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読む気スラスラの君たちへ守るべき沈黙の作家には抜け出せない涙

もしかしたら僕だけど、君たちも読む気スラスラだから困る、昨日の午後から自作へ気が狂いそうで。


可笑しいし、本当に正気を失ってしまうならば素晴らしい思考が見付かった。経験そのものから精神とは何かを知るべき手がかりになる。というか、君たちへ送り届けるのが詩以外では非常に難しい言葉遣いを迫られずにいない世界へ生き出しているんだ。


詩と思考の命題は厳しかった。なぜなら哲学を批判しなければ永遠には辿り着けないからだ。スピノザの教えで終わらせるわけには行かないという実情はもう既に些細な日常の一つで示したはずだし、作家としても繰り返す必要はないだろう。


明かしておくべきなのは気持ちだけだ。それが分かったから脳味噌が飛び散りかけているとは漫画でもなければ涙としか呼べない。人は悲しくて泣くわけではないし、漫画ならば本当に喜んでいる可能性もあるわけで、またはゲームでも同じではないか、重要なのは泣くという涙を伴った経験としての《気持ちのメカニズム》を捉えながら君たちへは詩以外に守るべき沈黙だろう。


悩ましい。だから心苦しくも待つ。思考が開かれるまでは気持ちの向かない精神の冬だったとも過言ではない。実地には思いだから注意しよう。彼処で気持ちでは余りに歌い過ぎていた。とすると詩も又悩ましく新しく作り出され得る。ないか、そうでは。涙を包む全ては人生のためならば言葉遣いは定義されないと唱えても良い。


渋い宇宙が生まれて間もなく可愛いらしい手を伸ばして来るのだから今此処はParadiseの引き写しかも知れない。


僕はサイトのアクセスアップで生活費が稼げる暁には改めて作詩するつもりもないわけではないし、メインのブログとは又別の夢を掴んでしまっているけれども余りに歌い過ぎるという小さな小さな悲しみを今直ぐには将来へ取り上げてはならないと認めている。


時として、何かある単純な矛盾があったというだけのことで自殺してしまうような意識があるものだ。そのためには、はっきりそれとわかる、分類済みの狂人である必要はない。それどころか、健康で、それなりの理由があれば充分なのである。



引用も過度だからイメージが完全に被っているのは驚きにせよ、既視感の思い出に数えられるかも知れない、久しくも著しくこそ。


君たちから僕へのスラスラの読む気は「健康」ではないか。ならば僕の君たちへの守るべき沈黙が「それなりの理由」でなければ落ち着きは取り戻されるだろう。安らいだ気持ちが精神に思考を与えるに違いないけれども「分類済みの狂人である必要はない」か、さては発狂する寸前に脳味噌が逆回しに現実性を帯びる様子は引き付けられずにもいないし、不思議そのものではないか。


もう駄目だ、知覚は無能力に纏め得ないと存在ごと吹き飛ばされるはずだった一人の人間の問いかけが合理性によって造作なく払い除けられてしまったようだ、世界において。


僕は現実性の後に夢を並べた。作詩したいのにブログの些細な日常によってエッセイ風の日記をやっているのはなぜかは簡単だ。


いうかどうか、涙のために。君たちはアクセスアップだと思っているし、生活費だと考えている。正しい、僕が口に出している通りだし、疑い得ない。しかし読む気がスラスラだと僕は感じた。他にも何かを書いて欲しがっている君たちに囲まれながら作家として素晴らしく認められた光栄の中で、一瞬でも過らなかった沈黙がなかったとは詩人として心から後退りするべき推し量りが怪しまれた。


伊勢海老を見詰めながら酸素ボンベを背負わずに海中でどんどん息が切れて行く知覚へ呼びかける天使たちも気泡でしかなさそうだ。


沈黙を守りながら却って嫌気が差されるかどうかが人々ではない。知ってくれ、これだけは。思考のドラマに戦く私たち、ロマンの情緒に奮う俺たち、そして僕たちはポエジーを掴んだというと日本語の主語のイメージの三つの精妙な味わいに打ちのめされながら感動的なまでに気持ちとして束ねた拍子に条件付けられた言語として国家的に抱き締めるにせよ、第二次世界大戦の後では人道的に認識こそ憚られてならなかった。


日本は同盟国のドイツとイタリアと足並みを揃えつつもかつてファシズムの体制ではなかった。昭和天皇は独裁者ではないという事実が物語る歴史に触れるままに自然に尊ばれる真実があるとすれば母国語へ先ず以て節制を訴えざるを得ない。


主体的に人称代名詞を捉え直すこと、どんなに固有名詞のようにバラエティーに富んだ私たちや俺たちや僕たちが目の前に躍り出たとしても求め切れない思想のかぎり、総じて関与する自分たちへも結論は同じものではないだろうか。


だから君たちへは論理的にいって涙を禁じ得ない。飛躍すればどうだろう。僕が沈黙を破ってスラスラの読む気を君たちと同様に自分たちから削ぎ落とすなんて辛い。創作家だから確かに詰まらないと折角の栄光が落日を迎えるままに放っておくのは勿体ないかぎり、やはり涙のためにそっとしておくだけが良い。


自己表現にとって必要ならば思考は芸術と学問に席を譲るばかりだし、まさか知識へ向けて指摘するつもりはないにせよ、僕と君たちの涙はそれ自体ではスラスラの読む気を介しての沈黙なしには合理的に分からないから気持ちそのものは慌ただしさを再び増して来てしまうのも本当なんだ。


死にたい。嘘だ。だから正しく引き起こされる真実が厳めしい。どうして不本意に自殺せざるを得ないのか。最後の最後までズタボロに引き裂かれた状態なんだ。内面ではなくて世界よりも彼方そのものと思考されるならば《主体性からの絶望》と精神は概念化するだろうか、果たして。


気分上、日本の茅葺き屋根がゴシック様式の中世ヨーロッパに美意識で通低している比較文化論を尻目にインターネットでメンタルメンテナンスを呼びかけるのも手遅れと受け入れざるを得なかった。


本当に狂おしい。悩ましくて虚しい世界を知ってしまった、詩以外で――。


哲学も有用だ、よもや。詩人の言葉のように方法、または知性を生きられるせいではないか。


僕も君たちも夢見る作詩に目を瞑りながら速やかに耐えていた。幸いにも死んでないし、意を決して自殺も手控えられた時空だ。とにかくアクセスアップで生活費を稼げるかどうかへ思考を振り向けようではないか。言葉に頼らず、方法、または知性へ命を吹き込んでこそ世界は《内面化された存在》を精神的に変えて行く。すれば言葉もさらに見聞されるはずだ。


気持ちの安らぎが示した合理性とは訓戒か。今直ぐに立ち上がれなかった将来への情けなさを超越するかぎりでしか夢は現実性の後に置かれなかった。認識において精神は様々な観念の結び付きを快適に内包していると覚えておきたい。取り逃がすと気持ちは落ち着かないし、日々の習慣によって俯瞰された許容範囲、すなわち人生の見取り図を情動から示しながら偶然に傷付けられ兼ねないだろう。


僕が歌わない詩人でいられるのもそのためだった。詩なしにというか、何一つ新作を手がけるつもりもないままに詩人といい張っていると噛み付かれた。狼が襲いかかって来る。しかし大丈夫だった。


食い千切られた肉こそ祈りの趣きだった。君たちも他人事として味わうならば泣き笑いの二律背反からリアリティーを剥奪せよ。飽くまでも趣きでしか祈りではないと僕が食い千切られた肉を命じているにも拘わらず、歯向かわれるならば別れを惜しむ間もなく、人それぞれだったらしく、逸早くは頷かれたばかりの気持ちだろう。


僕が何を感じるか。引っ張って引っ張って聞き耳を立てる誰かが君たちへ凝縮されて行く仕方こそ言語上は思考でしかないはずだ。君たちが感じている柴犬、騙されて堪るか、狼と名付けられてもいっそ。言葉の謎を紐解くようにもはやミクロのさよならだけが切ないと僕は感じるといって良い。生命を秘めた柴犬ならば精神からミルクと捉え返しても逃げ隠れはせず、永遠に可愛いかぎりだったよ。


細切れの涙、沈黙も守られるほどに君たちの僕は遠ざかって行く。僕も君たちを解き放って自作への恍惚がイメージの森から馬の群れに追い越される前に休むだけが素敵な生活だ。スラスラの読む気も慣れると僅かで期待されるし、作家として十二分に満ち足り得た。


猿が近付いて来る。光の行く末から溢れ落ちたせいで、まるで宇宙塵ではないか。理性の効果をくれる。社会のそばで、胸が軋んだ。

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