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ティツィアーノの本当は禁じられた美しさ

ティツィアーノフローラは数多くの画家に模写されていて後世に絶大な影響を与えたと知って俄然と見てみたくなったし、なぜなのかが気になって仕様がない感じがしてしまった。


ティツィアーノ・ヴェチェッリオのフローラ

目を引くのは何よりも肌の風合いだろう。細かい凹凸があるようではないか。自然の光を取り込んで色彩が千変万化する印象を与える。砂漠を想像させる美しさを宿しているし、特有の詩情を湛えた色塗りだ。風に吹かれながら表情を絶えず、変化させながら形を織り成している砂の魅力が心地良い。


柔らかさが絶妙で、それに合わせて輪郭線が引かれているようだけど、輪郭線の風合いはただし固いからイメージのバランスが取れているかどうか、芸術性については世の中で評価が真っ二つに分かれるだろう。


ミケランジェロがティツィアーノのアトリエを訪れて色塗りは絶賛したものの後からデッサンを物足りないように溢したとも伝えられている。本当だとすれば芸術的にはきっと正しい。絵を描いて線と面の風合いがずれていたら根本的には美しくないはずではないか。


ただしファッション、またはデザインとしては通用するかも知れないので、イメージのバランスが崩れていても薄い芸術性、弱い美しさに人々は全く引き付けられないわけではなさそうにも感じるから一概には括れない、出来映えについては。


古代エジプトの遺跡に見られる人物の目の濃いめの縁取りが鼻や口や耳のそれと比べて醜いとは必ずしも目を背けられないように特徴的な装飾から作者の思想、または文化を物語っているかぎり、一つの真実、心から探求するべき謎を孕んでいて綺麗だと唸らされざるを得ないのは確かだと思う。


ティツィアーノは十六世紀のルネサンスのイタリアの画家で、世の中では画家の王と呼ばれるほどの人気を誇っていたらしい。輪郭線の固さはむしろ格好良さとして受け留められていたのではないか。フローラのイメージは如何にも不自然だし――心苦しい思いに駆られながら――見た目の色塗りに凝らされた趣向こそ優しいだけに却って暴力的な響きを与えてしまってさえもいた。なのに大勢の人たちから特権的なまでに尊ばれたとすればイメージのバランスでは捉え切れない造形性の的確に纏められた所以としか考えるべきではないだろう。芸術的に根本的に疑わしくても素晴らしい理由が全くないわけではなかったし、さもなければ砂漠も絵から詩情として豊かにも生み出されてはならなかったと経験に反する認識と共に鑑賞そのものが臍を噛むように周章てさせられるばかりではないか。


ティツィアーノ・ヴェチェッリオの自画像

厳密にいって綺麗だから良い。美醜を越えて働く喜びは簡単にいって自然体だ。些細な日常に程近い何かが待ち侘びていた。呼びかけるように日々の喜びは本当は綺麗だとティツィアーノはフローラを通じて教えているとも過言ではないだろう。完成したのは二十代中盤みたいだから自分で学びたかっただけかも知れなさそうとはいえ――性向が絵一筋なゆえに青年期では余程と――明らかに感想を付けられるほどの良さもおよそ他には見当たらないのではないか。自然体の魅力が極めて大きい画家だったし、むしろ些細な日常に迫るためにこそイメージのバランスを上手く取らなかったとも考えさせられる。


世の中に美醜は対立的に転がっているとティツィアーノは気付いて胸を傷めていたかのようだ。すると理想上の作品も作者にとって真実ではあり得ないと感じずにいなくなってしまう。フローラの色塗りよりも固い輪郭線は絵が一つの境地へ焦点を結ぶのを思想的に拒まれた結果ではなかったともかぎらないわけだ。


調べると九十年近い生涯にわたって最後の最後まで絵を勉強し続けていたし、新しい発見に突き進むばかりの画家人生だったと思う。ならばティツィアーノは自分自身を原理的に表現できなかったためだといっておきたい。イメージのバランスを崩したところに日常生活に相応しい真実が手に入った。理想が遠くて不可能と定義されるくらい胸を傷める現実を信じていたとすればナイフの心臓への一刺しへも厳しく例えられるかも知れない。極端にいえば芸術は求めてはならないし、美しさも禁じられたはずの綺麗な世界こそ全身全霊で重視されていたように受け留められてしまう。


ティツィアーノには同時代の大家としてミケランジェロが腹の底から揶揄したかも知れない世界とは又別の芸術、造形として愛し切れない美しさを伴った真実を綺麗に投げかけるしかなかったんだとフローラからは取り分け認められ得る。


きっと他の画家たちが模写したいと群がったのも綺麗な世界の謎を心から探求するべく考えるためだったに違いないだろう。


デッサンとすれば風合いが固くて必要なかぎりの輪郭線も柔らかな色彩を包み込む和らぎが想像力を豊かに解き放つくらい嫋やかなまでに良く見えるせいではないか。

理想上の作品をモナリザで仕上げたダ・ヴィンチはスフマートで輪郭線をぼかしてしまったからそうした見本にはなり難いわけだし、線と面のイメージのバランスが究極的に取られている様子は芸術そののものを教えてくれるにせよ、美しさだけが真実とはかぎらないように少しでも醜いかぎりにおいて他の全ての作品がさてはゴミと捨て去られはしなかったという事実も正しいのではないか。


ティツィアーノは誰よりも日常生活を綺麗な世界として描き出した画家だったと思う


サン・マルコの鐘楼からのヴェネツィア市街の眺め

当時、イタリアでは芸術というとダ・ヴィンチやミケランジェロを含むフィレンツェ派とティツィアーノを含むヴェネツィア派から二極化されていたようだけれども手法においてデッサンと色塗りから対照的に語り継がれてもいるんだ。


個人的に気になるのはやはり思想が合わないせいではなかったか。フィレンツェ派はデッサンによって芸術を根本的に見詰めながら美しさから、ヴェネツィア派は色塗りによって綺麗な世界を特異的な造形から捉えていたと考えられる。結果として人々の身近に寄り添うのは理想よりも事実への作風が凄まじく良いためだとティツィアーノが高い高い好感度を示す通りに受け取れば首を傾げるのも可笑しいだろう、世の中で画家の王と呼ばれた十六世紀のルネサンスにかぎっては純然と。


ティツィアーノはフローラで線と面の風合いの揺らぎを頼りに彼自身の全てを象徴的に物語っているところが面白いし、感動させられるんだ、一人の人間が頑張って創作した絵として。


普通だし、やおらダ・ヴィンチの超絶なスタイルやミケランジェロの壮大なアイデアと比べれば平凡そのものなのも本当に明らかではないか。しかし素晴らしいのは事実こそ人間に可能なかぎりの理想も及び付かないほどにリアルに捉えていたという。日常が綺麗で、他には何も要らない世界が生活に舞い込んでいる絵だとすれば味わうほどに幸せな気持ちとしか呼べないだろう。


嬉しさの余り、フローラとの出会いにはぐらかして指摘すればいっそティツィアーノは何一つ表には出さなかった。裏を考えても人それぞれの気持ちが待っているに過ぎないくらい印象が透き通っていた。誰も知ってはならないからどんなに引き付けられても人肌が恋しいどころか別れが惜しまれさえもしないまま、格好良いんだ。


参考:ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 日曜美術館「ティツィアーノ ヴェネツィア 欲望の色彩」

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