事なのは世界を理解するために必要なんだ。背を向けるほどに認識そのものが曖昧になって社会へ出ても分からないままなので、経験に対しての判断力は学歴通りで止まってしまうわけだ。後から独学しなければ生活力としても上がって来ないかぎり、もはや学校で済ませるのと中身は同じだろう。人生設計を効率的に組み上げるならば最初から勉強好きの気持ちが期待される。 僕の言葉遣いも概念は難しいかも知れないし、例えば世界といきなり聞かされると皆が躓いてしまいそうだ、心で。個人の内面というか、厳密には《自我論的な宇宙》を指し示している。なので世界が理解できないとなれば自分らしさがないという意味合いが非常に大きい。幸せとは何か。そこに判断力が欠けていれば世の中に振り回され易いし、良い人と悪い人がどのくらいの割合で算出されるにせよ、やはり幸せを得られる出会いも偶然でしかない、根源的に。自力で何とかしかしたいのがきっと人類なんだ。 アインシュタインの相対性理論やゲーデルの不完全性定理を分からなくて誰も死にやしなくても学問の全ては必要なのではないか。 現代では本当に問われる。学者が無駄な研究に大金を使うのは社会問題だし、アメリカもだから宇宙探査を縮小しながら中国に経済どころか科学ですらも後塵を拝しかけている。どんな勉強が有益なのか。人類の日当たりが探られているといって良い。中国だって無闇矢鱈に取り組んでいれば直ぐに資金は底を突いてしまう、求めるよりも。コンピューターが開発されて見聞できる世界が物凄く広がったせいではないか。作り出したのは人間だから頭脳が進歩した結果なのは少なくとも間違いない。 何がいいたいのか。勉強は知識だし、どれもこれも繋がっているわけならば生活力に加えるためにはたぶん理解力が前提条件だろう。実地に方法といえば哲学だけれども知性とするとスピノザが僕は気に入っているので、文字通り、知性改善論は久し振りにちょっと読んでも面白かったし、ブログで取り上げたくもなって来る。 知識について人類の日当たりが探られているという射程からは倫理学こそ現代で重視されるから知性が欠かせないだろう Spinozahuis Rijnsburg by MLWatts / CC BY-SA スピノザは哲学との境目で思考しているので、本当に興味深い存在として浮上してしまいもする。 かつて古代ギリシャの倫理学的な哲学(どのように人は幸せに生きられるのか)を刷新したのがスピノザかも知れない。エピクロスとストア派の対立でいえばスピノザはストア派を喜んで徳の見方を楽しんだというと情動的だけれども本当なので、知性しか相手にしないから両者の是々非々も優劣では直ぐに分からないせいだ、それこそ誤解が絶えない。気持ちからすればスピノザにとってストア派は喜べるから良いし、楽しめるゆえに正しいと主張されるだろう。僕はスピノザ主義者だけれども思考において余りに甘過ぎるから言葉遣いだけは徹底的に批判しなくてはならない。自分の幸せが他人の幸せと同じかぎりでしかスピノザの認識は生きるために合理的ではないわけなので、倫理学上は国家論の民主主義で世界的に実現される構想にせよ、個別性が具体的に示されないと不味いのではないか。マルクスならば「歴史」から、ドゥルーズならば「差異」から批判的に継承しているようなスピノザへの取り組みが現代的には欠かせない。僕は言葉遣いが不味いと感じるけど、情動的に受け取られなければスピノザの論証には無理がないと予測している。だからスピノザ主義者は止めないし、思想的には批判するべきではない。皆一緒なのはあり得ないと引っ繰り返すと頷かざるを得ないはずだよ。だからスピノザを否定するのは社会学的に恐ろしいし、素晴らしいカフカの小説もたじたじの《孤独そのもの》を人々は強いられてしまいそうなんだ。宇宙の星々も相互作用が働かなければそれぞれに向かい合って何なんだろう。スピノザは事物の本質からしっかり知覚しているので、触らぬ神に祟りなしというか、かりに個別性を具体的に示すにしても《摂理を吟味する精神》を抜け出すのは厳しい。ガチンコで対立してみせたマルクスやドゥルーズは人生に美しい理論を独特にも仕上げ切ったし、二人がいなければ僕も理解力が下がったのは確実だとすると敬意を払わない理由はない。挙げると前者の「共産主義」と後者の「リゾーム」の発想はしかし僕にとっては逆に厳しい問いを投げかけられていた。どうすればスピノザを起き上がらせられるだろうか。思想上、致命的なまでに殺されたに近いという。痛みに置き換えるとスピノザの発想では「民主主義」と「絶対無限」が概念的に弱かった。理論的にいえば何れも哲学として読んでは駄目なので、倫理学者だからスピノザの思いが著作にはっきり編み込まれているせいだ、全世界へ寄せては思考が充足的には纏まり得ないにも拘わらず、マルクスやドゥルーズは勝手に纏めて読んで無理と結論を出したとしか叩きようはないだろう。二人とも思考そのものは曲がってないから思想上も打ち倒してしまうのは勿体ないと僕はマルクスとドゥルーズはスピノザについて間違っていると断定するつもりはない。ただ読み方が合ってないというか、これもスピノザ主義者にとって指摘しないと厳密には無効な理屈なので、偶々、利用されたのはなぜか、スピノザの何が二人の勝手を許したのかとむしろ内省するべきだし、反駁するべく、ストレートにパンチを繰り出しても踏み込んだ一歩目から自分自身が崩れ落ちるばかりだろう、詩的にいって。自己流だけれどもスピノザの読み方を素晴らしく解き明かすためには知性を哲学的な方法と倫理学的な思いで区別できるかどうかにかかっていて前者はカントによって専門化された(可能性において感性/直観と統覚と判断力の理性の概観を提起した。肝心要の物自体が確実性ならば認識力は存在論的にずらしても志向性としてそのうちへ知覚主義によって蜻蛉返りするのではないか。好んで現象学的に還元するとイメージがざくざく増産されて来るから《知識の宝庫》だと止められないくらい面白いところだ。概念的な総合についてはスピノザの自然観(不自由とは何か)と噛み合っているから精神上も押し並べて秀逸だろう。ひょっとすると知性が同等でもデカルトの方法論(不完全な人間)では行き詰まり兼ねないと「脱科学=哲学」の文脈に気付いた結果だから認識力の実効性は相当に高くて倫理学的に検討されるモデルまで明かしているように考えられる)と見受けられるけど、とにかく後者こそ明瞭化すると良いはずだ。 注意すると精緻化ではない。さもないとやはり哲学だし、スピノザの方法と知性の癒着を瓦解できない。可笑しいけれどもやおら詩的とはかぎらない認識が求められるんだ。柔らかいはずなのになぜか切り放されると固かった。僕がスピノザに目を丸くしながら知識を追い求めるのは自然の摩訶不思議な有り様に触れられるせいかも知れない。およそ水が蒸気や氷に変化するのは驚かない。結果ではなくてスピノザには原因から現実的には《生成の秘密》が知覚されていて「変状」と概念化されている。ただし用語法でしかないから意味合いはどっちでも構わない。認識においては因果関係の世界は前後不問のイメージなので、なせならば神が永遠に自己表現を実体上で取っているせいだろう、仮説と実証に食い違いが出て来れば却って観測者の能力が訝られずにいない。科学では難問中の難問だし、現今ならば「反証可能性」(ポパー)がどこまで通用するのか、調べると古代ギリシャのエピクロスの原子論で「逸れ」と呼ばれたような現象が本格的に確認され出してそうな情報も掴まれた。学説通りに物事が進んだり、進まなかったりするならば科学とは何かの知識そのものが揺らいでしまわずにいないわけだ。たぶん実験する装置の設定が合ってないだけかも知れない。詳しいところで塵一つで分析がコロコロ食い違うとすると観測者の能力へ限界が察知される。まるでコンピューターで無限を数え出しては誰も最後の結末へ追い付いてはならないみたいな矛盾が一本気に指摘され得る。浅田彰がバタイユを手放せないのと同じ理由ではないか、突然だけど、しかし文学的にいって。図書館の勤め人に過ぎないと発想そのものは定式化しつつも「禁止と侵犯」の題目には心を奪われているみたいだ。科学における実証の経験とイメージで被っているし、根詰めてそれが当たり前の世の中にならないともかぎらない。戦争では透明人間になれる服なんかもう既に開発されていてよもや実用化されたら日常生活がパニックに陥るのではないか。バタイユの眼球譚さながらに/おぞましさ/がやって来てからでは遅いので、それを食い止めるためには倫理学が是非とも欠かせないからスピノザの思考が生粋の倫理学者として見逃せないし、僕はスピノザ主義者として皆よりも分かるかぎりは自作として完成させなくてはならない。いうまでもなく、インターネットで公開しながら人々が近付けるように努めて行くんだ。 知性を倫理学に引き戻して哲学とは用意周到に切り放しながらスピノザの倫理学の思いからこそ知性を概念化しなくてはならない Spinoza's bookcase in the Spinozahuis Rijnsburg by MLWatts / CC BY-SA 精神上、大規模に把握するためにはスピノザでもエチカの第四部の「人間の隷属あるいは感情の力について」を熟読しないと理解力は物足りないかも知れないけど、ただし怪しいのは哲学は良いと持ち上げるような主知主義的な立場が露呈しているんだ。 スピノザにとって哲学とは何かまで吟味すると思考へは文字数が増えて今直ぐにはどうしようもないにせよ、詩として《知性の有り難み》と歌えば簡単に済んでしまうくらい飽くまでも倫理学の観点から来ているムードだし、口に出している気持ちのはずなので、人々は愛し合っていると思わせてくれるのが哲学と捉えるのが読み方としては適切なのではないか。僕ならば作詩だけど、とにかく生き方から納得するべき言葉遣いなので、主知主義的な立場についても意味合いがやはり哲学的な観点からだとはぐらかされる。往復書簡集にあからさまな反対論との結び付きが避けられないのもスピノザなので、哲学者としては幾らでも叩かれるというか、信念が如何にも緩くて一見すると理論が綺麗に回っている様子だけれども整合性は薄いし、どうしてスピノザ、またはスピノザ主義者だけが花畑並みに肯定されるのかが分からないままに論議も漂白されてしまっている。宗教と区別できないんだ、要するに思考そのものが。スピノザが神に基づいて自分たちは世界を突き進むとなぜ受け入れたのかは難しいというか、認識上、命題として取り上げるのは本当に苦しい。その気になれば幾らでも叩ける(西洋では決定論だから身動きが取れないとか東洋では見ながらにして煩悩の塊なんて)わけだから哲学者としては重視しても仕様がないのではないか、軽視して構わなければ僕の《知性の有り難み》のイメージで事足りもするわけだけど、思索の理論的に薄い整合性の中で、スピノザの信念をエチカの第四部の明白な主知主義に立脚して逐一と網羅するには手間がかかるし、煩雑な議論を避けられないんだ。ベルクソンならば「スピノザは最も難解な哲学者だ」と認識したらしい。不思議な方法を人間的に備えている。整合性が薄いからこそ手を付けるのに苦労するべき理論に仕上げられたに違いない。巨人が小人を掴めないようだ、揃えた指先の隙間が大きくて。実質的には理性が徳だから哲学も正しいという推論だけが必要なんだけれども出だしだけでも三十分くらいかかる。さらにさらに概念系を解析しないと哲学ならば駄目なので、気持ちも引き離されがちだ。三十分とは何か、解析とは何か、思考が止められてしまう。早いとしか説明できない。余韻からイメージを掴んで概念を作り上げる。手に入れたイメージの真偽が絶えず、問い直されるからすいすい理性を進められない。何だって良くない。時間が三十分と伸びると嫌になるし、抽象化が解析と要るのも不可解なので、なぜスピノザはやるのかを訴えられるせいだ、胸のうちへ。入り口の二つだけでも折角だから纏めるならば世の中には哲学が分からない人もいるから幾何学的なスタイルが必要なんだろう。エチカは幾何学的なスタイルで哲学が分からない人へ向けた思想なんだ。とするとスピノザこそ避けて通りたがっていると結論されるから中身は言語を絶するほどの状態ではないか。分からない人を踏まえて思考される哲学では知覚的に埒が開かないのに幾何学的なスタイルで超越される方法といわざるを得ない。知性を基軸にして概念を、目一杯、主知主義に巻き付かせるような精神がスピノザ哲学のエッセンスと感じられる。推論にしては力強いと仰天されられるにせよ、方法上、思考の比重は哲学よりも思想が重くておよそ信念を把握するならば自然の一部が神の名の元に確固と示されているために知識へと超越論的には引き剥がせない。スピノザにおいて主知主義は絶体絶命の様相を呈しているし、哲学も人生と完全に合致しているので、人間的に逆向きに明かせば知性は理性よりも経験を多く含んだ概念でなければ不当と取り下げられる。 注意すると出会いと別れのこれも前後不問のイメージなので、理論と実践を分け隔ててはスピノザ哲学にはならないし、二つを併せ持つゆえに整合性も薄いのではないかと分かって来るんだ。できないままにいいたがらない。知性がなぜ哲学を生むのか、徳の理性に正しく由来する真実は思想的に「神=自然」から齎されるならば沈黙されても仕様がないし、それしかないわけなので、もしもスピノザが哲学者ならば素敵な世界と称えるべきだろう。可笑しいのは善悪の基準が神以外の手に及ばないところで、奥義的にいって人間性が素晴らしい所以だし、無言の認識が妥当ならば知性から哲学を生み出すためには神経が公平かどうかの思考が欠かせないとスピノザは告げているに等しいはずだ。 素晴らしい人間性は倫理学と詩的に呼べる。生活で体現されたとすれば哲学そのものだけど、無言の認識では決定不可能だから端的には気持ちは無責任とスレスレなかぎり、夢見て取り組むのが美しい。 スピノザの倫理学的な知性は概念化された。整理すると神経が公平かどうかの思考は《激烈に難解》だからきっとアルトーのエッセイを参照しながら事実上は解明するしかないけど、しかし素晴らしい人間性で一般的には納得される。イメージの謎めきまで取り払うならば神に託されても絶体絶命に引き受けている真実のために思考の正当性を是認したい。 スピノザが「コナトゥス」(自己保存)というのと言葉遣いの中身は同じだけれども理性だと哲学に結び付くし、知性そのものの効果としては倫理学と神明的に直結するわけだ。 どう必要なのか。知性改善論によると「若干の生活規則」として三つの項目が挙げられていた。非常に気に入るし、生活が豊かになりそうだ。 一、民衆の知能に適合して語り、且つ我々の目標達成に妨げとならないことなら、すべてこれを避けないこと。なぜなら、出来るだけ彼らの知能に順応すれば、我々は彼らから少なからぬ利益を得られるし、その上、こうしておけば、我々が真理を説く際、彼らは喜んで耳を貸すだろうからである。 二、快楽は、健康を保つのに必要な程度において享受すること。 三、最後に、生命と健康を支え且つ国の諸風習――我々の目的に反しない限りの――に従うのに必要なだけ、金銭その他のことを求めること。 バルーフ・スピノザの知性改善論(畠中尚志訳) 人々と打つかり合わない暮らしが大切なんだ。注意するとどれも節制が施されていて本当に大切なのは世界を知るかどうかなので、そのための「若干の生活規則」と覚えておかなくてはならない。スピノザにとっては理性的に生きられると最高に幸せだから三つを挙げながら生涯にわたって支障を来さないように練り上げられているわけだ。 平和の理念に反すると矢庭に疎ましく感じるのは快楽で自分一人だけで味わっていたら他人と打つかるのではないか Spinoza's room in the Spinozahuis Rijnsburg by MLWatts / CC BY-SA 嵌まればキルケと攻められ易い。止めないと信条的に無理があるけど、しかしスピノザは健康にしか言及してない。健康以外の快楽は概して求めてはならないわけだ。もしも攻められるとしても相手は病人だけだろう。病人は悲しみに暮れているから誰かを健康でも妬んだり、恨んだりする観念は持たないとすれば本当に良くできているアイデアだし、自然もまさか完璧だろうと腑に落ちるほどに理性が勝つと気持ちが風に包まれながら持って行かれてしまう。 まず快楽について言えば、心はそのとりことなって、あたかもそれが十分満足するべき善であるような気持になり、それによって他の善について思惟することをひどく妨げられる。一方その後には深い悲しみがつづき、それがたとえ精神の働きを止めないまでもなおこれを混乱させ、遅鈍にする。 バルーフ・スピノザの知性改善論(畠中尚志訳) 説明抜きに書かれていて快楽はエチカでも理解するのに苦しまされる。なぜ悪いのかが見えない。分けても「その後には深い悲しみがつづき」がちんぷんかんぷんではないか。薬物中毒の禁断症状くらいしか思い付かないような口振りから洞察されているせいだ。 快楽には常習性があって何度でも繰り返したくなる経験として概念化されているという認識が妥当だろう。 すると健康に快楽が指摘されるのも頷くだけだ。何にせよ、疲れ果てる。欲しがって手に入らないまま、長引けば憔悴するし、ほんの短い間でも弱るかぎり、積み重なればいつか倒れないともかぎらない。普段からなるべく避けるのがやはり賢いし、節制が頼もしい。 スピノザの倫理学は「若干の生活規則」に基本的には尽きるから易しいし、直ぐに身に付けられる。三つだけれども平和の理念と健康上の快楽と言葉遣いをさらに圧縮すればもっと便利みたいだ。 学者肌というか、文面で本人の快楽の切り口からすると人は努力しなければ知識はちゃんと身に付かないという感覚が溢れているし、理性と区別するために幾分かは手間取っているらしい。つまり「他の善について思惟することをひどく妨げられる」が明らかに平和の理念に背くように叙述しなくてはならなかった。先行の「善であるような気持」だけではイメージがぼやけるための思考上の飾り付けのゆえに気難しさが出ている。快楽も皆一緒で捉えられないわけではないのに概念として個人向けに切り出されたという仕方は人々に多く受け入れられるかどうかが疑わしい。只単に快楽で健康のためと念を押すよりも最初から健康上の快楽と諸に打つければ誤解されないはすだ。一瞬でも人々が痛くても僕が激しくても誤解されるとどんな世界でも信用性は下がるから注意深く避けるべきだし――哲学者として失格と見做される理由付け/思考そのものが能力論的に最速ではなかったし、自己表現において真実は得てして後回しではなかったか/に置き換えればやはり倫理学者としてのみ読むという根拠でもある――スピノザが気乗りしなかったのは性格が余りに穏やか過ぎたせいだろう。 認識として皆一緒の快楽が切り捨てられたところは群衆心理が掴めない方法だから辛いし、政治学も汚れるので、厳しく見詰めなくてはならない。群衆心理によって人々の結束力が異様なまでに膨れ上がって国が予想外に動かされ得るかぎり、もほや社会の分析力に難点が付き纏うスピノザではないか。人々への信用性が下がる思考は僅かでも駄目なんだと反面教師、または天使性と呼ぶしかない。 倫理学は個人向けで嬉しいし、僕としてはスピノザの「若干の生活規則」から平和の理念と健康上の快楽を便利みたいだけれども綿密に引き出したかぎり、夢を叶えるために頑張って生きる。 参考サイトスピノザからカントを、カントからスピノザを読む自由の形而上学(PDF) コメント 新しい投稿 前の投稿
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