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些細な日常

人々に大衆への理解は本当に可能か

スピノザ神学・政治論で大衆について次のように捉えていた。

大衆はものごとを賞賛したり批難したりするのに理性ではなく衝動によっておこなうものである。

バルーフ・スピノザの神学・政治論(畠中尚志訳)

正しいかどうかはちょっと怪しい。というのほ些細な日常でスピノザの方法そのもの知性そのもので、二回、本格的に取り上げながら倫理学以外では思考の強度が下がると目に見えて明らかだったので、敬愛するほどに何でも信じ込まないように警戒しなくてはならないためだ。

教説としては現代でも変わらないくらい世の中に当て嵌まっている見方が面白いかも知れない

すなわち〈知識人と一般大衆の構図〉が示されている

社会の様相は何世紀にも亘って、全然、進歩してないみたいに感じると僕笑っちゃいます風見しんご)を聴きたくもなるよね。

欽ちゃんファミリーのアイドル路線は男性では風見しんごが走りだったのではないか。調べると驚くのはブレイクダンスをアメリカから日本に広めた立役者だった。本人も正しく素晴らしく上手い。情報によると四曲目の涙のtake a chanceから舞台へ取り入れたようだけど――本場のニューヨークで思い切って修行した――ブレイクダンスで風見しんごの右に出る者は芸能界でもとても少ない。すると欽ちゃんファミリーだからお笑いと見られれば気付き難いにせよ、アイドル路線としてしっかり捉えれば必ずしもそうではないのではないか、風見しんごもメインのパフォーマンスは他にあると分かってしまう。

だからスピノザも大衆への認識力が鈍ったと仮定すると気に入った見方に囚われていて自分のアイデアに合わない人々を捨象していたわけだ。

夢の旅人ならば詩的な生活として許されるにせよ、学問では真実だから困るし、幾分とも遠ざかって冷ややかに見詰めざるを得ない。

現時点、感じ入れば人類の世紀が革命的に動いている。つまり《大衆の線分的な見方》が発明された寸刻に皆というか、ブログの訪問者の貴方は立ち会っているわけだろう。些細な日常からはっきり著すことができたのは作家・詩人として僕には光栄のかぎりなのは潔くも恭しい気持ちがしている。まさか人々の少なくとも一員へ存分に知って貰えたようだ。

注意すると現代には知識人はもういなかったかも知れない

当初の〈知識人と一般大衆の構図〉という想定が無効ならば些細な日常から新世紀に出会してもエヴァンゲリオンと仮想的に捉えられざるを得ない。分からない人のために付け加えておくと正式名称は新世紀エヴァンゲリオンというアニメがあって既存のガンダムマジンガーZという二つのロボットの反対向きの流れを切り分ける世界観を提示していた。前者はヒューマン(人間的)で、後者はナチュラル(自然的)だったけど、エヴァンゲリオンはそれぞれを卓越しながらロボットとは何かを改めて問い直すようなイメージだったんだ。因みにスマホに置き換えるとAndroidがガンダムで、iPhoneがマジンガーZという雰囲気みたいだ。機械観がヒューマンか、ナチュラルか、生活上、どちらも大事な観点だからエヴァンゲリオンが新世紀とアニメのようには第三項によって均質化されながら仮想的に卓越されないとは予測されるにせよ、二つに分かれながら(他のシムテム/プログラムまで踏まえれば大きく)皆に使われている。ところが僅かでも知識を持って暮らしていれば知識人だと本質的に概念化すれば事情は変わらないし、全員、発狂しているわけではないので、どんな実況なのかという人々への認識も《大衆の線分的な見方》として精確に超越されたのは間違いないだろう。

内面においてはおよそ人々と大衆との原本的な相違点を明るみに出しているわけだ。

頭ごなしに知識を持っているかどうかと判断するのは廃れながら逸るのはどうすれば持ち得るかどうか、すなわち知識を適切に持っている場合とそうではない場合という人間の一つの可能性/能力そのものによって判断している。

人類初の快挙みたいな印象だけど、しかしながら自賛するつもりは果たしてない。

永遠の詩人だから現世での認識は無敵計算から総じて弾き出されるし、僕にとってはそうした超難解な詩を普通に口に出すかどうかの取捨選択の一つでしかない。結果は驚くに足りないし、実情的には頑張って思考するにも値しない方面だからサイトのアクセスアップで生活費を稼げるようにして早く止めたいとぼやいてしまいもするわけで、言語だけが厄介なんだ。スポーツと中身は同じで、鍛練しないと世界へは上達しないからサイトでも気持ちが分かる人を直ぐに増やせなくなっている。

人々に《大衆の線分的な見方》が理解されるかどうか

知識は人それぞれだから良いも悪いもないと分かるかぎり、平和が心から近付くし、生活で差別や偏見は相当に減らし得るんだ。皆が互いに認め合える社会において〈知識人と一般大衆の構図〉は空無化されるのは誰の目にも明らかなはずで、すると真に受けても言葉遊びでしかないし、自分が他人よりも優れていると嫌ったり、双方の立場を入れ換えれば劣っていると嫌われたりしなくても十二分に満足できるから人々はもっとずっと些細な日常を生き易くなるはずだろう。

言語が邪魔するというか、神が入り込んで意味や価値を茶化すから僕も正しい思考を良い認識として表現できているかは不安が絶えないにせよ、黙っているままでは少なくとも僕自身がサイトのアクセスアップを巧みに追求できないみたいに人生も足踏みせざるを得ないから愚かしい。

新世紀へ実地に到着した感想としては人々にインターネットを客観視して欲しいよね。

つまり僕が特別ではない。だから平凡な言葉遣いを多めにするか、味わいが馴染み易いみたいな自己表現こそ大切だろう。今後はサイト運営にきっちり取り入れる必要がある。

思考が緩み兼ねない。危ないし、少しでも緩んだら間違えたと正しくないととことん厳しく警戒されてしまう。

僕が神を人々に見立ててついに知覚し出しているせいかも知れないにせよ、例えば良いも悪いもない知識では実生活で何の訳にも立たないと物凄い誤解され易さに立ち向かわざるを得ないように受け留められる。

それ自体は確かに速やかに有用ではないし、言葉遣いとしても重視される度合いは低い。

人々が《大衆の線分的な見方》を一つの方法として日々に活用できるかどうかが試されているために理解されないとも恐れられる。

僕としては理解される可能性もあるからブログに載せているわけだし、さもないと誰にも分からないままでは平和な社会が心から遠いからどうしようもない、努めて真実を集中的に把握しよう。

昔ながらの〈知識人と一般大衆の構図〉ではスピノザも同じだけれども

皆が平々凡々と暮らしているのは知識がないせいだと理性から判断されていた。許し難いミスを犯している、神経上。神を過信しているせいで、自分と神の喜びという理性の外側として反対に結論を下さざるを得なかった。人々と大衆が完全に区別できてない。本質的に無理ならば《神の知性的な罠》と詩に歌い上げても良いだろう。理性がどんなに快適でも確実性について外部から反証が求められる精神では思考が遅いと断定するしかない。批判される対象なんだ。

知識を持って人は知識人になるし、そこから大衆を反目的に見詰めたがるけど、性格が出れば本音と聞かれもする情動そのものは、中々、自分から抜け出すのは厳しいし――互いに入り交じって強烈に光り輝く実在感こそ余りに惹かれ過ぎる人間学において――だからこそ何世紀にもわたって指摘されなかったようではないか。

本当に知っていたのは僕だけだったとはかぎらないから《大衆の線分的な見方》を誰よりも先に知識として手に入れたと明言することは控えるけれども社会そのものが内実的に厳しいままだった。

経験論が理性を投げ飛ばしても知識がないせいと容認されては〈知識人と一般大衆の構図〉は原理的に覆せなかったはずだし、観念論も気に入らない論議を他所に自前でこっそり頷いている分には間違ってない。

方法として取り纏めるならば風見しんごが大事だった。彼がいなかったら精神に白眉とも段取りが付けられなかった。または欽ちゃんファミリーのアイドル路線みたいな気持ちの本筋からは別系統のイメージをかくも引き込まなければ人間の物事の見方は些かも切れ込みを擁さないと納得してしまう。

僕が飛び上がっている思想のかぎりでは仰天的な発明家と一人で呆れ返るばかりの状態でしかないし、イメージも黒ひげ危機一髪ならば脇腹に取り付いた天使が健やかに可愛いだけにせよ、本当に《大衆の線分的な見方》が理解されるかどうか、人々が平和を心から実現する可能性/能力そのものを知って世の中が変わるかぎりしでしか真価は問われないので、どうなって行くかを向上的に期待を込めて見守りながら過ごしたい。

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